妹ではいられない
「……ちょっ、えっ?」
思考が追い付かない。何て言葉を返せば良いのかも分からない。一体、何が正解なんだ。
椿ちゃんのことなら、何でも知っている。そう、思っていた。そう、思っていたかった。でも、今はこれっぽっちも分からない。俺には、椿ちゃんが分からない。
「お兄ちゃんには、私がいます」
「その、それは……」
どういう意味なんだ? と、問いかけそうになる自身の口を咄嗟に右手で覆った。理由を聞いたら、もう戻れない。そんな気がした。
「お兄ちゃんは」
そこまで言って、椿ちゃんは、ぐっと唇を噛んだ。その淡い桃色に、ジワリと赤が染み込む。
「……つ、椿ちゃん、唇から血が出てるよ! 早くハンカチで止血しないと」
慌ててポケットからハンカチを取り出す。唇にハンカチを当てようとして、パシンっ! と手を払われた。
「そんなこと、どうでも良い!」
息を呑む。
椿ちゃんが俺に怒鳴るなんて、そんなこと今までなかった。頭の中で、ぐるぐる回る思考。しかし、そこからは何も生まれない。
(畜生、この役立たずの馬鹿野郎!)
自身に対して、罵詈雑言を吐き捨てる。しかし、それも長くは続かない。
「お兄ちゃん」
名前を呼ばれ、思考の海から浮かび上がる。気まずくて視線を彷徨わせる俺の頬を椿ちゃんは掌で押さえ、真っ直ぐに俺を見詰めた。それは覚悟を決めた人の瞳だった。
「お兄ちゃん、私は……」
「待って、待ってくれ。それ以上は――」
「お兄ちゃんが、好きです」
頬に添えられた掌は、とても熱くて。
「好き」
涙に濡れた瞳は、まるで星空のようだった。
「大好きです」
好きです、と何度も繰り返される。
「…………俺、は」
言葉が出なかった。
息が苦しくて肩を竦める。返事をしないといけない。それでも、それだからこそ、言葉を紡ぐことができなかった。
俺の情けない様子を見て、椿ちゃんはそっと目を伏せた。それがあまりにも悲しげで、思わず抱き締めたくなった。
「私では、駄目……ですか?」
「椿ちゃんは、俺の妹で……俺は椿ちゃんのお兄ちゃんで」
「血は繋がってませんっ!」
「……でも、妹なんだ。俺にとって、椿ちゃんは」
ぽたり、と。
水が落ちる音がした。
ぽたり、ぽたり、ぽたり。
次から次へと。滴り落ち、弾けて消える。
その大粒の涙は、雨よりも悲しくて、冷たくて、何よりひどく痛々しかった。
こんなことなら、と椿ちゃんは震える声で呟く。
「――お兄ちゃんの妹になんてなるんじゃなかった」
それはどんな言葉よりも重く俺の心を穿った。
「椿ちゃ……」
手を延ばし、声をかけようとした次の瞬間、椿ちゃんは起き上がり、玄関のドアを開け、逃げ出すように飛び出していった。
中途半端に伸ばした手を俺は床に強く叩きつけた。腹が立つ。誰よりも自分自身に腹が立つ。
「椿ちゃんを追いかけないと」
――でも、追いかけて、椿ちゃんになんて言うんだ?
言えることなんて、何もないじゃないか。
「クソっ!」
頭をかき回し、目を閉じる。
途轍もない脱力感に包まれ、意識が薄れた。
***
ピインーボォーン
間の抜けた呼び鈴の音で目が覚めた。
「――俺、寝ちゃってたのか」
乱暴に頭を撫で付け、起き上がる。床で寝たせいで、バキリと身体が軋んだ。
椿ちゃんの泣き顔が脳裏に浮かび、思わず口に手を被せた。吐きそう。俺は本当に救いようがない。
ピインーボォーン
間の抜け過ぎた音が響く。
ピインーボォーン
音が響く。
ピインーボォーン
音が――
「うるせぇー!」
シリアスな雰囲気を吹っ飛ばすどころか、切り捨てごみ箱にダンクシュート決めやがって。
俺は足早に玄関に向かい、勢い良くドアを開けた。
「ご機嫌よう、木村さん。今日は良い天気ね。……嫌になるくらい」
そこには、にっこりと微笑む髙野宮さんが立っていた。背後に鬼を幻視したよね。
あっ、俺死んだかも。
「こんにちは、髙野宮さん。えっと、今日は何のご用で?」
「あら、分からないのかしら?」
まさかそんなことはないでしょう? と、首を傾げる仕草。背筋が凍った。肉食獣を目の前にした草食動物のように身体を縮こませる。
「椿ちゃんのことですね分かります」
「よろしい」
よろしかったらしい。
「その、椿ちゃんから聞いたんですか?」
「いいえ」
髙野宮さんは短く答えた。それから腕を組み、荒んだ溜め息を吐く。それは髙野宮さんらしからぬハードボイルドな仕草だった。
「でも、あの子の顔を見れば、何があったのかぐらい想像がつきます」
「……そうっすか」
「告白、されたのでしょう? そして、木村さんは椿の告白を断った」
「髙野宮さんって、エスパーみたいだな」
「良く言われます」
的確過ぎて、居心地が悪い。決まりが悪くなって、首に手を当て気持ちを落ち着かせた。
「椿は私と違って素直で優しい子ですから、駆け引きが苦手なの」
「確かに髙野宮さんは素直じゃないどころかツンデレ女王様だもんなっ!」
「黙りなさい」
黙った。
「はぁ、全く緊張感の欠片もないですね。本当に椿はこんな木村さんのどこが良いやら」
酷い言われようだった。でも、何も言い返せない。俺だって分からない。椿ちゃんが俺みたいなやつのどこが良いのか。俺にはさっぱり分からない。
「ねぇ、木村さん。私は貴方のことが嫌いです」
「このタイミングで、どどめを刺すの止めてもらって良いですかね!?」
殺意ありすぎでは!? と、思わず身構える。
「貴弘さんも椿も貴方のことが大好きですもの。だから、嫌いだわ」
「理不尽すぎる」
「まぁ、でも、貴方が悲しむと、貴弘さんと椿が悲しみますので、嫌々ながら……手助けに来たわけです。本当に嫌々ながら」
とんだ手助けだった。
すました表情でそう言い捨てた髙野宮さんに、俺はげんなりと肩を落とした。




