残されるものと、残すもの。
「ありがとう‥」
私はその、まだ温かい手を握りしめる。
そして、何度も何度も
「ありがとう。ありがとう‥」
あくる日、それは灼熱の太陽の季節を過ぎて
落ち着いた気温に包まれる秋の日の事だった。
当時、小学5年生 10歳の私は
小学校でいつものように授業を受けていた。
あまり理解できていなくても、
分かったフリをしてしまうような思春期。
いや、周りの目を気にして
恥ずかしいからと分かったフリをしてしまうのは私だけだろうか。
教室の後方の扉が音を立てる。
ガラガラガラ。
そして、先生は誰でもなく私の元へ駆けつけて
こう告げた。
「神谷さん、お父さんが。」
先生はとても冷静に、目をしっかりを開けて
私を見つめて2、3度、ウンウン。というように
顔を上下に動かして手を握ってくれていた。
私は、頭が真っ白になりそうだった。
けれどなぜか、とても冷静だった。
とはいえ、イスを荒く自分の足で後ろに引いて
帰る準備をしていた。
急いでいた証拠だろう。
私は泣く暇もなく、朝来た道を走って戻って
自宅へと急いだ。
自宅に着くとおばあちゃんがいつものように
家に居た。
違うのは、いつものように
「さや おかえり」と、笑顔で言ってくれなかったこと。
とても焦っていた。
涙目だった。
アタフタしてた。
そりゃそーだ。
自分の息子が、危ないって
病院から連絡を受けて間もないのだから。
おばあちゃんは当時、既にいい年だった。
60歳は超えていただろう。
当時、中学1年生になっていた姉の
未来は、小学校より少し長い道のりの
通学路だったため、まだ帰宅していなかった。
私は病院へ行くためにタクシーを手配しようと
した。 電話番号やタクシーの呼び方がわからなかったので、1階のおばさんの家まで足を走らせた。
私はこの頃、父親の仕事の社宅に住んでいた。
ピンポーン ピンポーン
少し焦って、2度インターホンを押した。
おばさんはすぐにドアをあけて
「あら、さやかちゃん。
どうしたの?」
恐らく、時間的にまだ学校のはずじゃ‥?
というような顔をして私に聞いてきた。
「タクシーをね、呼びたいの
どうしたら、タクシーは来る?」
私は率直に答えた。
「タクシー?
ちょっと待ってね、ここでいいの?
それならおばちゃんが呼んであげる。」
感謝した。
分からないことに時間をかけるより
上にいるおばちゃんのこと、病院に行くための準備をしたかったからだ。
「ありがとうございます。」
そう答えて、横でタクシーを呼んでくれるおばちゃんを見ていた。
「すぐに来るって。」
私はこの言葉を持って、おばちゃんの待つ
私の住む、3階へかけ戻った。
「おばあちゃん。タクシーすぐに来るって!」
「さや、ありがとう。」
おばあちゃんはきっとまた、泣いていた。
さっきよりも目の周りが赤くなっていた。
そして、タクシーより早く
姉の未来が家に着いた。
「さや!! おばあちゃん!」
姉の未来は泣いていた。
きっと、泣きながら走って帰ってきたのだろう。
普段、そこまで感情を顕にしない姉が
息をするのもやっとの想いというほどに
動揺していることが分かった。
私は、依然として泣いてはいなかった。
当時を振り返っても、なぜ
涙が出ていなかったのか
私には分からない。
周りの大人たちは
「さやはまだ小さいから、よく分かっていない
からだろう。」
などと言っているのを耳にした。
涙が出なかった訳は分からないけれど
その日、教室の後方の扉がガラガラと開いて 先生が私の元により、伝えてきた
「神谷さん。お父さんが。」
と、力強く伝えてきた事も、その意味も
理解できていたことだけは、確かな事だった。
姉は中学バックを部屋に放り投げていた。
下でタクシーを待つことにした、私達は
3階から下へと降りていった。
「おばあちゃん、階段気をつけてね。」
明らかに自然に装うおばあちゃんの心の中が
荒れくれていることが分かったからだった。
階段を降りていると、さっきタクシーを呼んでくれたおばちゃんが足音に気付いて玄関を開けた。
「行く先の住所はしっかりわかってる?」
「横浜○○○病院だから‥」
「気をつけてね。」
下に降りると同時くらいにタクシーは社宅内に止まった。
おばちゃんは私達がタクシーに乗り込み
発車するまで。
そう、見えなくなるまできっと見ていてくれた。
おばあちゃんは助手席へ
姉と私は後部座席に乗り込んで、
「横浜○○○病院へ」
と、伝えた。
それは自宅から40分ほどの病院だった。
どこでもドアがあったらいいのに‥
10歳の私は非現実的な事を頭にめぐらせて
外を眺めていた。
「今日は道が凄いですね。」
運転手さんはそう言った。
「そうですね‥いつもはもっと混んでいるのにね。」
おばあちゃんが答えた。
タクシー内での会話はそれくらいで
後は姉が横で鼻を垂らして泣いているだけだった。
いつもは40程かかる道が30分で病院まで
行くことができた。
まるで、神様からの最後のプレゼントの
ようだった。
タクシーを降りておばあちゃんが
「ありがとうございました。」
と、深く頭を下げていた。
〜姉 未来〜
姉は、いかにも長女らしい長女で
我慢強く、ワガママなところもあるけれど
基本的には内に秘めて
とても恥ずかしがり屋で
感情もあまり出す方ではなかった。
うちでは毎週日曜日に、父親が作成したものによる
テストの日。というものがあって、それが日課になっていた。
父親はどちらというと、厳しかった。
アニメなんてものは見せてもらえなかった。
昔からやっているちびまる子ちゃんさえ、見せてはくれなかった。
けれど、何故か
サザエさんの方は見せてくれた。
この違いは正直、今でもあまり
分かっていない。
けれど、サザエさんは今でも見て
最後のジャンケンまでしてしまう。
姉はこの、テストの日。が大キライだった。
いつも憂鬱な顔をして、分からないふりをしているような気までしてた。
けれど、終わると
「よく頑張った、もう終わりだ。」
と、父親が言ったあとにホッとした表情と
どこか嬉しそうな顔をしていた。
姉は小学校の頃、飼育委員をやっていた。
学校にはニワトリがいた。
「パパ‥これ‥」
姉が手から卵を出した。
父親は少し、ビックリした顔を浮かべて
「これはどうした?」
と、聞いた。
「ニワトリの卵だよ。
私、飼育委員でしょ?
だから貰えたの。」
と、照れながら差し出していた。
不器用でテレ屋の姉の最大の気持ちの
表し方だったのだろうと、大きくなって私は よく思うのだ。
「ありがとう。」
父親はこれ以上にないほどの嬉しそうな笑顔で
答えていた。
「ママ、これで目玉焼きを作ってくれ。」
「はい、分かりましたよー」
と、母親が答えていた。
その時の姉の顔もまた、これ以上にないほどの嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
一時期、テストの日。を含め
反抗期なのか父親との接し方に困っているように見えた姉に、私こんな不信感を抱いていた。
姉は父親のことを、好きではないのだろうか?
けれど、それは今、振り返ると
そうではなかったということだ。
むしろ全くの逆で、父親のことが大好きだったのだろうと思うのだ。
実はそのニワトリの卵は、飼育委員でも
持ち帰る事はできない卵だったのだ。
姉はそれでも、ニワトリが産んだすぐあとの
新鮮な卵を食べさせたくて、
喜ぶ父親の顔が見たくて、何度も何度も
卵を持ち帰ってきたのだ。
きっとそれには、病気を治すために
この新鮮な卵を食べれば良くなるんじゃないか? という淡い期待も乗せてあったのではないかと
私は思っている。
それは、優しいのに優しさを素直に出すこともできない程の不器用な姉らしい行動だったのだ。
父親と姉はその卵を繋いで毎度毎度と同じように
これ以上にないほど嬉しそうな笑顔を
浮かべていたのだった。
あの日”
泣きじゃくる姉を見たときに
それは確信に変わったのだった。
止めどなく流れる涙と、ヒックヒックと
呼吸のままならないほど動揺してるその様は
大好きだから、生きていてほしい。
死なないでほしい。という、想いそのものだったのだろう。
病院に着くなり、8階の病室へと急いだ。
少し病院がアタフタしてるように思えたのは
恐らく気のせいだろう。
部屋の前に着くと先生の声と
ピッピッピッと、心臓音であろう音が鳴り響いていた。 部屋の手前で母親は声を震わせ
小さな。とても小さな声で泣いていた。
「未来‥さや‥ パパの所へ行って。」
声にもならない声でそう私達に告げた。
おばあちゃんと姉と私は父親の元へ行った。
私は走らずにゆっくりとその足を前に出した。
父親は目を瞑っていた。
私は大人たちの言うように理解できていなかったのだろうか。 父親が、目瞑っている。
けれど生きている。
状況判断よりも、父親の顔をじっと見つめ
片方の手を取った。
おばあちゃんと姉はやはりそこでも
すごく泣いていた。
それでも私はまだ、涙は流れていなかった。
父親の手は暖かったのだ。
目を瞑っていたけれど、父親は確かに
生きているのだ。
ここからどのくらいの時間か分からないけど
5分もしないうちに、
ピッピッピッと鳴り響いていた心臓音は
ピーーーーーという長い音に変化したのだった。
その後の亡くなった時間を告げる医師の
よく聞くあの、言葉は今でも思い出せない。
私は、ピーーーという長い音に変化するまで
父親のまだ温かいその手を握り
父親のその眠っている顔をひたすら眺め
「ありがとう」
と、何度も言った。
〜さやか 〜
私は、勉強が割りと嫌いではなく
負けず嫌いが強く
できない事ができるようになること。
それはすなわち、努力をすること。
それで、父親が褒めてくれることを
知っていて一生懸命頑張っていた。
頑張ることで、とても喜んでくれる父親。
その裏には、父親も頑張っているのだから
という小さいながらでもその気持ちは少なからず
私の中ではあったものだったのだ。
そんなある日、学校から母親に連絡が行ったことがある。
内容は、
「神谷さんが同じ社宅の川越さんに
少し意地悪をして、川越さんが学校に行けないと言ってる。」というものだった。
川越さんは、私と同級生だった。
無論、私は川越さんに意地悪など
していなかった。
しているつもり”は無かった。
川越さんにはお姉さんが居た。
私の姉、未来の一つ下だった。
社宅が同じということもあり
よく遊んでいた。
川越さん姉妹と、川越さん姉の友達と
私の姉と私で。
仲良しだと思っていた。
けど、遊んでいるとき楽しいと感じたのは
最初だけだったのだ。
私は川越さんの姉に何故かとても嫌われていた。
遊んでいても怒られたり意地悪をされていた。
そう、よく泣いていたのだ。
それを見かねて姉の未來は、いつも
庇って守ってくれたことを覚えている。
姉は感情を出したくないのだ。
けれど、その時は泣きながら川越さんの姉と
喧嘩になるほど私を守っていてくれたのだ。
「さや、帰るよ。」
と、私の手をひき家に帰ったことは何度もあった。
いや、毎度といってもいい程に。
遊ばなければ良かったのかもしれないが
川越さんの姉が謝ってきて、遊びにはすごく
誘ってくるので、私もまた、遊んでいた。
そして、遊ばなくなってしばらくした頃に
その電話はかかってきたのだった。
川崎さんの姉は私をよく思っていなかったけれど
妹の知恵ちゃんは、お姉さんとも性格は違くて
あまり喋らないおとなしい子だった。
私は、その子に何をしたのかずっと
闇雲の中なのだ。
けれど、知恵ちゃんは何かを感じて
学校には来れないと言っている。
私はこの時、悔しくてすごく泣いたのだった。
学校では元から話もさほどせず
接点があまりなかったのだけど、知恵ちゃんとは社宅が同じなので通学路で顔を合わせることはしばしば合った。 けれど、おはようも言わず
通り過ぎていたことは事実で、思い浮かぶのはそれくらいだった。
母親が父親に告げ口(報告)をしたのか、
その夜、父親が病院から私に電話をかけてきた。
「どうして電話をかけてきたかわかる?」
父親が聞いてきた。
私は「どうして。分からない。」
とぼけてしまった。
「そうか。 ママから聞いたんだけどね‥」
と、話を進めた。
私はイジメたつもりなどない、
私は悪くないのに、、、
と、泣いた。
けど、最後に父親は一言
「それでも、相手が嫌な思いしたことは事実なのだから、明日謝りに行ってきなさい。」
私は納得し切ることは出来なかったけれど
ほんの少しは、確かにそうだと思った。
自分が良かれと思ってすることでも
受け取る側によっては、迷惑なこともある。
逆だってある。
自分がしたこと、その想いが
まっすぐ相手に届くわけではないことを
この時に知ったのだった。
そして今でもそれは胸の奥底にいつもある感情になっている。
翌日、学校が終わってから私は川越知恵ちゃんのお家に行った。 すごく近いその距離がとても遠く感じた。腰が、足が、重たかった。
チャイムを鳴らすと、川越さんの母がドアを開けた。
「あの、、、知恵ちゃんはいますか、、」
うつむきながら小さな声でそう言った。
「居るけど、出ないよ!
いじめるのはやめてくれ!!
もうおはようも言わなくていいから、ごめんねも言わなくていいから何も言わないでくれ!」
それはすごい勢いだった。
10歳の私にはとてもとても怖かった。
けれど、
「明日謝ってきなさい。」
という父親の言葉がちらついた。
勇気を振り絞って
「ごめんなさい!!」と、勢い良く
そう言って、ドアが閉まるより早く
その場を立ち去った。
行く時とは違い、家に帰るのはすごく早かった。
近かった。
家に帰って考える。
私は川越さんのお姉さんになぜか好かれてなく
原因なんてないのに意地悪をされていたのに‥
私は直接的に知恵ちゃんに何かしたわけでもないのに。 どうして私があんなに怒られないといけないのか分からなかった。
けれど、考えるのはすぐやめて、
昨晩の父親の言葉だけを信じて、素直に
受け取った。
その日の夜も、電話が鳴った。
ひとまず謝罪は済ませたんだという安心感から
私はすぐに電話を取った。
だって、その電話の相手が父親だって
分かっていたから。
「パパだよ。」
と、父親は言った。
「うん、さやだよ。」
と、答えた。
「ちゃんと謝りに行けた?」
それはとても、ストレートな言葉だった。
「うん。ちゃんとごめんなさいって言ってきたよ。」
「そっか、偉かったね。
自分より弱いものには優しくしないとダメだよ。」
と、続けた。
私はこの時、また
なんでだよ!私は何もしていないのに!
と、反発心が芽生えたけれど
「うん、分かった。」
と、答えていた。
それから少し、学校の話やパパの話をして
電話を切った。
あの時、納得しきっていなかったけれど
その言葉の真意だけを素直に受け止めて
行動できた素直さは子供ならではだなと
思った。
そして、不思議だなと思うのは
私も子供が居るのだけれど
同じようなセリフを、父親のように
子供に今伝えて教育をしていることだ。
それでもやっぱり、私の子供も
「うん、分かった。」と、受け止めてくれる
ことに嬉しく思っている。
私が妊娠したとき
病院で検診の順番待ちをしていたときの事だった。
名字は変わっていたけど
名前を呼ばれる一人の妊婦さんがいた。
たまたま、目を向けたら
川越さんの姉だったのだ。
私は、目を見開いた。
川越さんの姉も顔からして私だということに
気付いていた。
だって、同じように目を見開いたから。
私は気づかないふりをして目をそらしていた。
けれど、呼ばれて用を済ませた川越さんの姉は
私の方に歩いてきたのだ。
「さやちゃん‥だよね?」
名前まで言われたらもう知らん顔もできないと思い「あっ!」と、とぼけた声を出してみた。
「お腹大っきいね。今、何ヶ月?」
普通に話しかけてきたときに少しビックリしたけれど「ちょうど半年くらいだよ。」と、笑って答えた。
少し沈黙のあと
「さやちゃん、あのときはゴメンね。」
もうそれがどの時なのか、沢山ありすぎて
正直分からなかったけれど、きっと全部をひっくるめてのゴメンね” なのだろうと思って
「ううん、もうお腹大きいね、出産頑張ってね。」
と、答えた。
「ありがとう!さやちゃんもね!」
と、少しスッキリした顔をして
じゃあまたね、なんて手を振って歩いて帰っていった。
私はそれから無事に出産を終えて
父親を亡くしてから20年の時が立った。
父親を亡くしてから、努力すること、
一生懸命に生きるということ。
忘れてしまった時期があったり、
楽な方へ逃げた時期があったり、
人にやさしくできない時期があったり、
本当に色んなことがあった。
けれど、今も変わらず想うことは
「ありがとう。」
このたった5文字の想いなのだ。
長い文章で綴れる想い、でもそれは
要約するとたった5文字の「ありがとう。」
生きてるって、辛いこともあるけど
苦しいことが目立つけど
それは脳が楽しいことより辛いことを
覚えているからなだけで、
目を凝らしてみると、ゆっくりと風の流れを
身体で感じてみると、
たったそれで、
生きてる幸せを感じる事ができる。
変わらない風景でも、
変わらない風景だからこそ
見いだせるものがきっとそこにはあるはずで。
忘れちゃいけない。
人生まだまだこれからで、
一生懸命、生きる。ということを
終わりが来るその日まで続けていきたい。
〜振り返ると、見えなかったものが見えてくる。
たまにこうして、振り返ろう。
時間に追われる毎日の中でも、その時間を
刻んでいこう。
本当にどうも「ありがとう。」
人の想いが人に伝わり
またその想いが人に伝わり
繋がっていく。
強く生きたらきっと大切な気持ちは
これからもずっと繋がっていく。
そう信じて、これからも歩いていこう。