10.不幸な物語
2024年1月、治安維持活動のため自衛隊が出動し、国とブルーモンキー団の戦争が始まった。
約80年間続いた平和は、国外からでなく国内の内乱により崩れた。
世の中は失業者で溢れ返っていた。強盗や犯罪は日常茶飯事となっていた。
ニシキはアパートで、日々何気ない毎日を送っている。
ゴミの山にいた時も現実感のない毎日だったけど今もまた現実感がない。
ここ最近、沙希は田舎の両親とよく連絡を取り合っている。田舎に戻ってこないかという親からの誘いだ。
現状からして田舎の方が遥かに安全だ。実際に田舎に帰ってしまう人は多い。都会の出身者も田舎へ逃げているという。
「わたしたちも田舎へ行かない?会社ももう潰れそうだし、そしたらもう暮らしていくお金もなくなっちゃうし」
沙希は誘う。ニシキは沙希の親に会ったことがない。現実の話で言えば結婚だのなんだのといった話もある。礼儀とかなんだとかかんだとかもある。
「俺の生まれた家は前も言ったように酷いものさ。もう10年も親には会っていない。そんな俺が君の両親の家に行くっていうのはどうかと思うんだ」
沙希は残念そうにする。
「本当は、ニシキ君も両親と仲良くしてほしいけど、今はいいから、こういう状況なんだし。とにかくわたしの田舎に一度行こう?」
ニシキは頭をポリポリして少し考える。
沙希の両親と暮らす当り前の幸せな生活には、どことなく慣れない感じがする。ニシキは今の貧乏生活にはどことなくしっくり来るものを感じている。
でも世の中は日々現実感を失い続けている。ニシキに欲しいのは、毎日を暮らしてゆくための小さな当り前の幸せだ。
ブルーモンキー団は貧乏人を助けるのではなく、小さな幸せを壊そうとしている。それには強い苛立ちを感じる。
「わかったよ。少し考えてみる」
「考えてみるじゃなくてさ!」
そう言う沙希の声を振り切って、アパートの玄関へ向かう。
ドアを開くと外は静まり返っている。どこでどのような戦争が行われているのかわからない。
「ちょっと出かけてくる。家にはしっかり鍵を掛けとけよ!」
「帰ってきたら、答えを出してね」
沙希は歯がゆそうに怒った目で言う。
「ああ」とだけ答える。
ニシキは何となく過去を振り返りたくなった。その中からどこかにある答えを出そうとしていた。
※
冬の冷たい風が吹いていた。それでも空は青々と晴れ渡っていた。
自分の目で見る世界には戦争なんてどこにも起きていないかのような平和な街に見えた。
『当り前の幸せを送るための生活を僕らの社会は、いつどこでどうやって失くしてしまったんだろう?』
苛立ちがどこからともなく溢れてきた。うまくいかない歯がゆさが心を揺らしていた。
電車を乗り継ぎ、駅から歩いて、海沿いにあるゴミの山の近くの公園まで来た。ニシキは昔、その辺りの路上で生活をしていた。
あの頃の自分がいかに歪んだ心の持ち主だったかを思い出す。それと同時に今の自分がいかにまともな人間かも思う。
何一つ信じられなかったあの頃の自分を変えてくれた沙希が、いかに自分にとって大切な存在なのかを考えさせられる。
今も路上生活をしている全ての人間は、寒さに震えながらもそれぞれに上手く生きている。カラスやハトのように、ちゃんと生きている人間のおこぼれを貰って生きている。
こんな時代になっても、どこであっても人はそれなりに生きていける。
地獄の弁当工場を思えば路上生活の方がよっぽど気楽だ。
あの頃の自分を思い出すと、今の自分は本当の自分なのか疑問を感じてしまう。まるで誰か別の人間が勝手に描いた物語の主人公を、自分に与えているのではないかとさえ感じる。
その主人公はこう言った。
『お金は要らない。地位も名誉も要らない。有名になりたいなんて想いは要らない。ただ当り前の幸せを与えて欲しい』
そしてその願いは叶えられて、彼は彼女と共に今を幸せに暮らしている。
ニシキはその自分を振り返り、今自分にある環境を大切にしたいと思い直す。
ゴミの山はずっと向こうなのにとても臭う。漂う悪臭は数年前より増しているかのようだ。もうあそこに戻る必要はない。
再び駅に戻り、電車を乗り継いで、今度は昔の知り合いが住んでいた場所を訪れた。ゴミの山で少しだけ一緒にいた仲間で、ニシキがカズさんと呼んで慕っていた40過ぎのおじさんだ。
当時のニシキは心が腐っていたが、そのおじさんだけは敵とも味方とも感じることなく、一緒にいられた。なぜなのかはわからないが、そのおじさんがいなければ今の自分がいなかった。時々彼のことを思い返す。
訪れた街の、訪れたビルの、地下0.5階まで来てみた。カズさんはそこに住んでいた。今も住んでいるかはわからない。
彼には小さな子供が一人いた。その子はカズさんの子ではないそうだが、どことなく彼に似ている気がした。
ビルは変わっていない。数年前と何も変わっていないようだ。
ドアを開けようとする。
しかし入口のドアは開かなかった。ドアは閉ざされていた。
「あんた、そこの人の知り合いか?」
誰かがニシキに尋ねた。
ヤバイと感じる。その人物は警官だ。かつてニシキは結婚詐欺をやっていた。何がバレてここに来たのかもしれない。会ってはいけない人物に会った気がした。
「んん、ここって閉まってるの?」
とっさにニシキは知らないふりをした。
「どう見たって閉まってるでしょ?」
私服の警官はニシキに言う。
「そうか、そうか」
そしてニシキは立ち去ろうとする。
「おい、ちょっと待ちな」
「何か?」
「俺の名前は馬込っていうものだ」
「何か?」
「ここの奴はブルーモンキーと何らかの関係を持っていると俺は掴んでいる」
ピンと来る。左の男の顔がとっさに脳裏に浮かぶ。
「はあ、ご苦労様です」と、とぼける。
馬込はじっとニシキの顔を眺める。ニシキは昔から得意としていた薄ら笑みを浮かべる。
「まあいいか。あんたの顔は覚えておく。今度どこかで会ったら、その時にまた話そう」
「はあ」と、知らないふりをしてその場を後にした。
時は自分の知らないうちに、遥かに動いていた。もう全てが変わってしまったようだ。全てが過ぎ去ったことを感じる。
『自分は今ある幸せを守るしかない。そのために格好つけている暇もない』
自分にそう言い聞かせる。
もう過去に帰ることはない。ずっと先にまだ見ぬ未来が広がっている。
※
ニシキは少しウキウキした気分で、沙希の待つ家に帰った。
アパートのドアには鍵が掛かっていた。鍵を掛けろと言ったのは自分だ。だから掛かっていて当然だ。
合鍵も持っていたがチャイムを鳴らした。ドアを開けてくれる沙希に会いたかったからだ。
でも部屋のドアは開かなかった。チャイムを3度鳴らした。でも沙希は出てこない。
物騒だからそれでも安全を考え、開けないのかもしれないとニシキは考えた。
ドアを叩いて『俺だよ』と言ってもよかったが格好悪いので自分の持つ合鍵でドアを開けた。
ドアを開くと部屋の中は真っ暗だった。寝るにはまだ早い時間だ。靴を脱ぎ、ダイニングキッチンを過ぎ、部屋の中に入る。
沙希はどこにもいない。
まさかクローゼットの中に隠れているわけでもない。一度キッチンまで戻って、トイレのドアを開ける。そこにもいない。
暗闇の風呂場にももちろんいない。彼女はどこかに出かけたようだ。
部屋に戻り、一人テレビを見ていた。何だかよくわからないクイズ番組を見ていた。
ニュースを見る気にはならなかった。ただ時間が過ぎてゆくような番組を見ていたかった。
時間が過ぎても沙希は戻ってこなかった。
部屋を出て、公衆電話に向う準備をした。玄関で靴を履いて、それを思いとどまった。
彼女は帰ってくると信じたかった。帰ってこなければ、何らかの理由で自分の下を去ったのだと考えるべきだ。
実家に一人で帰ったのかもしれないとも考える。その理由はある。ニシキが沙希の親に会うのを嫌がったから一人で帰ったとか、とりあえず先に一人で帰って、後から家に連絡するつもりでいたとか、そうも考えられる。
でもそう考えるにはいささか不可解だった。沙希は何のメモも残さず行ってしまったということに考えにくい。
あれこれ考えるのを一度忘れようとニシキは眠ることにした。
冬の寒さが眠りを誘っていた。お腹は減っていなかった。疲れていた。そのまま眠りに就くことはそれほど難しい作業ではなかった。
まだ暗い時間に目が覚めた。
沙希は帰っていなかった。
翌日に警察が訪れるまでニシキには何が起きたか知らないまま半分眠ったような時間を過ごした。
※
翌日、警察官が沙希とニシキが2年と少し共に暮らしたアパートへやってきた。
若い警官はニシキにこう告げた。
「彼女は亡くなりました」と。
強盗を働き、暴走していた車に轢かれて亡くなった。健康保険証を確認したところ彼女だと判明した。
身元は会社の社員に確認しているが、あらためて彼女の両親に確認してもらおうとしている。
その警官は何かの間違いだと困るので一応彼女が住んでいたアパートを訪れたという。
淡々とした説明だった。
「失礼ですが、あなたはどのようなご関係で?」
警官はニシキはそう尋ねる。
「ちょっとした知り合いです」
ニシキは平静に答える。
「彼女のご遺体に会われますか?」
「いや、その必要はありません」
その若い警察官は深追いしようとはしなかった。忙しかったのかもしれないし、面倒な私用に立ち入るつもりはないと気を遣ったのかもしれない。
警察官が去った後、ニシキは残された現金と、沙希が隠していたいくらかのへそくり(沙希はニシキに知られていないと思っていた)を持って、家を出た。
平静を装っていたけど、実際はかなり混乱していた。何が何だかわからなかった。わからず理解もできていなかったけど、ニシキはこれ以上ここにいてはいけないんだと感じていた。
どこへ行けばいいかはわからなかった。行き場なんてなかった。
でもそれが当り前。いつも行き場なんてなかった。それが今までの普通だった。この2年半がイレギュラーだっただけだ。
ニシキは思った。
『不幸は伝染する。きっと俺が沙希を不幸にしたのだろう』
深い悲しみはない。
ただ昔のニヤニヤした。嫌な笑みがニシキの口元には昔のように浮かんでいた。




