four o'clock
やばい、ライザップのビフォアーみたいなお腹になってる。
シャワーの後、全裸でリビングに向かう途中、香帆子は全身鏡の前で眉を寄せた。
学生だったころに歴史の授業で習ったスペイン風邪から約百年ぶりのパンデミック、新型コロナウイルスは、各方面のみならず、香帆子の体型にも影響を及ぼしていた。
春の訪れを目前に感染はあれよあれよという間に広がり、マスクとトイレットペーパーは店頭から姿を消した。
幸いにして香帆子はどちらもある程度ストックしてあったので事なきを得た。花粉症のおかげでマスクはいつも多めに常備してある。まさか春先の地獄に感謝する日や、使い捨てマスクを洗って数日間使いまわす日が来るとは思わなかった。
マスクなしでは外に出られない。いつまで品薄状態が続くのかわからないから、なるべく残しておきたい。この先どうなってしまうのか、常に不安がある。
緊急事態宣言という物々しい言葉によって、香帆子の住む街も、四月半ばから休眠状態に陥った。デパートもレストランも学校も休業で、通勤電車はかつてないほどガラガラになった。五月も終わりかけの先週の月曜日、ようやく宣言は解除されたが、コロナ禍前の乗車率を思えば、まだまだ空いている。
グラフィックデザイナーという仕事柄、リモートワークにするのは容易いはずなのに、勤務先のデザイン事務所の社長の方針で、香帆子は緊急事態宣言の間もずっと、今までと何ら変わらず出勤していた。現時点では自分を含め、職場の人間はコロナにかかっていないが、ただ運がいいだけだ。
パジャマを着て髪を乾かしながら香帆子は嘆息した。
必要なソフトをインストールしたMacさえあれば自宅でできる作業を、なぜわざわざ職場に赴いてしなくてはならないのだろうか。
答えは簡単。上の人間が面倒臭がって対応しない、ただそれだけのこと。
宣言が解除されたとはいえ、得体のしれないウイルスが蔓延している街中になんか出たくない。気は滅入るかもしれないが、一人でこの部屋に引き籠っているほうがいい。
どうせ外に出たところで、ウィンドウショッピングも映画を観にも行けないし、お気に入りのカフェでコーヒーを飲むことすらできないのだ。
友達にも好きな人にも会えない。ただ職場と家とを往復して、週に一度、スーパーマーケットに立ち寄るだけだ。
こんな状況で、唯一の癒しは食事だった。ステイホームの期間中、香帆子はあれこれ手の込んだ料理に挑戦していた。クライアントの営業自粛や催事が中止になった結果、残業がなくなって時間は有り余っていたし、料理中は余計なことは考えないから気が紛れる。お腹がいっぱいになると気分も良くなる。良いことずくめだ。
太りさえしなければ料理って悪くない趣味だと思うんだけどな、と香帆子はもうひとつため息を吐く。
食べるのはもともと好きだったが、こんなことになる前は、スポーツジムやヨガのスタジオに通っていたからまだマシだった。今はどちらも休業中だ。
ほとんど動かずにたくさん食べ、することがないから早く寝る。太るのは当然の帰結といえよう。
身長百六十五センチと上背があるおかげか、体型の変化はさほど目立たない、と思う。体質的なものか、顔には肉が付きにくい。
だけどウエスト周りは確実に苦しい。本当はパンツスタイルが好きなのに、ここ最近はゆったり目のワンピースばかり着ている。
明日もワンピースでいっか。もそもそとベッドに潜り込みながら香帆子は考えた。
着るものを考えるのが面倒臭い。どうせ仕事に行って帰って来るだけなんだから、服なんてなんでもいい。マスクをしているからお化粧もいい加減だ。
職場の人間関係は良好だけど、恋愛対象として意識している人はいない。綺麗に見られなくたって構わない。
航一郎は今どうしているのかな、と香帆子は思う。
直近で綺麗に見られたいと思った人であり、最後に寝た男。
待ち合わせたことは一度もない。仕事帰りによく立ち寄っていた近所のカフェで頻繁に顔を合わせて、次第に親しくなっていった。
職業はSE、年齢は自分のひとつ上。背丈も自分と同じくらいで、静かにゆっくり話す。それが香帆子が彼について知っていることのほとんどだった。
あの日もしも雨が降っていなかったら、航一郎と寝ていなかった。
閉店時間の二十三時までぽつりぽつりと話をして、一緒に店を出てはじめてにわか雨に気づいた。カフェから徒歩数分の航一郎の家に寄って、傘を借りて帰る。それだけのはずだったのに寝てしまった。
お互い独身だし、三十代半ばといい年の大人だから、問題は何もない。そのまま関係を深めていけば、今ごろ恋人になっていたかもしれない。
ほっそりとした指が自分に優しく触れるのを知ったあと、航一郎がバツイチだったことも寝物語に知った。最後に寝た相手が誰か、という話の流れで聞かされて、聞いた瞬間に後悔した。
航一郎から目を逸らしたとき、視界に入った壁時計が午前四時を指していたのを、妙に鮮明に覚えている。
香帆子にバツはない。過去に恋人は何人かいたものの、結婚には至らなかった。
昔のことなんてどうでもいい。別れたのは三年も前らしいし、今どき離婚くらい珍しくもない。子どもはいないって言ってるし。
そうやって簡単に割り切れなかった。結婚するほど好きだった女がいて、生活をともにしていたと思うと、穏やかではいられなかった。それが二月の下旬、つまり三か月ほど前のこと。それからカフェは休業となり、顔を合わせる機会がなくなった。
自分を好きでいてくれると思えれば過去なんて気にならなかったかもしれない。
だけどたった一度身体を結んだだけの関係はひどく不確かで、どういう気持ちでいるのかわからない。
LINEの連絡先は交換しているから、ほんの少し指先を動かしさえすれば、航一郎の気持ちを訊くことはできる。だけどそんな気になれない。航一郎からも連絡はない。
胸の奥がちくりと痛む。痛む理由はわかっている。
解決策もわかっている。こちらから連絡すればいい。どういう結末になったとしても、こんなふうにうじうじしているよりずっとマシなはずだ。
そう思おうとしても、どうしても躊躇ってしまってLINEできない。
結婚か、と寝返りを打ちながら香帆子は考える。そこまでしたいとは思わないけれど、仕事を終えて帰宅したとき、一人の部屋に帰るのが最近しんどくなってきた。
誰かのいる家に帰りたい。そしてその誰かは航一郎であってほしい。
そんなことを考えているうちに眠気が訪れ、意識はとろとろ薄れていった。
それは六月の末の木曜日、蒸し暑い宵の口のことだった。
仕事を定時で終えて、少し混み合った電車内でぼんやり立っていると、前に座っている人と目が合った。五十代くらいだろうか、スーツ姿で温和な雰囲気の男性だ。男性は不意に立ち上がった。
「あの、良かったら座ってください」
控えめに掛けられた声に香帆子は小首を傾げ、すぐに察した。
あらやだ。もしかしたらあたし、妊婦さんと間違えられてるの?
たしかにこのAラインのワンピース、胸の下で切り替えてるからマタニティドレスっぽいし、ワンピースに合いそうだとネットでポチったぺたんこシューズを履いてるし、こんな体型になっちゃったし。
そこまで考えて、さてどうしましょう、と思案する。
妊娠なんてしていない。ちょうど生理が終わったばかりだから間違いない。
だけど無下に断ったら、人の良さそうなこの男性に、気まずい思いをさせてしまうかもしれない。ズルして座らせてもらうようで少し良心が痛むけれど、ここは好意を受け入れたほうがいいだろう。瞬時にそう判断して、香帆子はマスクをしていてもわかるように、大きめの笑みを作った。
「それでは、お言葉に甘えて。ありがとうございます」
「いえいえ、そんな。どうも妊婦さんを見ると気になっちゃってねえ。うちのかみさん、悪阻がひどかったから。もうずいぶん前のことなんですけどね」
男性は席を譲りながら、マスク越しにもわかる優しい笑みを浮かべて言った。
「大変な時期で何かとご心配でしょうけど、大丈夫ですよ。きっと元気な子を産めます」
思いやりにあふれた言葉に香帆子は気まずくなる。妊娠してませんなんて、もう絶対に言えない。アルカイックスマイルを浮かべながらダイエットを固く決意した。こんな思いは二度としたくない。
男性は香帆子の一つ前の駅で降りていった。香帆子は大きく息を吐いて下を向いた。
しかし真に気まずい思いをしたのはその直後だった。
自宅の最寄り駅に到着して下車するとき、背後から声を掛けられた。
「……かほちゃん?」
心臓が大きく脈打つ。
そういう呼び方をする、耳に心地よい声の持ち主。
いつか顔を合わせることは想定していた。カフェの営業が再開したらまた通うつもりでいるし、なによりご近所さんだ。道端でばったり会ったって全然おかしくない。
この人に会いたいと思っていた。だけどこんな状況で、ではない。
どこにいたのだろう。もしかしたら、さっきのあれを見られていたのだろうか。
妊婦さんと間違えられるほど太った挙句、他人の勘違いにつけこんで席を譲られている図々しい女だと思われているのでは、と心配になる。
とはいえ、無視するわけにもいかない。香帆子は観念して振り向いた。マスクで覆われていても見間違えようがない。ずっと見たいと思っていた顔だった。
「お久しぶり、航一郎さん」
ああ、もっとちゃんとお化粧しておくべきだった。もうちょっといい服を着て、足が綺麗に見えるピンヒールを履いていればよかった。
内心の後悔を顔に出すことなく笑って見せる。航一郎はまじまじと香帆子を見ていた。
「ああ、うん、久しぶり。なんかちょっと雰囲気変わったね。……元気?」
なるほど、婉曲に太ったって言ってるわけね、と香帆子は苦笑する。
「まあね、おかげさまで。コロナにもかかってないし」
「そっか、それはなにより。たぶん俺も大丈夫だと思う。ほとんど外出してないから」
「っていうか、身の回りにコロナになった人っている? 流行ってるって実感があんまりないかも。テレビとかニュースサイトとかでは大騒ぎしてるけどさ」
他愛もない話をしながらプラットフォームを連れ立って歩く。
席を譲られていたことについて航一郎から言及されなかった。おそらく見られていなかったのだろう、と香帆子は胸を撫で下ろす。
「ねえ。ちょっとうちに寄って行かない?」
唐突なお誘いに驚いて、航一郎の横顔に目を当てる。航一郎も香帆子も見ていた。
マスクで表情が読み取れないけれど、普通に考えたら、これは夜のお誘いなのだろう。最後に会った日のこともある。
断る理由はなにもない。香帆子は頷いた。
緊急事態宣言が解除されて一か月がたっても、駅からの道は閑散とした印象だ。人通りは確実に減っていた。営業していない店舗も散見される。まだ十九時になる前で明るいのに、なんだか深夜みたいな雰囲気だ、と香帆子は思った。
日中は長梅雨の合間の晴れ間が広がっていた。そのせいか空気は生ぬるい。
道端に植えられて仄かに香るオシロイバナの赤や黄が鮮やかだった。どんなことが起こっても季節は確実に流れて、もうじき夏が来る。
「最近どんな感じ?」
会話が途切れるのを嫌って、香帆子が尋ねた。航一郎は小さく首を傾げた。
「緊急事態宣言の少し前からリモートワークになって、基本ステイホームしてるよ。最近になって、週に一度くらい通勤するようになった」
そのわりに全然太ってないのはどういうことなの、と香帆子は羨む。むしろほっそりしたようにも見える。
「そうなんだ、いいねえ。うちの会社はリモートにならなかったから、ずーっと通勤してる。わけわかんない」
航一郎は眉をひそめる。
「そうなの? 大丈夫なの」
「たぶん大丈夫、ちゃんとマスクしてるし、手洗いうがいもしてるし。いま無職になっても困るしね」
すでに世間ではコロナ倒産なる言葉が出てきている。こんなときに出勤させる今の職場にそこまで愛着はないが、先行き不透明なこの時期に転職をするのはリスクが高い。
航一郎の眉間のしわが深くなった。
あれ、あたしなんかおかしなこと言ったかな、と香帆子はふたたび心配になる。居心地悪さに視線を彷徨わせて、あるものに目を止めた。
「ねえねえ。ノルディックカフェ開いてるみたい。看板が出てる」
それは二人の行きつけのカフェで、駅から表通りを五分ほど進み、細い道を曲がってすぐのところにある。そのすぐそばが航一郎のマンションだ。そこからさらに十分ほど歩くと香帆子のマンションがある。
ノルウェーのカフェで働いていたという店主の淹れるコーヒーは深い味わいで、店内で焼いているシナモンロールは絶品だ。こじんまりとした店構えだが居心地がとてもよい。こんなことになる前は週に三~四回通っていた。
「お。一週間前に通りかかったときはやってなかったけど、営業再開したんだ。行く?」
「もちろん」
こうしていると昔に戻ったみたい、と香帆子は思った。昔と言っても、たった数か月前のことだ。世界はあまりに急激に変わりすぎた。知らぬ間に自分も変わっている。街中でマスクを着けずに出歩いている人を見ると違和感を感じるようになっているし、お馴染みのカフェが開いているだけなのに、驚くほどうれしい。
カフェに入ると入り口にアルコールスプレーのボトルが置かれていた。店内に客の姿はない。全ての椅子がテーブルの上に上げられていて、小学校の掃除の時間のようだった。
レジに立っていた店主が小さく手を振った。ぱりっと糊のきいた白いシャツと黒いエプロンが定番の美女だ。いつも一人でてきぱきと店を切り盛りしていて、その働きぶりは目にもこころよい。マスクをしていても、満面の笑みを浮かべているのがわかった。
「ご無沙汰してます。お揃いでいらしてくださって、ありがとうございます」
朗らかなあいさつに、アルコール液を手に揉みこんでいた香帆子も大きく笑んだ。
「よかった、営業再開したんですね。ずっとここのシナモンロールが食べたかったんです」
香帆子の言葉に、店主の目じりが優しく下がる。
「今のところ時間を短縮して、テイクアウトだけなんですけどね。シナモンロールもありますよ。どうぞご覧ください」
差し出されたのはテイクアウトのメニュー表で、コーヒーをはじめとするドリンク類のほか、シナモンロールやサンドウィッチなどの軽食もあった。
いつもコーヒーとシナモンロールしか注文しないから、メニューを見ることはあまりない。隅々まで眺めていて、見慣れないものを発見した。
「このエルダーフラワーってなんですか」
「ヨーロッパでよく使われているハーブです。シロップをソーダ割りにしました。すっきり甘くておいしいですよ。自粛期間中にメニューの見直しをして、新しいものでも加えようかと思いまして」
店主の説明に香帆子は興味を惹かれる。汗ばむ気温の中を歩いてきたから、冷たいものを飲みたい。
「じゃあ、エルダーフラワーとシナモンロールで」
「それとオリジナルブレンドコーヒーのホットも」
航一郎は香帆子の注文にかぶせると、「会計は一緒で」と付け加える。
「少々お待ちください。すぐにご用意いたします」
手早く会計を終えた店主が店の奥に消える。
「自分の分は自分で払うよ」
財布を出しながら言う香帆子に、航一郎は首を横に振った。今までここで何度も一緒にコーヒーを飲んでいたけれど、おごってもらうのは初めてだ。
釣った魚に餌をやるタイプなのだろうか、と、香帆子は躊躇いつつも財布をしまう。
まもなくかぐわしい香りが漂い始めた。ハンドドリップで一杯ずつ淹れているから時間は多少かかるが、待つ価値のある美味しさだとよく知っている。
やっぱりコーヒーにすればよかったかも。でももう注文しちゃったし、どうせまたすぐ来るし、などと考えていると、ふいに航一郎が小声で尋ねた。
「どうしてコーヒーにしなかったの? いつも飲んでたのに」
「え? 新メニューが気になったから」
目を瞬かせる香帆子に、航一郎はなおも問いを重ねた。
「本当にそれだけ?」
妙に真剣な表情だった。なんでそんな顔してそんなこと訊くの、と香帆子が問い返そうとしたとき、店主が戻ってきた。航一郎は口を噤む。
「おまたせしました。お気をつけてお持ち帰りください」
当然のようにひとまとめにされた紙袋を、航一郎が受け取った。
「ありがとうございます。また来ますね」
「あたしもまた来ます」
店外はむっとした空気が立ち込めて、たちまち涼しい屋内が恋しくなる。
足早に通りを抜けて細い道に入り、少し奥まったところにあるマンションに辿り着く。
四階建ての三階、一番奥の部屋。たった一度来ただけなのにしっかり覚えている。
玄関を開ける航一郎の背中に香帆子は胸の高鳴りを覚える。抱き寄せる腕の感触や素肌に触れる唇の柔らかさを、どうしても想起してしまう。
洗面所で二人並んで手を洗い、モノトーンを基調としたリビングに招き入れられたときが緊張のピークだった。
「こっち来て座って」
今日ってどんな下着だったっけ、と、リビングの入口で密かに案じる香帆子へ、航一郎はキッチンテーブルに紙袋を置きながら声を掛ける。
言われるままにキッチンテーブルを挟み、向かい合って座る。航一郎がマスクを取ったので香帆子もそれに倣った。外したマスクを膝の上に乗せる。職場の人間以外の素顔を見るのは、コロナ禍があってから初めてだ。
香帆子はプラスチックのカップにストローを通して、一口飲んでみた。初めて口にするエルダーフラワーは程よい甘さで美味だった。
コーヒーに口をつけていた航一郎はカップを置いて香帆子を見つめた。不思議なくらい真っ直ぐな眼差しだった。今日の航一郎は何だか変だな、と香帆子は訝しむ。
「なんでそんな風にあたしを見るの」
航一郎はほんの少し言い淀み、それから静かに尋ねる。
「他の男と会ったりしてる?」
思いがけない質問に驚いたが、香帆子は素直に即答する。
「会ってないよ」
こんな状況では新たな出会いなど生まれようもないし、そもそも航一郎が好きだから、他の男となんて会ったりしない。
「じゃあ、お腹の子の父親は俺?」
何言ってんの、この人。唖然とした直後、香帆子は電車内の出来事を思い出す。
「もしかしてさっきの見てたの。あの、電車の……」
おそるおそる尋ねる香帆子に、航一郎は頷いた。
「席を譲られているところを見てかほちゃんだって気づいた。俺、斜め前の席にいたんだ」
ウソでしょ、と香帆子は愕然とする。そんなに近くにいたのに、全然気が付かなかった。
そして、紛らわしい行動をしてしまったとはいえ、航一郎の目にも妊婦さん並みにふっくらして見えるのか、とショックを受けた。
「それとも、他の男との子ども?」
香帆子の心中など知る由もない航一郎は問いを重ねる。香帆子は首を横に振った。自分が宿しているのは新しい命ではなく、体脂肪だけだ。
そう言おうとしたとき、航一郎は小さく笑んだ。
「そう。それなら俺たち結婚しようか」
思いがけない言葉の連続に、香帆子はあんぐりと口を開けた。
「え、え? なんで」
「なんでって。かほちゃんだけの子じゃなくて、俺の子でもあるんでしょ。だったら一緒に育てるべきだし」
どうしよう。完全に航一郎さんとの子を身籠ってると思われてる。早く訂正しなきゃ。
香帆子はそう思い、ふと、訂正しなければ航一郎さんと結婚できるのかな、と閃いた。
「あたしが妊娠したから責任を取るってこと」
「平たく言えばそうだけど。でも一人で一日中家にいると、家族がいたらどんなかな、って思うこともあるし、かほちゃんと家族になるのも悪くないなって思ったから」
この返答をどう受け止めるべきか、と、香帆子は考えを巡らせた。
子どもができたから結婚する気になったというのは大前提として、自分のことも、家族になってもいいくらい好きでいてくれているのだろうか。それとも、責任感のみで言っているのだろうか。
再び黙り込んだ香帆子の手に、航一郎は手を伸ばしてそっと触れた。
「カフェインを控えたり、一人で子どもを育てるためにこんな状況でも仕事を頑張っていたんだね。でももう一人で抱え込まないで、なんでも俺に話して。いい?」
優しい言葉と思いやりが香帆子の胸に染みわたる。
惜しむらくは全て航一郎の勘違いで、事実を打ち明けた瞬間に、この優しさは消えてしまう。そうわかっていることだった。
黙り込んだままの香帆子の顔を、航一郎は覗き込んだ。
「もしかして俺がバツイチなのを気にしてる? 連絡をくれなかったのも、そのせい?」
それは確かに気になっていたけど、いま自分のことを好きでいてくれさえすれば、過去なんてどうでもいい。
「……少し考えさせて」
本来なら考えるまでもない。紛らわしい言動を謝り、航一郎の誤解を正す。なすべきことはそれだけだ。
だけど、子どもはできていたけど運悪く駄目になってしまった。例えばそう言ったら?
そうすれば、この人と一緒にいられるの?
そんな自分勝手で最悪なウソを吐くなんて人として最低すぎる。そう思う反面、この思い付きにとらわれてしまった。
結局事実を口にすることなく、その日香帆子は航一郎のマンションを後にした。
魔が差すっていうのは昨日みたいな状態を指すんだろうな、と香帆子はため息を吐いた。
早く本当のことを言わなきゃ。LINEでもなんでもいいから、本当のことを早く。
航一郎の家を出てから今に至るまで、香帆子の頭を占めるのはそれだけだった。
妊娠なんてしていないと、最初に笑い飛ばしてしまえば良かった。
馬鹿げた考えにとらわれた自分が恥ずかしい。そんなのバレないはずがない。それ以前に、ウソなんて吐いたらいけない。人として当たり前のことだ。
もんもんとしながら仕事を終え、足早に帰路に着く。電車に乗り込んだ香帆子は大きく息を吐き、それからLINEを開いた。
“昨日は恥ずかしくて言えなかったけど、じつは妊娠なんかしてなくて、ただコロナ太りしただけなの。誤解させるような態度をとって本当にごめん”
スマートフォンの画面に指先を滑らせながら、一日中考えていた文面を形にしていく。打っている途中にメッセージを受信した。航一郎からだった。
“おつかれ。今日も仕事?”
香帆子は手を止め、しばらく逡巡する。それから打った文章をすべて削除した。
“うん。もう上がって、今は電車”
あらためてそう打ち直す。すぐに返事が来た。
“これから会わない? 駅まで迎えに行くから”
香帆子はため息を吐いた。
“いいよ。あと二十分くらいしたら着くと思う”
どうせ打ち明けるつもりでいるし、ちまちま文章を打つより直接話したほうが早い。
“わかった。改札の前で待ってる”
航一郎からの返事に、香帆子はマスクの中で唇をきゅっと引き結んだ。
言わなきゃ、本当のこと。謝らなきゃ、誤解させるような態度して。
そんなことをぐるぐる考えているうちに最寄り駅に着いた。
こんな状況なのに、二日連続で航一郎に会えるのはうれしい。
毎日のように顔を合わせていたときには、自覚していなかった。会えなくなって初めて自分の気持ちに気がついた。
昨日の求婚は反故にされるだろう。当然だ。もしかしたら怒って、もう二度と会えなくなるかもしれない。
悪い考えに押しつぶされそうになりながら足早に駅構内を歩き、改札へ向かう。
航一郎は改札を出たところの隅で待っていた。香帆子に気づいて軽く手を上げる。
パスモを改札口にタッチし、航一郎の前に立った瞬間、どっと涙が出てきた。ついでに言葉も溢れ出た。
「ごめんなさい。あたし、本当は妊娠なんかしてない……」
なんであたし泣いてるの? と狼狽しつつ、言うべきことを伝える。涙が止まらない。次から次へと流れ出してマスクを濡らす。
公衆の面前でいきなり泣き出された挙句、こんなことを言われてさぞ驚いただろうが、航一郎は顔には出さなかった。尻ポケットから綺麗にたたまれたハンカチを取り出して、そっと香帆子に差し出した。
「大丈夫だから、落ち着いて。歩ける?」
有難くハンカチを拝借し、香帆子は涙を拭う。
「歩ける……」
おうむ返しする香帆子の二の腕を、航一郎はそっとつかんだ。
「とりあえず、うちにおいで」
香帆子は黙って航一郎についていく。人目が気になるので俯いたまま、航一郎の足元を眺めながら歩いた。途中、オシロイバナが目に入った。およそ二十四時間ぶりの再会だ。
できることなら昨日に戻りたい。
昨日の時点でも合わせる顔がないと思ったけれど、今日のこれは決定打だ。いい大人がいきなり泣き出したら、普通ならドン引きする。むしろ自分で自分にドン引きしている。
どういうつもりで連れて帰るんだろう、と思い、泣いている女を放置して帰るわけにはいかないからか、と自答する。
家に着いて手を洗い、キッチンに通される。
「座って。コーヒー淹れる」
言われるままに香帆子は腰掛けた。一刻も早くおいとましたいところだが、こんな泣き顔で近所をうろつきたくない。俯いたまま、借りたハンカチで目元を拭う。
航一郎は慣れた手つきでコーヒーメーカーをセットし、カップを二脚出す。
こぽこぽという音とともに、コーヒーメーカーからこうばしい香りが立ち込める。少しずつ感情が静まってくるのを香帆子は感じた。
「はい、どうぞ」
やがて出されたカップは素っ気ないほどシンプルなデザインで、香帆子はなんとなくホッとする。女性が好みそうなデザインやペアのカップだったら、元妻のチョイスだろうか、と勘繰っていたことだろう。
「ありがと」
ほんの少し顔を上げ、マスクを外して飲む。温かな液体が身体と心を満たしていく。
「びっくりしたよ」
コーヒーを一口飲んでから、航一郎がぽそりと言う。申し訳なさが押し寄せて、香帆子はふたたび俯いた。
「ほんと、色々とごめん。昨日訊かれたとき、すぐに違うっていえばよかったのに」
そこまで言うと、あとは勝手に言葉が出てきた。
「ただ太っただけなの。仕事以外は家に引き籠ってたし、ジムにもどこにも行けないし、食べて寝てたらこんな体型になっちゃって。お腹まわりが苦しくてワンピース着てたせいもあってか、妊婦さんに間違われて、でも違うっていったら相手の人が気まずい思いするかもって思って、それで……」
「多少太ったっていいじゃん。健康な証拠だよ」
若干ピントのずれた航一郎の慰めに、香帆子は不覚にも笑ってしまう。
「ありがと。言い訳がましくてごめん」
「謝らなくていい。俺も一人で突っ走りすぎてたところもある。離婚した理由もそれだったな。あなたは何でも一人で決めたがりすぎる。私の話もきちんと聞いてほしかった。最後にそう言われた」
香帆子は軽く唇をかんだ。不意打ちで元妻とのエピソードを挟まれて、胸の奥がきゅっとなる。
「別れた奥さんのこと、今でも好き?」
離婚歴があると聞かされたとき、一番最初に浮かんだのがそれだった。一度は添い遂げようと決意するまで愛した相手だ。そう簡単に忘れられるのだろうか。
航一郎は軽く首を傾げた。
「もう終わったことだから。好きとか嫌いとか、そういう感情はないよ。ただの過去で思い出。良かったことも悪かったことも全部ひっくるめて」
そういうものなのかな、と香帆子は思った。自分も、過去に付き合っていた男たちに対して、同じように感じている。結婚という言葉にとらわれすぎていたのかもしれない。
「俺も訊いていい? なんで昨日すぐに否定しなかったの」
問い返された香帆子は素直に打ち明ける。
「もしも子どもができてたら、航一郎さんと一緒にいられるのかなって、つい思って」
たった一度寝ただけの男にこんなことを言ったら、きっと重いと引かれてしまう。そうわかっているのに、勢いがついて止まらない。
「この数か月で、当たり前だって思ってたことが全然当たり前じゃなかったってわかった。会えなくなるなんて思わなかったし、会えなくて寂しかった。ずっと会いたかった」
言うべきことはこれで全てだった。妙にさっぱりした気持ちで幸太郎を見る。幸太郎はにっこり笑った。
「初めてコロナでいいことがあった」
香帆子もつられて笑った。本当は涙が出そうだった。好きな相手に許されて、受け入れられた。
こみあげる感情を誤魔化そうと冗談を言う。
「国から十万円も貰えたよ。あとマスク」
「マスクはともかく、十万円はたしかに嬉しかったけど。でもそれ以上に嬉しい」
そう言うと、航一郎は手を伸ばして、ハンカチを握っている香帆子の手のひらを包んだ。
「これから俺たち一緒にいよう。たくさん話して、なんでも訊いて、これからもっとお互いを知っていこう」
香帆子は頷いた。
「じゃあ、もうひとつ訊いてもいい? なんでステイホームしてるのに太らないの」
航一郎は数回まばたきをし、それから吹き出した。声を立てて笑う航一郎の手の甲を、香帆子は軽く叩く。
「笑い事じゃなくて、真剣に知りたいの」
「ご、ごめん……」
謝りながら笑いをおさめ、航一郎は目じりの笑い涙を拭った。
「一人でいると、食事するのを忘れちゃうんだよね。そのせいで体重五キロ落ちた」
香帆子は目を見開いた。どんなことがあってもお腹が空いて、三度三度きちんと食べる香帆子にとっては信じ難い話だ。
「忘れる事なんかあるの? 食事を?」
笑みを留めたまま、航一郎は香帆子の手を握る。
「これからはなくなるかな。かほちゃんが一緒にいてくれたら」
香帆子も笑んだ。
「わかった。一緒にいよう」
この先どうなるかなんて誰にもわからない。
だからこそ、いまできることをしっかりやる。好きな人と気持ちを分かち合って、これからもずっと一緒にいられるようにしよう。そう思った。