冬
おお定めしズルズルの、君を思えば褥の啓蒙。
愛は一つの大きな疣疣の青坊主。
破褥の糜爛が心をゴゴジャジャにするとき、そなたの痣がア、ア、ア、と絶叫の的張り。
連棘と寂寞の鉄槌がベロベロのガリガリ。
グズグズのザラザラがグヌグヌすれば、誰ぞズグズグの焚書は禁断のねじりり鉢巻赤きのこ。
木々は示し合わせたように葉を落とします。まるで冷酷に葉を落とすことに何の感慨もないような形相です。木々は冷酷です。しかし木々に触れるとどんなに寒い日であっても、その幹の内側に確かな生命の温もりと躍動を感じます。木々は温もりをその胸の内に秘めています。
「人間よ皆美しく作られていることを自覚すべし」
僕は保健室にゆきます。立ち枯れの草木を横目に見ます。保健室には老ねこが一匹います。保健室にはモルグがいます。保健室にはカタコンベがいません。冬の日です。
僕は授業についていかれません。僕は虫です。僕のような子供は保健室にゆかねばいかれません。
雪が降ります。雪は音をスポンジが水を吸うように吸い取ります。積もった雪を手のひらで掬うと雪がスポンジのようになっているのがわかります。雪はスポンジのようになっています。スポンジのような雪は音を吸います。雪を踏むと、キュッキュッ、と、それまで吸った音が漏れて出てきます。雪を手のひらで掬うと手のひらが冷たい。
手のひらはたいてい温かくあります。雪はたいてい冷たくあります。手のひらが温かければこそ、雪の冷たさを感ずることができます。
ねこは瞑想をします。一年を通して瞑想をします。人間は瞑想をあまりしません。瞑想は退屈です。退屈な瞑想をねこはします。人間の一年はねこにとっての五年です。人間が一年生きる間にねこは五年生きて、しかも多くを瞑想に費やします。ねこは人間の何倍もの早さで徳を積み悟りを開きます。無意識の内にそれを感じ取った人間は、ねこによくよく奉仕をします。
僕は奉仕をするために保健室にはゆきません。僕は授業についていかれません。僕は授業についていかれないので保健室にゆきます。僕はただ保健室にゆきます。保健室には老ねこが一匹います。保健室にはカタコンベがいます。保健室にはモルグがいません。
「無形の情を永劫忘れずに大切にせよ」
保健室にはいつしか僕だけがいます。保健室にはいつしか二匹の老ねこはいません。保健室は広々としています。保健室は閑散としています。保健室は深閑としています。僕はそれでも保健室にゆくしかありません。僕のような子供は保健室にゆかなければいかれないのです。
ねこは九つの命を持っています。人間は一つの命を持っています。ねこは生きている間にとてもよく瞑想をしてとてもよく徳を積むので九つの命を手に入れられるのです。人間は徳を積んでもすぐに悪徳に手を染めます。人間は一つの命を持っています。
ねこは死に際を悟るといいます。人間は死に際を悟ることができません。死は突然に殺到し、周りの人間がおたおたしている間にすべてをさらいます。またはじわじわとゆっくり時間をかけて、地に染みた毒がゆっくりと根を枯らすように命を刈り取ります。人間は死を悟ることができません。
ねこの本能は死を悟ると身を隠そうという方向に働きます。死に際を見せたくないから、だの、肉体的衰弱を知り、より安全なところに移動した、だの、色々なことを言う人がいます。しかし人間は理を知りません。ねこと死と悟りは、ねこのみぞ知る理です。ねこは理を語りますが、ねこの教えを受ける機会を得る人は多くありません。
一生に一度、飼い猫は飼い主の前で人間の言葉を使って喋るといいます。その時ねこは理や悟りを喋ります。しかし人間はその理や悟りに至る道筋を知りません。
雪は音を吸います。ねこの理や僕の喃語を吸い取ります。雪を踏むと、キュッキュッ、という音がします。ねこの理や僕の喃語が吸い込まれて混ざった音です。
僕は、ニャア、と、鳴きます。保健室には僕だけがいます。冬の冷たい空気に春がかぶさり始めています。
おわり
手癖と勢いで。
深くは考えていません。