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咬爪症の女  作者: 武田コウ
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あの日、あの場所

 ぼんやりと車窓から外を眺める。


 右から左へと流れていく景色。通りすぎていく建物、街を紅色に染める夕焼け。適度に空調の効いた電車内、ゴトゴトと足下から感じる振動が少し心地よい。


 小さくあくびをする。まだ少し寝足りないようだ。


 会社とは逆方向の電車。この十年で、景色は少し変わってしまったようだが懐かしい景色だった。


 僕は今、通っていた大学へ向かっている。


 膝に置いたバッグの中には、昨日徹夜で書き上げた原稿用紙の束。何故自分の書いた小説を持って大学に向かっているのか、自分でも理由を上手に説明することができない。


 しかし、何故か家を出たときはソレが自然な事に思えたのだ。


 大学の最寄り駅に着くまで、まだ少し時間がある。


 電車はあまり混んでいないため、席に座る事ができた。


 窓から差し込んでくる夕日が少し眩しい。こうして電車に揺られながら大学に向かっていると、当時の事を思い出してしまう。


 大学時代は、楽しかった。


 花沢に出会う前も、花沢に出会って、心が折れた後も、結果的には楽しかった気がする。 当時、僕はまだ若く、悩みらしい悩みも無かった。花沢の才能に打ちのめされ、小説がかけなくなった時も、一時的なものだと気楽に考えていた。


 つまらない講義に出席し、文句を言いながら仲間と供にレポートを仕上げ、後輩を連れて飲みに行く……。


 今はもう手に入らない青い日々。


 あの頃の僕と、今の僕とではまるで別の人間のようだと、そう感じる。何も考えず、幸せに生きるには、僕はあまりにも色々な事を知りすぎた。


 電車内のアナウンスが、駅名を告げる。どうやら、考え事をしている間に目的の駅に着いてしまったようだ。


 ゆっくりと立ち上がり、ホームへ下り立つ。


 凝り固まった首を回して、筋肉をほぐしながら改札から出た。


 学生の頃に何気なく見過ごしていた、懐かしい街並み。夕日がゆっくりと沈んでいく。もうすぐ、夜が訪れようとしていた。


 確かサークル活動の関係上、大学は夜の10時までは門が開いていた筈。昔の記憶を思い出しながら、大学に向けて歩き出す。


 しかし、今更大学に行って、僕は何をしようとしているのだろう?


 わからない。


 でも、大学に行かなくてはならない気がした。


 そんな思いつきで行動するなんて、愚かだとは思うのだけれども……。


 どうせ予定も無いのだ、別に思い付きで行動するのも悪くはないだろう。と、そこまで考えた時に、僕は先日からスマホの電源を切ったままにしていた事に気がついた。


 執筆の邪魔になると思って電源を切ったのだが、今はもう執筆は終わっている。靜香からのデートの誘いがあったら、無視してしまっては都合が悪いだろう。


 そう思い、スマホをとりだそうとバッグを探すが、中には書き終えた原稿用紙しか入っていなかった。どうやらスマホは家に置き忘れてきたようだ。


 スマホを家に忘れるなんて、久しぶりの事だった。


 いつ何時、緊急の連絡が入っても良いようにスマホを常に持ち歩くようにしている。スマホを持たずに外出するなんて、何だか少し心地が悪い。


 まあ、いいか。


 今から家に戻っても、大学に行ってから戻っても同じ事。もし、靜香からの連絡が来ていたら、後で謝ることにしよう。


 しばらくして、大学の正門にたどり着く。夕日は完全に沈みきり、静かな夜の時間が訪れていた。


 

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