お兄ちゃんになった日
うんざりするほど長い廊下を歩く。髙野宮邸は驚くほど広い。タカと何度も訪ねたことがある俺でも全貌は把握できていない。
回廊に差し掛かり、その中庭に何気なく視線を走らせる。すると、赤い着物を纏った少女がひっそりと立っているのが見えた。
「おーい、椿ちゃん!」
大声で名前を呼ぶ。
その声に反応して、椿ちゃんは振り向いた。
背中まで伸びた黒髪がそれに合わせて舞う。
椿ちゃんは俺の姿を認めると、こちらに歩み寄って来てくれた。
「……ご機嫌よう、木村さん」
綺麗な動作で深く礼をする椿ちゃん。
女王様然とした髙野宮さんと違い、椿ちゃんは穏和な大和撫子といった雰囲気。
背丈は160cmの俺の胸にちょうど頭がくるので、110cmあるかないかぐらいだろうか。まだ6歳なのにとても落ち着いていて、年よりもずっと大人びて見える。
(……木村さんかー。いつもながら、他人行儀な呼び方でちょっと寂しいな)
椿ちゃんの顔を見ながら、しみじみとそう思った。
「ああ、こんにちは椿ちゃん」
「木村さんがいらっしゃるということは、貴弘兄様がお越しになっていると言うことですね」
「うん。その通りだよ。でも、ふたりはまだ玄関だと思う」
「……ああ、なるほど」
椿ちゃんは俺の言葉を聞いて、頷いた。全てを察したらしい。本当に利発だ。何故か俺も誇らしい。
「姉がご迷惑をお掛け致しました」
「いや、いつものことなんで大丈夫」
「……尚更、申し訳ありません」
困ったように眉を下げる椿ちゃん。本当に気遣いができる娘だなぁ。大丈夫。椿ちゃんは悪くない。全部タカが悪い。
「本当に気にしないで。それより、椿ちゃんもし暇なら、一緒に遊ぼうよ」
「……いえ、私までお邪魔致しますと、撫子姉様に悪いですから」
「え、何で? 髙野宮さんも椿ちゃんなら気にしないと思うけど。それにタカだって、椿ちゃんのこと妹みたいに思ってるだろうし」
まぁ、タカより俺の方が椿ちゃんを妹みたいに可愛がっているのですけども! 心の中で、そう強調しておく。
「貴弘兄様は、撫子姉様のものです。あまり私が親しくお付き合いしてしまうと、姉様も良い思いはされないでしょう? だから、私はひとりで大丈夫です」
うわ、すげー大人の発言。思わず感心してしまった。椿ちゃん本当にまだ幼稚園児だよな? 変に疑ってしまう。
後、椿ちゃんの中で、タカは髙野宮さんのものという認識がされてるんだな。……いや、日頃からあんな感じだから仕方ないか。
「ひとりで大丈夫なんて、寂しいこと言うなよ。タカと髙野宮さんの仲を邪魔したくないだけなら、俺と仲良くする分には問題ないってことだろ?」
「……でも」
「タカが髙野宮さんだけのものなのは、嫌って言うほど分かってる。でも、俺は違う。椿ちゃんも俺となら気を使わずに、遊べるだろ? その、えっと……そうだな。それでも気にするなら、俺のこと、椿ちゃんのお兄ちゃんみたいなもんだと思ってくれれば良いから」
椿ちゃんと同じ目線になるように、腰を落とし真剣に頼んでみる。これを機に是非とも椿ちゃんと仲良くなりたい。というか、妹になってほしい。俺は良いお兄ちゃんになるぞ。かなりお買い得だ。
「椿の……?」
「うん。椿ちゃんだけのお兄ちゃんだ」
「椿だけの、お兄様……」
円らな眼が俺を見つめてくる。俺もそれに答えるように、見つめ返す。椿ちゃんは暫く俺を凝視して、こくりと頷いた。キラキラと目を輝かせ、頬を桃色に染める。それから、噛み締めるようにもう一度頷いた。
「……はい。椿だけのお兄様になって下さるなら、一緒に遊びます」
満面の笑みがこぼれるこぼれる。嬉しい、冗談抜きで嬉しい! ひとりっ子の俺が夢にまで見た妹ができたぞ。
「……木村さん?」
俺が喜びに浸っていると、伺うように椿ちゃんが俺の顔を覗き込んだ。危ない。嬉しすぎて、思考が飛んでた。ごめんと、頭をかいて謝る。そこで、重要なことに気づく。
「……なあ、折角だから俺のこと名前で呼んでよ。木村さんのままじゃ味気ないし」
「ええっと、……圭一お兄様?」
「やば、嬉しい、嬉しいけど、何か仰々しいから普通にお兄ちゃんでお願いします」
早口で畳み掛けるように言ってしまった。自分でもないなと思った。でも椿ちゃんは微笑んでくれた。
「はい、では……圭一お兄ちゃん」
「……ううっ、尊い」
「お、お兄ちゃん、大丈夫ですか?」
両手で顔を覆い歓喜で震える俺の姿を見て、椿ちゃんは心配そうに声をかけてくれる。……天使なのだろうか。
そんな感傷に浸っていると、後ろからタカの声が聞こえてきた。
「圭一、良かったここにいたんだな。迷子になったかと思ったぞ」
本当に心配してくれたみたい。タカも何度も迷子になってるから、余計そうなんだろう。まぁ、お前たちがイチャイチャしていたせいなんですが。
「あー、心配させて悪かったよ」
「いや、無事ならそれで良いよ」
そう言ってタカは、笑った。そんなタカの三歩後ろには、髙野宮さんが静かに控えていた。いつものポジションである。
「よし! じゃあ圭一、遊ぼうぜ」
「おう。なあ、タカ、椿ちゃんも一緒に遊んでも良いだろ?」
「……椿も? 俺は全然大丈夫だぞ。撫子も別に良いだろ?」
「ええ、貴弘さんがそうおっしゃるなら、私も異論はございません」
「だよな。なら、今日は皆でできるトランプで遊ぶか。撫子、お前トランプ持ってたよな?」
「はい。勿論、ご用意しております」
……用意しております?
もしかして、タカが遊ぶかもしれない物を一通り揃えていたのだろうか。うん、髙野宮さんならあり得る。というか、絶対そうだろ。
「ええっと、じゃあ椿ちゃん行こうか」
「はい、圭一お兄ちゃん」
俺は椿ちゃんに手を差し伸べる。椿ちゃんは、柔らかく笑って手をそっと握ってくれた。
「……あら、ふふっ」
「撫子、何突然笑ってんだ?」
「いいえ。ただ、椿も立派な髙野宮の女になったと思いまして」
「ん、どういう意味だそれ?」
「そのままの意味です。貴弘さんもいつかきっと身をもって知ることになるわ」
そんなタカと髙野宮さんの会話が耳に届いた。
髙野宮の女性はかなりアグレッシブな方が多いことが特徴です。見初められると、どうあがいても逃げられないという。……つまり、そういうことです。