3.恋の物語
沙希と出会って、連絡先を交換したのに、ニシキへの連絡は全く無い。
そこには苛立ちさえ生まれた。
『金も持っていない、ただの女に、俺が手を差し伸べているんだから、すぐに食いついてくるべきだろう!』という苛立ちがあった。
沙希は変わらない毎日を送っていた。
ニシキは沙希の後を付け、その行動をずっと追っていたから知っている。彼女は変化の無い日々を送っている。
毎日、学校へ通勤して、朝登校する生徒に挨拶をする。学校では夜遅くまで仕事して、一人暮らしのアパートに帰り、ビールを飲んで、一人愚痴を言っている。
お気に入りのアイドルグループに嵌っていて、その映像を見るのが唯一の楽しみだ。そのまま電気つけっぱなしで眠り、また朝を向かえ、急いで支度をして学校へ行く。
たまの休日はオシャレして現れる。オシャレな繁華街まで出て、ぶらりとお店に入るけど、給与が低いもろくに何も買えない。ため息を付いて仕方なく家に帰っていく。
一度だけ友人と会っている日があった。ニシキは話をしている姿を見たが、その友人と思われる女性にはお金を貸してほしいとせびられ、一万円を渡していた。
沙希の生活は冴えない。彼女はどうしてこんなくだらない毎日をいつまでもいつまでも繰り返しているのだろう?
ニシキは彼女の生活を観察するうちに疑問ばかりが生まれてきた。そして、自分とのセンセーショナルな出会いがあったにも関わらず、全く連絡してこないことに苛立ちを募らせていた。
しかしそんな毎日をさらに1ヶ月くらい繰り返していた時に、何の前触れもなく、沙希からの連絡はやってきた。
「はい」とニシキは電話に出た。
「あ、すみません。わたし、前に公園のベンチで会いました、加野沙希というものです」
「ああ、あの時の」
ニシキは『ついに来た』というを喜びを捨てて、素っ気ないふりをして応えた。
「あ、すみません。覚えていてくれました?」
「ええ、もちろん」
「あのお」
「どうかなさいました?」
「ええ、その…」
彼女の話はハッキリしないが、どうやら何かしらの話を聞いてほしいとのことだった。ニシキは快く返事をし、会う場所を指定した。
ニシキが沙希を招き入れたのは、空きビルの一室だった。その場所はニシキが知るいくつかの空きビルの一つだった。彼は自由に出入りができ、すぐに取り壊される予定の無いビルをいくつか知っている。
彼は沙希を尾行する一方で、その一室にいくつかの家具を持ち込んで、カウンセラールームとして擬似的な部屋を作って準備をしていた。
しばらくの間、ニシキはカウンセラーの簡単な本を読んで勉強をしていた。ニシキには自身があった。カウンセラーの真似をすれば彼女を騙せる。
数日後、その何もないビルのその部屋に沙希はやってきた。ニシキが部屋のドアを開けると、彼女は少し不信に感じている様子もあったが、ニシキの顔と部屋の様子を見て安心したようだった。
沙希をソファーに座らせ、彼はさらに彼女の緊張を解いていった。
そしてそっと彼女の過去の話をさせていった。子供の頃は病弱だったとか、親が喧嘩をよくしていたとか、そんな話だ。
ニシキはそれに対して、だから今あなたはそうなんですよと、いかにもそれらしいアドバイスを伝えた。さらに彼女の心理を読み取りながら十分な心のケアをしていった。全ては本に書いてあった通りの言葉だ。
「ありがとうございます。何だか、すっきりしました」と、沙希はニシキに礼を言った。それは本当に明るい満面の笑みだった。
『騙されているのも知らずに馬鹿だなあ』と、ニシキは感じながらも、「いや、それは何よりだね」と答えた。
「おいくらですか?」と、沙希はニシキに尋ねた。
「いや、今日はいいよ」
これからもっと金を騙し取るつもりだから、この日は要らなかった。
「いえ、困ります。そういうのは困ります」
沙希はそう言って、慌てて、財布から1万円を取り出した。
「これで、足ります?あ、もうちょっとしますよね」
「いや、ほんとにいいんだよ」
今日のところは本当に要らなかった。沙希はさらにもう一枚、1万円札を出して、テーブルの上に置いた。そして大きく頭を下げた。
「ありがとうございました」
沙希はそう言い残すと、スタスタとその空き部屋を出て行った。
『本当に、どこから、どこまで、バカな女の子だな』
そう頭の中で思いながら、2万円を取り、自分の胸ポケットの内に入れた。
騙すことは簡単だった。騙すことは楽に出来た。でもニシキは感じていた。
こんな風に沙希という女の子を騙して、いったい何になるのか?
何一つすっきりしない。似ていた女の子に嫌われた昔話に対する腹いせのつもりだったけど、ニシキは何の満足も感じない。ただの暇つぶしの遊びのようでもある。
本当はそうじゃない。ニシキはどこかで沙希に会いたいと感じるようになっていたのかもしれない。心はいつだって寂しいのだから。騙すとむしろ心は傷ついていた。
こんなはずではなかったのに。
※
何度も何度も沙希はニシキの下を訪れた。ニシキは詐欺師であるのも忘れていた。カウンセラーでさえなかった。
ただ、沙希の悩みを聞いていた。そして彼女が少しだけ元気になってくれることに嬉しさを感じていた。
「ああ、なんか、今日もすっきりしました」と、沙希はニシキに礼を言う。
「いや、そうだね。だいぶ元気になったね」と、ニシキは沙希に言い、机の下に隠し持っていたカウンセラーの本を机の中にしまった。
そして2ヶ月ほどが過ぎた。
平穏な日々だった。それも今日で終わり。ニシキはそう決めていた。
沙希からのはした金だけでは生活が成り立たない。そろそろ本格的な詐欺業務に戻らなければならない。
『金のない女から金を取っても仕方ない』
心の中でそう呟いた。
沙希から金を取る作業はむしろ心の痛むきつい仕事であり、彼は今日までの毎日を後悔した。こんなに心を痛めるとは想像もしていなかった。この結果が自分にとっても、沙希にとっても、何一つよくない結果を残していると感じていた。
「今日で終りにしよう。もう君は十分に元気になっている。仕事は来年春まで続けられるね」最後の日にニシキは沙希にそう伝えた。
来年春までというのは今持っているクラスの担当を一年間最後まで見るという約束を沙希にさせていたからだ。
「ええ、来年春まで続けます。でも、私は心配です。できればその日が来るまで、カウンセリングを続けてもらいたいのですが」
沙希はニシキにお願いしてきた。
「でも、君はもう十分に元気だから大丈夫だよ。いつまでもカウンセリングに頼っても仕方ない。もっと話せる同僚や友人を作って、話すことが大切さ」
「そうですね。先生もお忙しいでしょうから、いつまでも私の泣き言を聞いている暇もありませんしね」
「いや、別に泣き言だなんて思ってないよ」
ニシキは本心からそう答える。
「ありがとうございます。先生はお優しいですね」
沙希はそう言って、財布から2万円を取り出す。
『優しい?僕が優しい?僕のどこが優しいのか?僕はただの詐欺師。君から今日も金を奪うだけの男だ』
ニシキには何も理解できない。心が痛い。とても沙希の言っている意味が理解できない。
「もういいよ」と、ニシキは言っていた。
「何が、ですか?」
「お金はもういいんだ。実は取りすぎていたんだ。前々から、だからもういいんだ」
「嘘は困ります。そんなわけありません。取りすぎだなんて事は」
「いや、嘘じゃないんだ。本当にそうなんだ」
沙希はニシキの瞳をじっと見つめていた。
「いえ、先生は嘘を付いています。本当はそうじゃないんですよね」
いつからか、沙希は気づいていた。うすうす感じていた。
『この人はカウンセラーでも何でもない。きっとお金に困って嘘を付いて、私を騙しているのだろう』と。
それでも沙希は騙され続けていた。なぜなら騙されているとは感じなかったからだ。カウンセラーではないけど、一緒にいて、いろいろと相談に乗ってくれるその男性を沙希は好んでいた。だから沙希はずっと騙されていても構わなかった。それが沙希にとっての幸せだった。
ニシキは何も言えなかった。沙希が何を言いたいのかわからない。
だからただ素直に2万円を受け取った。それしかできなかった。これで終りだとただ感じていた。これで終るはずだった。
ニシキと沙希の関係は詐欺師と騙される女の関係でしか成り立たないはずだと考えていた。だからそれが終る日、全てが解消されるはずだった。
でもどうしてニシキはもう一度、沙希に会いたいと思ったのだろう。いや、それこそが素直な気持ちだったのだろう。それこそがニシキの本心だったのだろう。




