春
ねこが出ます。
啓蟄に精虫はぞろぞろ出てくる
春の詩人の睾丸はまだ固く青い梅の如し
土の香が紛々とかぐわしい梅肉のだんびら
馬が走る
去年の子供の内耳の蝸牛につるつる貼り付く桜の花弁
咲いた咲いただくだく行列の花
別れのスコップ
出会いの白墨
昨日梅の毒に当たって二町隣のお婆さんが……
僕は保健室にゆきます。保健室にはねこが二匹、名前はモルグとカタコンベ。どちらも雄の老ねこです。いつからとも知れず保健室にいます。僕はその二匹に会いにゆきます。
出会いは白墨の粉の舞う舞う春の日。二匹はウンともニャアとも言わず保健室にいます。保健室は僕のような子供がゆかなければいかれない場所です。
まだ春の日差しが薄く冬の寒さに覆いかぶさってところどころ寒い日が続く日です。僕は保健室にゆくと彼らはこう言います。
「子供はニャアと鳴け」
「人間は喃語を喋るべし」
ねこは日がな一日よく寝ていると思われます。しかしねこはその一日のほとんどを瞑想に費やして過ごしています。彼らはとてもよく徳を積んでいます。
ねこの言うことはとてもよく正しいです。僕だけはそのことを知っています。僕は保健室に通っているので知っています。二匹の老ねこの教えは授業についていかれない僕を正しく導きます。授業はごみごみしていてひどくうるさいものです。僕は授業についていかれません。僕は二つの言葉を同時に聞くことができません。二匹の老ねこは順番に喋ります。
僕は二匹の老ねこの教えに従って、保健室で、ニャア、と、喃語を喋ります。保健室の二匹の老ねこは喃語を喋りません。彼らは人間の言葉を喋ります。ごく当たり前のことですがねこは人間の見ていないところでは人間の言葉を喋ります。ごく当たり前のことですがねこの世界にも社会と秩序があります。言葉を使うことができなければ意志疎通ができません。言葉を使うことができなければ意志疎通ができないので社会は成り立ちません。ねこは人間のいるところでは喃語しか喋りません。ねこは本当は人間の言葉を使います。人間の言葉で意志疎通をし、ねこの社会は成り立ちます。
保健室にはいつだって僕と二匹の老ねこだけいます。人間は授業にゆきます。ねこは授業にゆきません。授業についていかれない僕は保健室にゆきます。ねこは人間の見ていないところでは人間の言葉を喋ります。僕はどうやら人間のなり損ないです。二匹の老ねこは保健室の中では人間の言葉を喋ります。
僕は春の日差しに当てられてもぞもぞと動き出す虫です。暖かい日差しが冬の冷たい風の合間を縫ってほかほかと身体を暖め僕は蠢動します。精虫もぞろぞろと這いだして各々のやるべきことを遂行しているように見えます。
春の日差しはうららかで、寒々として枯れ葉の震える冬の日をすっかりと溶かしてしまいます。僕はコートを着るのをやめます。暖かくなれば、毛、を着る必要はなくなります。しかしねこは、毛、を脱ぎません。彼らはよくもこもことした、毛、を着て、今日も瞑想をします。
僕はただ、ニャア、と喃語を喋ります。そうしている間に春は過ぎます。
梅雨の空気は僕の胸の内をじくじくと湿します。しかし僕はじくじくとした気持ちに苦悩を示しません。何故ならば梅雨の先に夏の日差しが僕の胸の内をからりと乾かすことを知っています。二匹のねこもそう言います。しかしねこは身体をしとしとと湿して、顔をしかめて目を閉じてじっと、動くことをしません。ねこは瞑想をしています。
雨が湿してふやかす梅雨の日は人間をうんざりさせ、またどうしようもない不思議なわくわくをもたらします。
保健室のガラスを通して見る外の世界の様子は、雨がまっすぐ下によく落ちます。梅雨の時分の雨はまっすぐ落ちることを二匹の老ねこはこう教えます。
「子供は足で遊べ」
「人間は尾をよく振るべし」
梅雨の雨がまっすぐ下に落ちて地面に染みて広がっていくように、ねこの言葉が脳みそに染みてゆきます。
授業は言葉がたくさん詰め込まれています。僕の脳みそはそれを吸って膨らむことはありません。不思議と授業の間に降り注ぐ言葉の雨は僕の頭の中に入っていくことをしないでどこかにこぼれ落ちます。授業は喃語では行われません。
僕は保健室の中でニャアと鳴きます。
二匹の老ねこは何も言わずただ目をつむり瞑想に精を出します。