4.悲しい物語②
ニシキは拳銃を放てなかった。引き金を引こうとする。人差し指に力が入らなかった。怒りはあったはずなのに、どうしてもその怒りを弾丸に込めることができなかった。
『殺されるのは、俺か。それならそれで構わない』
ゆっくりと目を閉じると沙希の笑顔が浮かんだ。たった一つの幸せだった。もう二度はない。
『天国は僕ら二人の生活を永遠に与えてくれるだろうか?でも俺みたいな奴は地獄だな』とニシキは思う。
カズは弾丸を放たなかった。ニシキは弾丸が自分の心を突き抜けるのを待っていた。でもそれはいつまで経っても来なかった。
「どうした!怖気づいたか?ニシキ。俺を恨んでいるんだろ?さあ殺せよ」カズはニシキに吹っかけてくる。「俺が悪いんだろ?それなら俺を殺せばいいだろ?どうした?そんな事も出来ないのか?ほんとに何も出来ねえ野郎だ。俺がいなけりゃ、おまえは何も出来ないな。結婚詐欺もうまくなんていかなかったさ。おまえは何一つ出来ない野郎だ」
辺りはすっかり闇に包まれていた。
外には先ほどのような荒れた音が消えていた。僅かな街灯の明かりが二人のいる0.5階の部屋まで入り込んでくる。その僅かな光を頼りに二人は互いの姿を確認している。
ニシキは何も言わない。言葉さえも発せない。
カズは言葉を投げ続ける。
「おまえは自分の彼女を失ったと言った。俺はおまえの彼女を生き返す事もできるだろう。俺はこの世界の全てを支配する人間だからだ。最初からおまえは勘違いしていたのさ。冥途の土産に教えてやるよ。この世界は俺の為にある。左の男も右の男も俺の遣いにしか過ぎない。そしておまえも俺が作り出した弱い心の塊にしか過ぎない。おまえを支えていたその彼女が俺には邪魔だったんだ。おまえみたいな奴が幸せに生きようとすることが嫌だったんだ。俺はおまえがとっとと死んでくれると信じていたよ。ブルーモンキー団を使って、おまえの彼女を殺したのは俺さ。わかったろ?殺したのは俺なんだよ!」
ニシキは多くの部分で理解できなかった。
でも沙希を殺したというカズの声によって、ニシキのリミッターは外されてゆく。脳に全ての感情が集まってくる。あるはずの落ち着きは消されてゆく。怒りは理性を突破しようとしていた。
だけど、それでも引き金を引くことはできなかった。
目の前にいる男はニシキがかつて知っていた男ではなくなっていた。ニシキが好きだった地位や名誉や財産なんて気にしない気楽な男はいなくなっていた。
目の前にいる男はニシキが嫌いな地位や名誉や財産を口にする男になっていた。
でもそれは自分とて変わらないと感じた。沙希に会わなければあのまま結婚詐欺に溺れ、たくさんの財産に囲まれて生きていたことだろう。
そう思えばニシキは目の前にいる男が自分と差して変わらない男であると理解できた。
小さな同情心が怒りを消してゆく。本当に心から何も知らない男が相手なら、引き金を引くことはできたかもしれない。でも目の前にいる男は、自分が知っている部分を持つ男だった。その男に弾丸を放つことはできそうになかった。
「どうして、カズさんは沙希を殺したんだ?俺にはわからない。あなたにはそんな真似ができるはずがない」
「俺はこの世界を支配している。何だってできるさ」
「そうであっても!あなたは、そんな事をする人間じゃない!そんな事をするには何の意味もなかったはずなんだ!あなたは嘘を付いている!全部嘘ばかりだ!」
「弱い!弱すぎる!くだらない!さよならだな。ニシキ君」
そして銃声は響いた。静まり返った世界に一発の発砲音が響いた。
ニシキは男の影が2階へ抜ける隠れ口から消えてゆくのを見ていた。
弾丸は自分が放ったものでないのはわかっている。弾丸は自分に向けられて発砲されたものだ。
弾は、どこへ行ったのかわからなかった。ただわかったのは、自分のどこかから血が流れ落ちていて、自分の意識が少しずつ無くなってゆくということだけだ。
とても体中が痛く、痛みが体中を麻痺させていた。もう動くことはできそうになかった。
自分はこのまま死んでゆく。
『死ぬとはこういうものなんだな。沙希が死ぬ時もこんな感じだったのだろうか?』
死ぬときは走馬灯のように過去を思い出すというがニシキは何も見えなかった。沙希の姿でさえ、うまく思い出せそうになかった。
あなたは幸せですか?
幸せを感じて生きていますか?
幸せのない人生なら死んでしまったほうがいい?
それでも、死ぬのは、悲しく、寂しいものだ。
できることならずっと死にたくはない。
できることならずっと君と一緒に生きていたかった。




