それでも生き続ける
この世で最も重い罪は何だろうか?
そう聞かれたら、殆どの人はきっと「殺人」と答える。
そう、殺「人」だ。「殺し」ではなく、「殺人」。
何故それが罪なのかと考えれば、それは人間の持つ独特な「倫理観」というものから来る。
しかし、考えてみてほしい。
私達人間は、常日頃から「殺し」を行なっている。
1番分かり易いのは、虫だろうか。
私達は、虫がいれば大体の場合は殺す。何故って、その存在が邪魔だからだ。
自分が楽しみにしていた甘いお菓子にたかるアリや、呼んでもないのに家に入り込んでいるゴキブリ、勝手に血を吸って行って上に変な成分で刺した箇所を痒くさせていく蚊。
それらがいた場合、私達は躊躇いなく殺すだろう。
何故か?
邪魔だからだ。
目障りだからだ。
自分にとって必要の無い存在だからだ。
人間とは、そういったモノに対しては大概の場合無関心で、殺す事に一切の躊躇いを持たない。
現に私自身、ゴキブリがいればスリッパで叩き潰すし、蚊を見つければ即座に殺す。アリは時と場合によるが、特に指先で潰すことや殺虫剤をかける事に躊躇はしない。
何故か?
その命がどうでもいいからだ。
ところが、これが犬や猫になると変わって来る。
大抵犬や猫、または小鳥などは愛玩動物であり、殺していい存在ではない。
人間の中では、そうなっているのだ。
国によっては犬を食べる習慣があると聞いた事があるが、食べるために育てられている豚や牛、鶏の事を考えれば特に不思議は無いと思う。ただ、少し抵抗があるのは犬が人間に近い所に存在しているからなのだと思う。
まあ、それは一先ず置いておこう。
散々ダラダラと命がどうとか語っているが、私が言いたいのは別にそれでは無いのだ。
「殺人」は罪。
それは人間の倫理観に則って考えれば当たり前。
「殺し」自体はそう悪い事ではない。
だって生きる為には大抵何かを殺して食べる必要がある。
では、「自殺」は罪か?
「自殺」は法で裁く事は出来ない。
何故なら「自殺」した者は既に死んでいるから。裁くとしたら自殺に追い込んだ別の人間であって、実行者ではない。
何故「自殺」するのか?
生きるのが辛くなったから。
「自殺」は逃避行動が行き着く所まで行った結果なのだと私は思う。
けれど、本当にそれだけだろうか?
本当に、辛いから死にたくなるのだろうか?
死にたいと思う人の中には、他人には想像もつかない理由で死にたいと思う人がいると思う。
何故そう思うのか?
私が死にたいと思っているからだ。
別に何か死にたい程辛い事があった訳ではない。
人並みに生きて、人並みに悩んで、苦しんでいる。
突出した所は何も無い。
好きな物は普通に沢山あるし、楽しみにしている事も全く無い訳じゃない。
ただ何となく、死にたいと思う。
それは、ふとした時に訪れる。
ある時は、道を歩いている時。
ある時は、お風呂に入っている時。
またある時は、布団に寝転がっている時。
つまりは、何も考えていない時だ。
最初に死にたいと思ったのは、小学生の頃だった。
何故だか全く眠れなくて、頭上に手を掲げた時、これは本当に存在しているのか?と不安に思った。
今此処に生きている自分は、本当は誰かが見ている夢の中の存在なのでは?
誰かが作り出した、虚構の存在なのでは?
そもそも、「自分」とはいったい何なのか?
初めてそう考えた時は、怖くなって思考を打ち消した。自分の手を握って、その存在を再確認した。
そうして打ち消した筈の問いは、消える事なく私の中に燻り続け、今尚胸、または、腹、あるいはもっと深い所でジリジリと音を立てて私を責め苛む。
好きな物は沢山ある。
好きな人も沢山いるし、愛されているとも感じている。
けれど、ふとした時に顔を覗かせる空虚さは、私に無性に「死にたい」と思わせるのだ。
そうして、時折私はカッターを手に取る。
けれどそれだけ。
偶に刃を出して手首に押し付けようとしたりするけれど、そういう時には何故か漫画の最新巻の発売日を思い出したり、クリアしていないゲームの続きに想いを馳せたりするのだ。
あの小説が完結するまでは生きていたいな、とか。
あのゲームの最新作が出るまでは死にたくないな、とか。
私が死にたいと思いながらも踏み止まるのは、案外そういったくだらない理由が多かったりする。
そうして私は、結局生きている。
これからもきっと、そうして生きていく。
死にたいと思いながら、ダラダラと、惰性的に。
死にたいと思いながら、日常と非日常を同時に望みながら。
矛盾した想いを抱えながら、死ぬその時迄、私は結局生き続けるのだろう。
そんな私の、普通に幸せで普通に不幸で、時々死にたくてたまらなくなる、くだらない人間のくだらない人生。だけど何故か、まだ生きたいなと思える、何処か愛しい、ささやかな人生。
読了ありがとうございました。
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