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短編集・散文集

心待ち

作者: Berthe

 水曜日の朝、(あや)()はふっと目を覚ますと、どうもまだ寝足りないような気がするところへ、すぐにピンと思い出すのは、昨夜のうちに相原(あいはら)さんへ向けて間違いなく送ってあったラインのことである。昨日は昨日でだいぶ遅くになっての連絡ではあったし、結局悲しくも返信が来ないまま自分が先にすやすや寝入ってしまったのも仕方ないとは思うものの、もしかしたら、というよりきっと、彼は自分が寝ている隙に返事をくれているはずなので、ここはちょっぴり楽しみを我慢してあとへと先延ばしにするため、寝床を起き上がり、窓を開けて両腕を伸ばすと、彩佳はいっぱいの朝日を浴びて、秋の日の爽やかな空気を吸いこんだ。


 それから洗面台に立つと何はともあれ歯を磨き、つづいてシャワーを浴びているあいだもいつもより元気な気がするのは、一週間ぶりの休みだというほかに、期待に胸が高鳴っているせいもあるだろうが、ひょっとしたら寝不足のせいでへんに頭が覚醒しているためかもしれない。とそう思うのは、彩佳は入社間もないレストランでの仕事のストレスと次の日へ向けての緊張で、おちおち寝られない日々が幾晩もつづいた時期があり、そんな折に眠い目をこすりながら体に鞭打って出勤すると、節々は痛むし、ことに肩から背中にかけて疲れが抜けないところへ持って来て、ときどきふっと脚の力が抜ける。それがお客へ運ぶ料理を載せたトレイを片手に持っているときだったりするので、彩佳は手足もろとも小刻みに震わせながら、その場にとどまりかろうじて耐えて、災難を回避した出来事も、自分で数えてみた事こそないものの、いつもそのたびごとに冷や汗をかいたのをハッキリ記憶しているのである。


 けれどもその反面、その日は妙に頭がくっきり冴えていて、朝のコーヒーもいらない気がしたし、事実飲まないまま接客していると、朝のうちはピンピンしていてかえって普段より集中しているほどなのだが、午後も二時を過ぎたあたりからガクッと頭の機能が低下しだして、それにつれて体の震えも頻繁になり痛みも一層ひどくなる。ようよう耐え忍びつつ暇を見つけてスマホでちょいと調べたところによれば、徹夜をしたり睡眠が足りないと、日中、麻薬に似た成分が脳内に発生してにわかに覚醒したのちその効果がプツンと切れるらしく、それが本当かどうかわからないし、また詳しく調べるつもりもまたその時間も彩佳にはなかったけれども、その記事を一度読んだだけで、今の自分の体調について説明してもらえたような気がしたのだった。


 思うに今日もきっとそうなので、午後になると次第にだるくなってくるのも、すでに目に見えていると言えばそうだけれども、でも今日だけはなるべくそれを避けたいと願うのはもちろん、相原さんと会う予定を立てているからである。相原さんに会ってしまえば、すっと疲れも消えるはずだし、でも、その彼から連絡がまだ来ていないとしたらどうだろうか。と、そう考えてみるだけでも今から恐ろしいので、体を拭く手を一度とめて、ことさらに首を横に振って自分で自分を落ち着かせてから、今一度拭いて着がえて、部屋の姿見の前にすわりこみ、時間をかけて丁寧に髪を乾かすうちにも、折々ちらちら横目に入るのは手帳型の薄ピンクのカバーに包まれたスマートフォンである。


 彩佳はそれへ腕を伸ばして引き寄せると、カバーをひらきかけた手を途端にとめて、そっと置き、それからしばらくドライヤーの風を当てて、乾かし終えると、鎖骨に落ちかかるセミロングの髪をとかすため、櫛を手にしたそばからわきに置いて、スマホを取った。


  *


 お友達グループからの通知が一つに使用しているアプリのニュースが二つはいっているほかには、今日の天気と、それに日付と時間が画面の上のほうに示されているだけで、あとは何もない。恋の相手からの返事を朝から期待して、というより昨日の夜から待ちに待っていたというのに、心待ちにしていた自分をあざわらうかのごとく、画面は無風で、彩佳は悲しくなりながら、わたしは変なことでも送ったのだろうか、とたちまち気が変になってもきて、もう一度昨日の文面を確認しようとする先に、胸をびくっと打つのは果たして『既読』がついているかどうかである。


 もし『既読』という文字が示されていて、返してくれていないのが分かると、不安で死にそうになるし、未読であるならなおさら悲しすぎて泣いてしまう。それでもふーっとひとつ息を整えると、彩佳はなけなしの勇気をふるってひらいた。


 既読。


 ──お仕事お疲れ様です。明日は何時ごろになりそうですか?


 と、彩佳のしたためた簡潔な文にたいして『既読』の文字がついているだけである。


 彩佳はたちまち裂けそうになる心をやっと抑えてなお夢うつつに画面を見つめるうちそっと閉じて、わきに置くと、部屋と洗面台を幾度も行ったり来たり、顔を見つめ、手を洗い、タオルで拭いて、部屋を見渡す、を繰り返すのにもにわかに耐えられなくなると、ベッドに飛び込んで顔がかくれるまでに布団をかぶり、ついで横向きになって両膝をかかえ独りそこにうずくまった。


 体は今の出来事でずっと疲労した気がするのに、まぶたは恐ろしいほど覚めて涙もでない。先日の仕事終わりに会ってそのまま初めての夜を過ごしたときには、次の休みに会ってくれると、むしろ彼のほうからちゃんと約束をしてくれたのに、どうして連絡を返してくれないんだろう。何かほかに予定でもできたのだろうか。それともあれはあの場の成り行きで言ってくれただけで、あとになってやっぱり面倒くさくなったのかもしれない。ひょっとしたら彩佳と同様平日休みの彼ではあるものの、その貴重な休みにどうしても片づけなければならない仕事が急にはいって、それでわたしと会うことが出来なくなったのかもしれないけれど、そんなはずはないとすぐに打ち消したくなるのは、それならそうで、断りの言葉くらい慰めにもくれそうなものである。もしそういう事情なら、それが本当だろうが、信じたくはないけれど嘘だろうとも納得するのだし、と彩佳は気がつくと、そんな優しい一言すらくれない相原さんが途端に遠のいていくようで、ベッドの下に捨て置かれたカワウソの抱き枕に腕を伸ばし、その子をひしと抱いて顔をうずめながら再び布団にもぐりこむと、今度はすうっとひとすじ引いた涙が頬をながれずにこめかみを濡らした。


  *


 しばらくして、こう悶々としていてもどうしようもないと、次第に気がついて、今はそれを忘れて二度寝したいにも、朝日にシャワーまで浴びた体には容易に眠気はおとずれず、それならと跳ね起きて有り合わせの服に着がえて、マスクで自分のちいさな顔が隠れるのをいいことに化粧もしないまま外へ出た。


 出がけに冷蔵庫の中身を確かめておいた彩佳が、開いたばかりの朝一番のスーパーの店内を買い物かご片手にうろつきつつ気づく事というのは、今日はふたりで街にでて食事するかもしれないし、もしお家で食べるにしても彼に何がいいか聞いておきたいしとのことで、その想いに浸っているうち、先程までの鬱屈した気分は不思議とすこしずつやわらいでいって、結局普段用の食パンと卵にお豆腐とちいさめのりんごを一袋買って帰ると、彩佳はうがいをしたり手を洗ったりしながらそれを気に掛けないようにしつつ、さて一段落したところで、姿見の前に置いて出掛けたスマホを鷲掴みに拾い、カーペットに足を伸ばしてベッドへ背をもたせた。


 ──遅くなってごめん。十二時頃には彩ちゃんとこに着きそう。


 カバーを開けるとすぐさま飛び込んできた一文に、彩佳は昨夜からつづいてきた疑いも悲しみもたちまち吹き飛んでしまったとともに、目にはほっと嬉し涙がひとしずく垂れてきて、それを拭わぬまましばし恍惚としていると、でもわたしたちって付き合っているのかしら? 


 ぽつりと浮かんだ疑念に、彩佳はスマホを両手に握りしめたまま考え込んでしまう。とはいっても知らない仲じゃないし、かれこれ三年ほどの付き合いにはなるけれど、これまではお互いに憎からず思っていたところで、いつもふたりのいずれかに相手がいたのだし、たまに二人きりで会うことはあってもそれは健全なものを少しも踏み出さなかったのだし、と決めつけたいそばから思い出すことというのは、いつか酔ったまぎれに彼が自分に触れてきたことで、けれどあれは今思えばほんの戯れに過ぎなかったのかもしれず、実際それからは何事もなかったのだから、現にこうやって関係を持ってしまったあとではとやかく思い煩うべきことではない。


 そう自分に言い聞かせながら心にきめたのは、今日はきっと、わたしたちについて彼に確かめよう、そして、彼を『相原さん』じゃなくて下の名前で呼んでみたい。相原さんもいいけれど、でも頑張って下の名前で呼んでみよう。べつに年だって一つしか変わらないんだし。まずは練習と、愛しい名前を一度胸につぶやいてみてから、今度は声に出して呼んでみる。上手に言えたので、彩佳はそのままるんるんと、綺麗に顔をこしらえようと姿見によって静かにすわり前を見つめると、両目の下にくっきり青クマができていた。

読んでいただきありがとうございました。

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