其の七
「千尋、千尋!!」
僕の体を兄ぃが受け止めた。あれ。気付いたら僕は血が足りなくて地面に突っ伏しようとしてたらしい。どんまい、どんまい。
「休んでろよ。椿木の欠片は俺が消し飛ばすから、お前は安全なところに」
「安全な、とこ、ろ?」
そんな場所なんて今の黄泉には無い。僕は掠れる視界の向こうの意識の無い椿木を見た。黒い、黒い思念の澱み。澱みは椿木を包み込み今や竜の形になっている。
長い胴体をずるずると引きずり、恐ろしい形相を浮かべて瘴気を轟々と吐く竜に。
しかも安全な場所があったとしてどうだと言うのだ。
「兄ぃもぼろぼろのぐしゃぐしゃのくせに」
拷問と言ったか。言うことを訊かないから百鬼達に相当無理をされたらしい。左腕なんて折れているじゃない。ああ、思い出したら腹が立って来た。
「……しっかり那谷を殺しとけばよかった?」
「千尋が変な方向に目覚めちまった!?」
僕の零した言葉に兄ぃがさぁっと青くなった。冗談冗談。三割本気だけど。
「んじゃ、八柳。雪女ちゃん、木霊さん、子守り灯さん。黄泉は保たないぜ。ここの連中全員を一応、天狗町に避難させてくれ」
黄泉の町は空間に根を張り、ぎしぎしと不穏な音を立てている。そろそろ崩壊して何も残らなくなる。存在するものは無に還る。
「解った」
「はいはい」
八柳は素直に七不思議達は少し不安そうに声を上げるのだった。
「千尋は――――」
「僕は椿木のところ」
有無を言わさず僕は両翼を広げた。おい、っと慌てた兄ぃの声を訊き、僕は椿木に呼びかける。
「椿木、椿木! 帰って来て、目を覚まして! ……僕と兄ぃと、七不思議達と。みぃんなで一緒に帰るの!!」
人間の居るべき場所へ。
本日最後の戦いは百鬼夜行の鴉天狗、那谷を斃して始まったのだった。
※
僕が金槌を叩き付けた際の土煙を利用して分身し、油断して分身の懐に突っ込んで来た那谷を見事斬り付けた。ここで那谷は戦えなくなった。その場に堪らずくずおれ、僕の勝利が決まったのだ。
「那谷が負けた?」
「あの百鬼一の戦闘狂が……」
どうでもいい。どよどよとざわめく子鬼達の間を駆け抜け、ぬらりひょんに詰め寄ったのだ。
「さぁ、決闘に勝ったよ。返せ! 僕の大事なお兄ちゃんを返せ!!」
「お兄ちゃんか、一度も笑えぬ小娘がぁ。随分と人間らしくなりおって」
ぬらりひょんは勝敗はともかく、ぽんぽんと何故か僕の肩を叩いた。ん? 何それ。意味解らない。僕がまさかぬらりひょんに触れられると思わずに暫し固まっていると、扉の開く音が響き、
「千尋!?」
素早く解放された兄ぃを見付けると椿木と雪女の歓喜する声が上がった気がした。
走っていた。
穴の空いた脇腹も痛くて、口の中は血の味がするけど。体中痛かったけど無我夢中だった。夢中で走っていた。刀を落として兄ぃに見事抱き付いた。
言いたいことが沢山あったのに僕の口から出るのは情けないことに泣き声だけで。兄ぃはそんな僕を無言で抱き締めてくれた。
僕のちょっとした黄泉への冒険と決闘は終わったのである。
すぐ見座めた那谷はぬらりひょんに、情けないのぉと溜め息を吐かれていたり。僕、無闇に人を殺さない主義だから。あ、間違った。那谷は怪異だっけ。
そんな那谷はじとっと僕を睨み付けて来たので。僕は腹の傷の恨みもあり、
「べー」
「ぶ、ぶっ殺す!!」
僕は兄ぃに抱き付いたままあっかんべーをしてやったり(笑)
「う、うう。よかった。本当によかった」
次の瞬間。貰い泣きをして顔がぐしゃぐしゃになった椿木の様子が一変した。
「え……?」
すっと表情が消えて椿木の周りがぐにゃ、と歪む。違う。歪んだのは椿木の背負った闇。欠片と言われた悪霊の一歩手前の存在。
くす。くすくすくすくす。
黄泉にぞおっと背筋が凍るような不気味な声が響いた。不思議に思うんだけど七不思議の、百鬼の怪異達は不気味だと、怖いと感じるのだろうか。その前に、椿木だ。
僕が走り出そうとすると兄ぃに腕を掴まれ、危ねぇ、バカ!! と、勢いよく引き戻された。
「椿木は何も訊いてねぇ。椿木に憑いた欠片は、椿木と一緒に黄泉の空気の中にいた所為で強くなっちまった。間もなく怪異に、悪霊になるだろうよ!!」
「……そんなの嫌だよ。椿木は無事に帰るんだよ。日常に帰るんだ!!」
※
僕はひたすら時間を稼いだ。
悪霊を、この竜を滅するのには僕の力は必要無い。必要なのは兄ぃの力。それこそ簡単に生み出せる力じゃない。人間の体の兄ぃは自己催眠による催眠状態を維持しなければならない。
そのまま自分の心許す道具に執念とも言える自分の思念を入れ込むのだ。
兄ぃは一人錫杖を持ち、片手で印を結んだまま両瞼を閉じる。後は無防備な兄ぃに怪異を近付けさせない。
僕は、兄ぃの盾。
しかし、僕はあまりに消耗していた。昨日、那谷に腹に穴を空けられ、今日はすぐに兄ぃの奪還戦。いい加減に体力も精神力も限界だ。
見渡すと七不思議達が百鬼を導き、黄泉から引き上げて行く。崩れて行く僕の故郷、か。
「おい、貴様!!」
僕は那谷の声に我に返った。血が足りなくなったように脳裏が霞みがかり、僕は竜の尻尾に見事体を打ち付けられ吹き飛んだ。目の前は完全にブラックアウト。鞠のように弾む僕の体は壁に叩き付けられ、
「?」
……なかった。何かにぎゅっと受け止められて僕は瞼を開く。
「ナニシテルノ」
「お礼ぐらい言ったらどうだ。死にぞこない」
僕の硬い声音に答えたのは僕と戦った那谷。何で僕を受け止めているのか知らないけど、お礼は言わないと心に誓った。そんな僕を見ると那谷はぎぎっと目を光らせ、笑う。
「おい、貴様の兄貴は欠片を片付けられるんだろうな?」
「む。……兄ぃにかかれば竜の一体や二体!!」
※
走る。
あの暗く忌まわしい旧校舎をひたすら走る。
俺は気付いたら旧校舎にいたんだ。そして、
『くすくすくすくす』
廊下いっぱいに体を膨らませ、捻じ曲がった手足で這いずり回るあれから逃げていた。相変らず体中に噂する顔達を張り付け、口は姦しく騒ぎ立てる。
「来るなぁ!! こ、これは夢だ。俺は、俺は千尋達と逢ったんだぁ!!」
捕まれば、死。
直感した俺は旧校舎を走り回り、これから逃げ惑っていた。恐怖に歯が鳴り、口から漏れる言葉は謝罪と、「千尋、鳴神さん!!」二人の名前だけだった。
脳に走る走馬灯。千尋と出逢って、鳴神さんと出逢って。決闘の存在を知って、百鬼夜行が現われて。
……びびったり、千尋に説教したり、一緒に笑ったり!! 涙が零れる俺に小さな声が囁いた。
「椿木」
千尋の声に俺は喉を枯らした。
「千尋、千尋、情けないが助けてくれ。俺、お前のこと忘れたくない。死にたくない」
「椿木、戻って来て!」
「何処に!? お前の声何処から響いてるんだよ!?」
「僕、椿木の目の前だよ。見えないの? 欠片に捕まっちゃ駄目だよ。ここから戻って来るんだ」
「何処に行けばいい!?」
「僕の声の方向へ。光の照らす方向へ!」
俺は走りながら両腕を思いきり伸ばした。俺は帰るんだ。日常に。
生きて帰るんだ。
その時、俺の腕を掴む小さな血塗れの掌が見えた。
「ぐ!?」
俺はその掌にぐんと引っ張られ、一瞬宙に浮く感覚を味わった。
ん……? くらくらする。苦しいし。暗い、な。俺は瞼を押し上げると、同時に咳き込んだ。いっきに新鮮な空気が肺に押し寄せてきた感じだ。千尋は俺の両腕を掴み、体を真っ黒な闇の竜もどきからひっぺがえす。
目覚めてびっくり。俺、今まであの悪霊の中にいたのかよ。竜の形になってる悪霊は俺を完全に飲み込もうと口を開き、しかし、
「悪ぃな」
それは叶わなかった。
俺は千尋を守るように抱き締め、目の前の鳴神を見ると固まった。一人、目を剥く大きさの刀を握った鳴神がいた。100、200センチはある、あまりに大きい、何かを斬るより部屋の飾りに使われそうな刀だ。その刀身は闇よりも暗い。どす黒い。いっそ神々しいほどに。
その刀身は今深々と悪霊に突き刺さり、鳴神はふっと笑った。
「……塵も残さず消えてくれ」
断末魔。
黄泉に悪霊の甲高い断末魔が響き、悪霊はぼろぼろと形を失って行った。
「人間の世界は」
千尋は悪霊が砂になって行くのを見ると小さく囁いた。
「棘を、悪意を孕む噂が耐えないと思うんだ」
怨み。妬み。嫉み。人の業は、人が居続ければ絶えない。しかし、千尋は続ける。 「けど」と。
「君が悪霊の雛なら砕かれても、また生まれる。また繰り返す。その時に今度こそ噂にじっと心を傾けて見るといい」
人を慈しむ、何かを愛おしく語る噂もきっと存在する。
黄泉の一部が消える前に俺達は天狗町に帰って行った。帰る、と言っても霊媒師達に任せきりで気付けばまた瞬間移動してる始末。
慣れって怖い。
千尋は百鬼夜行達に、 「兄ぃはどんな目に遭わされても優しいし、優しいし、優しいし! 困った人にも怪異にも腕を差し伸べてくれるんだ」と睨みを利かせた後、鳴神に抱き付いていた。
「人間に見られる前に帰ろ」
「今回はここで解散でいいですよね!?」
七不思議達と霊媒師達はあっさりしたもので時間を確認すればさっさと消えてしまった。八柳は事の顛末を簡単に纏めたいとぬらりひょんと何かを話し合ってるし、今回、千尋と戦った那谷は百鬼の面々に何かを頼み込んでる様子だった。
俺は鳴神の横に走って行くと深く一礼して、
「有難う御座いました!! 俺、鳴神さんに、千尋に命を救って貰いました。本当に有難う!!」
「俺とすれば、何か百鬼の喧嘩に巻き込んじまったな……」
鳴神はすまねぇ、と眉を下げる。
「そんな! 驚きはしたけど一番酷い目に遭ったの鳴神さんじゃねぇかよ! 体、大丈夫なのか!?」
「ああ、俺ぁ千尋より丈夫だから」
人外魔境より丈夫なお方がいた。
一方、千尋は俺を見上げると、
「椿木。椿木は僕の友達!? 僕が怪異でも、不純物でも友達?」
と、上目で迫って来た。上目は卑怯だぜ。俺はどちらかと言えば年頃のお姉さんが……じゃない。
俺は真剣に千尋を見ると目線を合わせる。
「友達。絶対に友達。それと、自分のことを不純物とか言うんじゃない。お前はたった一人のお前。大事な黒鵺 千尋だぜ」
そんなちょっと臭い俺の言葉に千尋は、ぱああっと微笑んだのだった。百鬼達が何を言おうと千尋は千尋さ。こればっかりは譲れないぜ。
こうして、俺の悪霊憑きの騒ぎは散々周りを巻き込んだ挙句に幕を閉じるのだ。