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拓海と彩夏

作者: くもりのちはれ

 ハァ-、という大きなため息の音に拓海が顔を向けると、疲れた顔をした女の子がすぐそばの公園のブランコに座っているのが見えた。

 女の子は見知った顔だった。というより、よく見ている顔だった。直にではなく、テレビの画面越しに見ている回数の方が多かったが。

 水鳥みずどり彩夏あやか。近所どころか全国でも有名な人気子役。保育園に通っていた頃はよく遊んでいたが、子役デビューした後はめっきり疎遠になっていた、かつての幼馴染みだ。一応同じ小学校に通ってはいるのだが、クラスも違う上に出席する日も少なく、生で姿を見るのは久しぶりだった。

 テレビの中ではまず見ない、大人風に言えば哀愁の漂っている様子にしばし目を向けていると、視線に気付いたのか彩夏が顔を上げた。

 彩夏は拓海の顔を見ると、ただでさえ苦い顔をますます渋く歪ませた。


「ちょっとそこのバカ、何じろじろ見てるのよ」

「別に見てた訳じゃねえよ。でっかい声が聞こえたから何かと思っただけだっつーの」

「大きい声なんて出してないわよ」

「出してたじゃねえか。これ見よがしにでっかいため息ついてたくせに」


 知らない仲ではないので交わす会話もぶっきらぼうになる。拓海にとっては驚くことではないが、テレビの中でしか彩夏を見たことがない人にとっては目を見開く光景だ。


「またずいぶん疲れた顔してんじゃねえか人気子役様。そんな顔してちゃイメージダウンして人気がなくなるぞ」

「ふん。まだ子供のあんたには分からないでしょうね、社会の厳しさってやつは。あーあ、小学生男子はお気楽でいいわね」

「はあ? 同い年のくせに大人ぶってんじゃねえよ」

「人生経験ってやつが違うのよ。自分でお金を稼いだこともないあんたにそれがあると思ってるの?」

「む……それは……」


 態度はむかつくものの、確かに大人たちに混じって仕事をしている彩夏と、小学校に通って勉強と遊びだけをしている自分とでは人生経験に差があるのは間違いない。


「格の違いが分かったならさっさとどっか行きなさい。こっちはあんたの相手をしているほど暇じゃないの」

「ふーん。……よっと」

「……ちょっとあんた、人の話聞いてた?」


 彩夏の隣で揺れていたもう片方のブランコに座る。狙い通り、彩夏は露骨に嫌そうな顔をした。


「話は聞いてた。けどむかつくから従ってはやらねえ」

「あんたねえ……」

「暇じゃないって言うけど、ここでボケッとしてる時間くらいはあるんだろ? 聞いててやるから愚痴でも何でも話してみろよ」

「……あっそ。ヘビーさに後悔しても知らないわよ」


 その後の話は、要約すればいかに自分が売れているが故に仕事が多くて疲れているのか、という泣き言なのか自慢なのか分からないものだった。あまりにも長いので途中から拓海はひたすら相槌を打つ機械と化していた。なので詳しい内容も後から振り返ってみても思い出せない。

 ただ散々体の中に溜まっていた毒を吐き出し終えた彩夏は、傍目にも分かるほどスッキリしていたので、隣で拓海が機械になっていたことも無駄ではなかったのだろう。


「何つーか、そこまでストレス? を溜め込むくらいなら、子役なんて辞めちまえばいいんじゃねえの?」


 だからよく考えず口に出したその言葉が、まさか彩夏の、そして自分の人生における分岐点になるとは思いもしていなかった。


 彩夏は面食らったように目を見開いて固まり、少し間を開けて「バカなこと言ってるんじゃないわよ」とやはり固い声で言った。


「私は多くの人と関わって仕事してるの。大変で疲れたから、なんて理由で辞めたらいろんな人に迷惑がかかる」

「どうかね~。そんな暗い顔でテレビに出てる方が迷惑じゃね?」

「それはっ……そうかもしれないけど。でも我慢すればいいんだし」

「手製の泥団子を壊されたくらいで喧嘩になった奴が我慢強いとは思えねえけど」

「保育園にいたときの話でしょうが! 何年前だと思ってんの!」


 いきり立つ彩夏の姿に、拓海は唇を意地悪な角度で歪める。


「ほれ、そうやって簡単に挑発に乗っちまうじゃん。そんな奴が……えーっと、うっぷん?を溜めたまま仕事しててもいいことねえぞ?」

「……何も知らないくせに、偉そうに」


 彩夏は続けて何かを言おうと口を開けたが、結局何も出さないまま唇を引き結び、くるりと拓海に背中を向けた。


「帰る。この後も仕事あるし」

「あっそ。好きにすれば? 俺には関係ねえしな」

「好き勝手言ってくれたくせに。……まあ、でも」

「ん?」

「……愚痴、聞いてくれてありがと。ちょっとだけスッキリした」

「お、おう」


 いきなり殊勝になったので拓海もびっくり。気付けば背中から立ち昇っていた怒気も薄れていた。

 彩夏はそのまま公園を出て行った。拓海は彩夏の姿が見えなくなるまでブランコに揺られた後家路に着いた。そして家の玄関を開ける頃には、頭の中はすっかり今進めているテレビゲームのことでいっぱいになっていた。


 次の転機はその一ヶ月後。遅刻するよ、と母親に叩き起こされて寝ぼけ眼のまま朝飯をかき込んでいるときのことだった。


「ぶっ!」


 拓海は飲んでいた味噌汁を吹き出した。その原因はテレビから流れてきた映像と音。


 ーー人気子役の水鳥彩夏、活動休止


 母親は目を見開きながらも「水鳥さんちの彩夏ちゃんがねえ~」とのんきな反応だったが、拓海は内心で嵐が吹き荒れ、心臓はバクバクと激しく跳ねていた。

 脳裏でよぎる一ヶ月前の彩夏との会話。聞いた愚痴と交わした会話。そして何気なく口にした「辞めればいい」という言葉。

 まさかと震えつつも、いやいやそんなバカな、と心を落ち着け朝飯を食べきってランドセルを引っ掴む。ニュースは次の話題に切り替わっていたが、拓海は逃げるように家を出た。

 しかし現実は拓海に逃避を許さなかった。

 学校への最初の交差点を曲がったそこに、拓海を待ち受ける裁判官がいた。


「あ、彩夏……」

「久しぶりね、拓海。その顔じゃあ、私のあれをテレビで見たようね」


 説明する手間が省けたわ、と楽しげに笑う姿に、拓海の全身を怖気が走り回る。もはや脊髄反射の領域で逃げようとした拓海だったが一歩遅く、彩夏の両手は力強く拓海の腕を掴んでいた。


「逃げるなんて許さないわよ。人の話は最後まで聞くように、と親に教わらなかった?」

「離せ! 俺は知らんぞ! 何の関係もない!」

「それは随分な言い草ね。私を唆したのは誰だったかしら?」

「決めたのはお前だろうが! 俺は悪くない!」

「ええ、決めたのは私ね。でも拓海、私は一言も"何について"の話なのか言ってないのだけれど?」


 拓海は振り返る。やはりいい笑顔をした彩夏がいた。


「まだ活動休止するまでは猶予があるし、やらなければいけない仕事も残ってるけど、辞めると決めてしまえば割と清々しいものね。お母さんも話せば分かってくれたし、重しが取れたみたいに体が軽いわ」

「そ、そうか。それは良かったな。うん、良かった」

「そうね。でもね、一つだけ後ろめたいこともあるのよ。だって私、仕事を辞める理由は全部話したけど、辞めようとしたキッカケについては嘘ついちゃったんだもの。そのキッカケを話しちゃったら、誰かさんが非難されちゃうなあと思って」


 そして彩夏はいつかの拓海のように意地悪な笑みを浮かべた。まな板の上の鯉、という父親から教わったばかりの慣用句が頭をよぎった。


「さて拓海。あなたは私に対して、何の後ろめたさがあって逃げようとしているのかしら?」

「それは……えーっと……」

「そ・れ・は?」

「……軽々しく、彩夏さんに仕事を辞めればいいと言ってしまったことに、です」

「よろしい。自覚があったことは褒めてあげるわ」


 で・も、と追い打ちをかけるように彩夏は一歩詰め寄ってくる。拓海はもう逃げることすら考えられなくなっていた。


「軽々しく言ったことなら、尚のこと責任を取らなければならないと思わない? だってこのままだとあなた、結婚を約束しておきながら逃げる男みたいにカッコ悪いわよ? 前にそういう男が出てくるドラマに出演したけど、台本の段階でもすっっっごいみっともなかったな~」

「はい……仰るとおりでございます……」

「でも辞める決断をしたのは私だから、そうね、責任といっても半分くらいかしら。それでも十分大きいけどね」

「……俺に、何をしろと」

「私、忙しかったからほとんど学校に行けてないし、友達とも疎遠になっちゃったのよね。勉強もちょっと自信なくなっちゃったし、これから少なからず苦労すると思うのよ。だからーー」


 彩夏は腕から手を離し、右手の人差し指を拓海に突きつけて宣告した。


「あんた、私の家来になりなさい」


 そう。まるで昔話に出てくる女王様のように。


 これが拓海の家来としての日々の始まり。そして同時に、苦労多くも尊い日常の始まりだった。



「もう勉強やだ~。疲れたよ~」


 彩夏が目の前でテーブルに突っ伏した。拓海は目だけ動かしてその姿を見ると、また手元の教科書に視線を戻し、ノートにシャーペンを走らせる。


「まだ始めてから一時間も経ってないのに泣き言を言うな。そんなんじゃ来週の期末テストも点数落とすぞ。お前のお母さんからも、これ以上下がるようなら小遣い減らす必要がある、って言われてるんだからな」

「最近は別にいいやって思う自分もいるのよね~。どうせ子役時代の貯金から引き出せば母さんも小言だけで済ませるだろうし、手元が怪しくなったらたかればいい訳だし、あんたから」

「俺の小遣いも限度があるんだ、勘弁しろ。こうやって勉強を見てやってるだけでも十分だろうが」


 主従じみた関係もすでに慣れたものだが、学生の身でお金をたかられるのはさすがに厳しい。家来の身分への抵抗はとうに失っているが、人権まで放棄した覚えはないのだ。

 とはいえ、と内心ため息をつきつつ、拓海は傍にあったテレビの電源を入れる。


「学校の授業の時間くらいは続けたしな。そろそろ休憩を入れるか」

「さっすが拓海、話が分かるぅ~。あ、お茶とお菓子よろしく~。手が汚れない系で何か出して」

「はいはい、仰せのままに」


 今度はこれ見よがしにため息をついてやりつつ、拓海は台所に向かう。ここは彩夏の家だが、勝手知ったる具合ではもはや自宅と大差がない。そして彩夏の好きなお茶の好みも把握済みなので、電気ケトルで湯を沸かしつつ、今の彩夏の気分に合いそうな紅茶のティーバッグをカップに入れる。

 ケトルが水を沸騰させる音を聞きながら、拓海は数年にわたるこの主従関係に思いを馳せる。

 最初の一年はひたすらへいこらして過ごした。ガキではあるが負い目は強く感じていたので、宿題を丸写しされてもパシリにされても文句は言わなかった。

 次の一年は多少なりとも抵抗した。さすがに長くなってきた家来生活からの解放を求めると、彩夏も大目に見てもいいと思ったのか、過度な使い走りは控えるようになった。ただし家来なのは変わらない、と事あるごとに念押しされた。

 中学に上がってからはほとんど対等の関係になっていたが、彩夏は当然のように勉強を教えろとか教科書忘れたから貸せ、など命令してきた。

 とはいえこの頃になると彩夏の至らない部分をまざまざと見せられていたこともあって、拓海はむしろ積極的に彩夏の世話を焼くようになっていた。すっかり彩夏の母親からも信頼され、シングルマザーであまり面倒を見れない自分の代わりをお願い、と頼まれていた。

 男としてのプライドがどうとか考えたこともあった。ただ、彩夏の使い走りをしている内に学力など身につけたものも多いので、別にいいかと開き直ったのが現状の拓海だった。

 ケトルが音を出してお湯が沸き上がったことを知らせてきた。拓海は茶葉ののジャンピングに気を遣いつつ湯を注ぎ、袋詰めされていたお菓子を見繕ってお盆にのせ、彩夏の元へ戻る。

 彩夏の視線はテレビに向けられていた。映っていたのは芸能ニュース。MCは近々公開される映画のどこが見所なのか、主演を務める若手女優のどこが素晴らしいのかを熱く語っていた。

 拓海はお盆を持ったまま彩夏の顔を窺う。彩夏は無言でテレビ画面を見つめていた。表情には何の感情も浮かんでいなかったが、ヒロインの演技についてMCが語っている時だけ、わずかに瞳が鋭さを増した。

 それは拓海でなければ見逃してしまうだろうほどの、ほんのわずかな変化。拓海は何も言わず、ニュースが次の話題に移ったタイミングでお盆をテーブルに下ろした。その時になってようやく彩夏は拓海に顔を向けた。


「戻ってきたなら声くらいかけなさいよ。びっくりするじゃない」

「そりゃ失礼。気付いてて無視してるのかと思ったんでな」

「昔の私と一緒にしないでよ。いつまで根に持ってんの」

「根に持ってるわけじゃねーよ。ほれ、一息ついたら勉強再開するぞ」

「えーもう終わりでいいじゃ……わ、分かったわよ」


 軽く睨むと彩夏は誤魔化すように紅茶をすすった。

 拓海は何も言わなかった。



 その日の夕食で、拓海は母親から尋ねられた。


「ねえ、あんた彩夏ちゃんとはどこまで進んでるの?」


 野菜を箸ごと咥えたまま母親を見る。そこには好奇心で輝いた目があった。


「一応県内の公立に進む予定。彩夏がどうするかは聞いてない。以上」

「見当違いな答えだけ寄こして勝手に終わらせないの。男女の関係のことに決まってるでしょ」

「……はあ」

「で、どうなのよ。キスまで行ったの? まさか手も繋いでないってことはないわよね? あたしはあんたをそんな情けない息子に育てた覚えはないんだからね」


 拓海は思いっきり顔をしかめてやった。彩夏との付き合いは双方の親公認なので、この手の追求をされたことはこれが初めてではない。ただ、もはや慣れたとはいえ、自分の色恋沙汰を話の種にされるのは全くもって気分が良くない。


「何も進んでないよ。今日もテストが近いから勉強を教えてただけだ」

「……このチキンめ」


 何より回答はいつも変わらないので、そのたびにがっかりした顔を見せられるのだ。これでうっとうしく思わない方がおかしい。


「いい加減先に進んだらどうなの? 彩夏ちゃんがあんたのことを憎からず思ってるのは知ってるでしょうが」

「分かってるよ。そうでもない男を家に上げる奴じゃないし」

「だったら少しは攻めなさいよ。今の関係にあぐらをかいてると、その内誰かに取られちゃうわよ。あんな綺麗な子、周りが放っておく訳ないんだから」

「それも嫌ってほど理解してるよ。それこそ本人よりもよっぽど」


 子役として人気を得ていたことから明らかなように、彩夏の容姿はとても整っている。美少女、という形容詞をつけることに全く抵抗がないほどに。

 そしてその容姿は成長期を経てさらに花開いた。起伏があり、均整の取れた体つきと、長く艶やかな黒髪。白い肌と小さな顔、バランスの取れた目鼻立ちなど、どれをとっても美しいと言える要素ばかり。

 女子からは妬みと憧れを、男子からは恋慕を込めた視線を集め、お付き合いを求める声は他校からも聞こえてくる。彩夏はその一切を断っているため、仲がいい拓海に非難は飛び火している。

 では拓海は彩夏をどう思っているか。これについての答えはとうに出ている。

 ベタ惚れだ。

 成長するにつれて異性として意識し、それが恋心と変わって自覚が芽生えるまで時間はかからなかった。さらに言えば、良い面も悪い面も余さず見てきているので気持ちの堅さも折り紙付き。世話を焼くことも内心では嬉しく思っているのだ。

 そして一時期は明らかに態度が変わっていたので、勘のいい彩夏ならすでに気付いていてもおかしくない。その上で家に呼んだり、荷物持ちとして買い物に付き合わせたりしているので、両想いの可能性だってある。告白したらOKされる、というのは母親に言われる前から拓海の頭に浮かんでいる。

 ただ、拓海は自分の内心を誰にも明らかにしたことはなく、これからもする気はなかった。もちろん、告白をする気もなかった。


「今のままでいいんだよ。俺にとっても、彩夏にとっても」

「今の関係が心地良いってこと? それで彩夏ちゃんを取られても知らないわよ?」

「……覚悟はしてるよ。ごちそうさまでした」


 母親はまだ何か言いたげだったが、さっさと食器を片付けて自分の部屋に戻る。

 布団に倒れ、天井を眺めながら呟いた言葉は、誰の耳にも届かない。


「……どうせ、いつかは遠くに行っちまうんだから」



 そしてそれからしばらくしたある日のこと。その"いつか"は唐突にやってきた。


「――いや最前より家名の自慢ばかり申しても、ご存じない方には正身の胡椒の丸呑、白河夜船、さらば一粒食べかけて――」


 珍しく用向きを言われないまま家に呼ばれ、拓海が彩夏の家の玄関を開けると、朗々とした声が聞こえてきた。

 居間に入ると、彩夏がいつになく真剣な目で本を音読していた。


「――まずこの薬をかように一粒舌の上にのせまして、腹内へ納めますると、いやどうも云えぬは、胃、心、肺、肝がすこやかになりて――」


 拓海が入ってきたことなど気付く様子もなく、一心に舌がもつれそうな文章を読むその姿は活き活きしていて、彩夏の美しい容姿はさらに輝いていた。

 拓海は思った。ああ、ついにこの時が来たか、と。

 彩夏はその後もしばらく音読を続けていた。拓海は壁に背中を預け、目を閉じながらその声を聞いていた。なめらかで美しく、いつまでも聞いていたい声だった。

 ふうっ、と彩夏は息をついた。拓海は目を開け、ほぼ同時に彩夏は拓海の存在に気付いて表情を強張らせる。


「居たのなら声をかけなさいよ。びっくりするって何度も言ってるじゃない」

「俺が入ってきていることに気付かないほど集中してるんだ。邪魔するのも野暮だろ。それとも邪魔して欲しかったのか?」

「……そう、かもしれないわね」


 彩夏らしからぬ、言葉の歯切れの悪さ。他の人なら、もしかしたら彩夏の親すら訝しむかもしれないその様子に、拓海は愛おしさを覚える。自然と拓海は笑っていた。

 あるいはその笑顔は、泣き笑いしているように見えたのかもしれない。


「それ、外郎売りだろ」

「よく知ってるわね。拓海って古典とか歌舞伎とか特に興味ないのだと思ってたけど」

「たまたまな。アナウンサーや声優、それに俳優が、発声や滑舌の練習のために音読することが多いって聞いて、記憶に残ってたんだ」


 拓海の言葉に彩夏は息をのんだ。特に、俳優が、という部分に虚を突かれたようだった。


「戻りたいんだろ、役者業」

「……気付いてたの?」

「大分前からな」

「そっか。あ~あ、やっぱり拓海に隠し事はできないわね」


 一転して清々しい表情になった彩夏は、それから自分の心境の変化を語り始めた。

 最初は自由な時間を手に入れて楽になったこと。拓海との日々がとても楽しかったこと。

 けれど次第に物足りなくなったこと。その理由を探していく内に、ドラマや映画の画面に目が向いている自分に気付いたこと。

 自分と歳の近い女優が活躍する姿を見て、悔しい気持ちが湧いてきたこと。

 演技力のない顔だけの役者の姿を見るたびに、自分だったらと考えて、それが止まらなくなってきたこと。


「勝手な話よね。嫌になって逃げ出した世界に、今度は戻りたがってるなんて」

「俺はそうは思わない。むしろ自然なことなんじゃないか? お前の場合」


 拓海は彩夏の傍に腰を下ろす。同じソファーには座らず、カーペットに座って彩夏を見上げる。


「あの頃お前は疲れていたからな、自分の気持ちを見つめる余裕すらなかったんだろう。まあ、小学生の子供にそれを求める方が酷だけどな。だから逃げたいと思った。ろくに事情を知らない俺でも口を出すほどだったんだし、無理もないだろ」

「……そうね。一度辞めたことに関しては、あたしも後悔してない」

「でもお前が子役になったことや、仕事をある程度続けていられたこと。それはお前が役者の仕事を好きでなければできなかったことだと、俺は思ってる。……んで、いつからかな、お前がいつかその世界に戻るときがくるんじゃないかとも思うようになった」


 そしてその予想は正しかった。今まさに、彩夏はその世界に舞い戻ろうとしている。

 自分なんかでは手の届かない、遠い世界に。


「やりたいんならやればいい。戻りたいんなら戻れば良い。求められれば仕事があるし、求められないんだったら仕事はないだろうしな。どちらにせよ、お前の行動を止める奴はいない」

「拓海は、私が役者になることに賛成なの?」

「反対する理由はないな。というか、お前が俺の反対を聞くとも思えんし」

「……そうかもね」


 彩夏は天井を見上げた。その横顔から、悩みはすっかりふっきれていた。


「私もう一度、役者をやってみたい。だからオーディション受けようと思う」

「ああ、頑張れ。応援してる」


 拓海は心から彩夏にエールを送る。

 それが拓海の初恋が終わった瞬間だった。

続編の構想はあるので、需要があったら書きます。

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