1.不幸の始まり
たくさん断られ、たくさんの書類を書いた。仕事に就くために何か必要な資格があれば、ニシキはその為の努力を惜しまなかっただろう。でも資格が必要なかった。今は沙希の為に仕事をしたいという思いだけが強くあって、職業を選ばない限り、仕事に就く為には何の資格も必要なかった。
なんでも構わない。
その結果として仕事に就くことができた。弁当工場の作業員という仕事だった。
たいした種類の仕事ではない。それでもろくに社会経験のないニシキにはそれだけで十分な仕事だった。
「よかったね」と、沙希は言った。
「ああ、これで沙希も学校の先生を辞めて、別の仕事を探せるね」と、ニシキは答えた。
二人は二人の未来を祝して簡単なパーティーを開いた。何度目かのパーティー。いくつもの安らぎ。
『ここに幸せがある限り、僕はどんな試練も受け入れられるな』と、ニシキはそう信じるのだった。
季節は春になっていた。
窓を開けると心地よい。気温はまだ低いけど、夜でも暖かい風が吹いていた。
二人にとって、とっても幸せな時間が続いていた。沙希は今持つクラスを最後に小学校の先生を辞める準備を進めた。全て予定通りに動いてニシキと沙希の未来には、明るい灯が燈されていた。
『きっと全てがいい方向に動いている。そして今ある幸せが続けばいい』
ただそう信じているだけだった。
それでも弁当工場での仕事は酷いものだった。
朝6時に仕事が始まると、昼の11時半まで休むことなく弁当の詰め込み作業が続く。世の中にはこれほど多く弁当を食べる人間がいるのかと驚くほどである。
昼飯は弁当の余りで、夜も弁当の余りが貰えるから食うには困らない。
午後は12時半から片付けの仕事が始まって16時まで処理が続く。8時間の労働で、日給5千円が貰える安い仕事だった。
何よりも嫌なのが、終ってからの反省会である。仕事は16時に終るのだが、そこから18時まで徹底した訓練としごきが始まる。
班長の草野が声を張る。
「おまえらわかってんのか?全然おせ(遅)ええええんだよ。そんなんじゃ間に合わねえんだよ!!」
仕事は皆、十分に早い。40人の作業員が一斉に動き出す。一人一人きっちり入れてゆく。
でも草野は一日中怒鳴り散らしていて、終ってからも怒鳴り散らす。
「今日のミスは40!!客にこれが渡ったらどうなると思ってんだ!!大クレームだ!誰が責任取んだよ!おめーらみてーな、下僕が取るのか?あああああああ」
最近狙われているのは大竹という40過ぎの男だ。大竹の顔に顔を近づけ、目の前で草野は声を荒げる。
「てっめえええええだろ。おい、おっさん、おせえええええんだよ。くせえええええんだよ。わかってんの!」
「はい」と、震える声で大竹は答える。
「じゃあ、ほら、1、2、3、4、5ってやれよ!」
五つの弁当箱に順序良く入れる訓練である。ああも怒鳴られたら、まともにできる仕事も出来なくなってゆく。
「いっち、にっ、さんっ」と大竹はやってゆく。
「おめえええええらもだ!!」
そしてみんな同じように弁当に詰め込む練習をする。この2時間が地獄だ。
帰りのロッカールームで田中という男が入りたてのニシキに教えてくれた。
「いや、うまく行って、金が増えて、よりいい仕事に就けるんならいいよ。でもさ、失敗が目立てば減給され、毎日怒鳴られる。普通仕事っていうのは徐々にできるようになっていくもんだろ?でもここは違う。単純作業だからさ、逆なのさ。最初は出来ても、徐々に嫌な気分になっていって出来なくなっていくんだよ。そうなって辞めていく。いや、そうなる前にそうなるのが恐くて辞めていく奴がほとんどだけどな。だからここで働いている奴はどんなに長くったって1年ちょっとだな。大竹さんだけは2年。あの人は駄目なんじゃねえ。駄目にされたんだ。本当は誰よりも出来がいい。駄目にされたら終わりだ。たとえ仕事が無くなっても、そうなる前に辞めるんだな。俺も後数ヶ月したら辞めるつもりさ」
でもニシキには沙希との暮らしがある。得た仕事を簡単に辞めるわけにはいかない。
今日で1週間、仕事はきつい。とても嫌だがそれを気にしていたら暮らしてはいけない。
『目を瞑るんだ。ここには当り前の生活がある。帰れば沙希が待っている』
ニシキは笑顔を見せる。
「いろいろ教えてくれてありがとうございます」と、田中に答える。
「はは、笑ってられんのも、今のうちだな」
彼は笑顔のニシキに答えた。
※
家に帰ると、全ての悪夢から覚めたように温かい家庭が広がる。心の疲れを癒してくれる沙希の姿にニシキは安らぎを感じる。
沙希が仕事を辞めて1ヶ月が経つ。ごたごたはあったけれど、全ては過ぎ去ってしまえば穏かな毎日が続いている。
彼女がいなければ確実に今の生活を続けられなかっただろう。日給5千円の拷問には堪え切れない。沙希のいる1DKの部屋だけがニシキの心の安らぎである。
この安らぎを守るためなら地獄のような仕事に堪えられる。ニシキは天国と地獄を行き来する。
「今日もお疲れ様」と言って、沙希は微笑む。
「ああ、ホントに疲れたよ」と、ニシキは答える。
「ホント、酷い職場だね。どこもかしこもこの世界にはろくな仕事がないものね」
すでに弁当工場の激務を聞いている沙希は疲れた顔をするニシキにそう言う。
「まあ、しょうがない」と、ニシキは答える。
「すごいね。わたしならほんとに堪えられないよ。そんな怒鳴りつける奴のいる下で働くなんて」
「まあ、でも仕方ない。これは平和を手に入れた分との代償だ」
ニシキはそう言って、沙希の目を見る。
「そうかな。そんな事はないけど、そう思うなら、でもね、わたしも少ししたら仕事を始めないといけないと思う」
「そうかあ。俺がもう少し稼げればいいんだけどな」
「いいんだよ。わたしも働くよ」
「やっぱし俺も他の仕事を探したほうがいいかもな」
「んんん、それはそうね。だけど、わたしも探すよ」
「そうか。無理に働かなくてもいいさ。また嫌な気持ちになったって仕方ないしな」
「んんん、でもねえ。仕事って昔からこんなものなのかな?わたしたちが甘いのかな?」
「さあね。よくわからない。昔には生きてないからね」
「何をやってもつらいとなると、わたしはやっぱし働けないし」
「弁当工場のバイトだって皆一年経たずに辞めちゃうっていうし、それでも辞めた奴がどこかで簡単に死んじまうわけでもないだろ?皆どこかで生きているんだよ。何かして。いい仕事もあるんじゃないかな?」
「だといいな」
「焦る事はないさ。自分に合った仕事を探せばいい。きっとうまくいく」
「そうだね。あっ、シチューできたかな?」
そう言って、沙希はガスコンロの方に向う。
ニシキの知る限りこの天国が続く限り、心の挫けることもない。上手に生きてゆける自信がある。
2022年4月、ニシキは平和なシチューで夜を安らぐ。厳しくも普通の暮らしが訪れていた。




