女の子になる瞬間
蝉の鳴き声がする。
そのけたたましい音に、情緒どころか不快感を抱いた。うるさい。兎に角、うるさい。気が狂いそうになる。
「くそ暑いな……」
ああ、これで湿気がなければ、まだ耐えられたんだがな。拭いても拭いても滝のように汗が滲み出る。刺すような日差しに、恨めしさを感じながら俺は歩みを進めた。
河川敷をのろのろとした足取りで歩く。
「あら、圭一お兄ちゃん……?」
後ろから涼やかな声が聞こえた。
俺は反射的に振り向く。
まず目に入ったのは、背中まで伸びた綺麗な黒髪。たれ目がちな瞳、すっと通った鼻筋、瑞々しい桃色の唇、どこから見ても美しい。日傘を差し、白いワンピース型の制服を身に纏ったその姿は、清楚で可憐という言葉が良く似合う。
彼女は髙野宮椿。
あの髙野宮さんの妹にして、俺の妹分である。
「やぁ、椿ちゃん」
「ご機嫌よう、圭一お兄ちゃん」
律儀に一礼をしてから、俺に微笑みかけてくる椿ちゃん。
天使かよ。暑さが吹き飛んだ。
「椿ちゃんはどうしてここに?」
「先程まで、夏期講習を受けておりました。その帰りにお兄ちゃんを見かけたもので、お声を掛けさせて頂きました。……その、ご迷惑でしたか?」
「そんなこと絶対ないっ!」
俺は即座に否定した。
良かったです、と椿ちゃんはくすりと笑って、俺の側に歩み寄ってくる。風に誘われ棚引く髪から、花のような香りがした。
「お兄ちゃん、すごい汗」
「ああ、ごめん。汚いよな」
「そんなことありません。……お兄ちゃん、少し屈んで下さいますか?」
「えっと、こうか?」
「はい」
鞄からレースのハンカチを取り出して、俺の額を優しく拭いてくれた。優しい。ぐう天使。
「ありがとう、椿ちゃん。でも、ハンカチが汚れるからもう良いよ」
そのハンカチ、絶対高いやつだ。申し訳なくなり、身を退こうとして、椿ちゃんに頬を捕まれた。
「駄目です。逃げないで下さい。それに、お兄ちゃんは汚くありません。訂正して下さい」
「ええっ」
「お兄ちゃん」
「ぐっ、はい、俺は汚くないです……」
咎められ、肩を落とす。俺は妹分に逆らえない。だって、椿ちゃんに嫌われたくないし。椿ちゃんは、よろしい、と頷いて丁寧に汗を拭いてくれた。
椿ちゃんと一緒に河川敷を歩く。
「夏休みなのに学校に行ってたのか? 大変だな」
「いいえ。聖深学院がエスカレーター式とはいえ、勉学に手を抜いて良い訳ではありません。それに私、勉強は好きですから苦ではないのです」
「そっか。椿ちゃんはすごいな。でも、ちゃんと息抜きしないと駄目だ。まだ中学2年生なんだから、遊ばないと損だぞ」
そう、椿ちゃんはもう中学2年生なのだ。
俺の肩ほどまで身長が伸び、あれほど平らであった胸も驚く程成長した。おそらく、Dカップぐらいあるのではないだろうか。
あのスパザブでの宣言通り頑張った結果なのであろう。何をどう頑張ったらこう育つのだろうか。俺は女性の神秘を垣間見た気がした。
「お、お兄ちゃん……その、決して嫌ではないのですが、そうも熱心に見られると恥ずかしい、です」
「ええ゛っ!?」
しまった。椿ちゃんの女性としての成長に思いを馳せていたら、胸を凝視してしまっていた。慌てて、言い訳する。
「ごめんっ! そんなつもりはなくて、椿ちゃんも大きくなったな、と。ああ、違うんだ、大きくなったのは背丈のことで、胸のことじゃないから!」
椿ちゃんは俺の言葉を聞き、無言で歩き出した。
――――あっ、これ終わったわ。
目の前が真っ暗になり、死んでしまいたくなった。
椿ちゃんは3mほど離れたところで立ち止まった。それから、くるりと振り向き、満面の笑みを浮かべた。
「私、お兄ちゃんのために頑張りました」
「えっ、あの、その」
どう返したら正解なんだこれ。口がからからに乾いてとても気持ち悪い。俺は無言で眉をひそめた。
「お兄ちゃん、気に入って頂けましたか?」
何を、とは聞けなかった。
どこか艶やかな眼差しに胸が高鳴る。
――ああ、椿ちゃんは女の子なんだ。
ただそう思った。
いや、最初から椿ちゃんは女の子なんだけど……もどかしいな。どう表現すれ良いのだろう。どうして良いか分からず、俺は無意識に頷いていた。
「ふふっ、良かった。お兄ちゃん、2年後のために、私もっと頑張ります。だから、目を離さず、私のことをずっと見ていて下さいね。約束ですよ」
椿ちゃんは悪戯ぽく微笑んで、歩み寄りじっとりと汗ばんだ俺の手を握った。




