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咬爪症の女  作者: 武田コウ
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夜明け

 自分の中にある物語を、作業机の上に置かれた白紙の原稿用紙に落とし込む。


 長い間自分の中にため込んでいた物語が、文字となって紙の上に現れていく様は、何だか不思議な感覚だった。


 ぬるくなったコーヒーを口に運ぶ。熱くも無く、冷たくも無い中途半端なコーヒーは、正直嫌いでは無い。


 安もののコーヒーの、苦いだけで香りの立たない味が脳みそを覚醒させる。


 体は疲れ切っているだろうに、まったく眠れる気がしない。


 だから、もう少し先へ……。


 まるで、十年のブランクを埋め合わせるかのように、僕の右手はただ機械のように物語を紡ぎ続けた。


 文章をより美しくだとか、構成をおもしろくだとか、万人受けする設定だとか。今まで培ってきた技術の全てを投げ捨てて、僕はただ僕のために物語を紡ぎ続ける。


 面倒くさい大人のしがらみを捨てて、ちっぽけな自己満足の為だけに万年筆を動かす。


 机の上に置いていた、スマートフォンのバイブレーションが震えた。メールか、LINEかわからないが、何かの通知がきたようだ。


 集中が途切れてしまった僕は、少し苛立ちを感じて内容を確認もせずにスマートフォンの電源をオフにする。


 外界との繋がりを断ち切った僕は、喉を潤すためマグカップを持ち上げ、中身が空になっている事に気がつく。


 小さなため息をついて立ち上がる。


 空のマグカップを持って、コーヒーメーカーの元まで歩いた。


 追加分のコーヒーをマグカップに注ぎながら、壁掛け時計で現在の時刻を確認する。どうやら長い間執筆をしていたようで、時計の針は深夜の三時過ぎを示していた。


 時間を忘れるほど、何かに熱中した事が最近あっただろうか?


 覚えている限りでは、それはエラく久しぶりな感覚だった。


 社会人になってからの僕は、何をやるにしてもほどほどで、時間を忘れるほど熱中するなんて事はしなくなったように思う。


 よくも悪くも、僕は大人になってしまったのだろう。


 そして、それが悪いことでは無いという事もわかっている。


 コーヒーを並々と注いだマグカップを持って、作業机に戻る。書きかけの原稿を眺めて、自分の字の汚さに苦笑した。


 この物語を完成させたところで、今後の人生の役に立つとも思えない。


 これがきっかけで作家になるなんて事も無いだろうし、誰かに作品が評価されるなんて事も無いだろう。


 それでも良いと思えた。


 ただ、何の役にも立たないこの時間が、たまらなく愛おしかった。


 夜は、ゆっくりと更けていく。

 













 締め切ったカーテンの隙間から、小さな光が差し込んでいる事に気がついた。


 眠い目を擦り、マグカップからコーヒーを飲んでからゆっくりと立ち上がる。カーテンを引くと、薄暗い部屋を淡い色の朝日が照らし出した。


 どうやら夜が明けたらしい。


 徹夜で小説を書いていたという事実は、まるで学生の頃のようで少し照れくさいような気がする。


 窓を開けると、爽やかな朝の風が吹き込んできた。


 大きく伸びをして部屋を振り返る。


 朝日に照らされた作業机の上には、つい先程書き終えたばかりの原稿用紙の束が、どこか満足げな顔をして鎮座していた。


「さて」


 僕は呟く。


「少し寝るとするかな」


 久しぶりの徹夜の作業は、予想以上に体を酷使していたらしい。猛烈な眠気に襲われた僕は、そのままベッドに転がり込んだのだった。




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