其の三
俺は木造の天井に蜘蛛のようにへばりついた人間の形をしたそれを見付けると弾けたように悲鳴を上げた。俺の豹変に気付いて他の二人も続きそれを目撃してしまう。二人も同じく悲鳴を上げた、んだと思う。よく覚えていない。俺にはそれしか見えなかった。
それは目玉の無い、人間の成り損ないみたいな奴だった。俺と同じ高校の制服を纏った人の形の肉塊。白い生々しい骨の見える顔。無残な黒い髪。ぐずぐずの不気味な真っ赤な肌。何より、
『あ、ああ……!!』
真っ赤な肌に張り付いてる無数の顔!
喜怒哀楽。様々な感情を湛えた顔が口々に喋っていた。
『ねぇ、知ってる?』 『って、噂があるんだって』
『この前、皆で肝試しに行ったのよ』
姦しく喚く、沢山の顔達の不協和音。
『……な、な』
不気味だ。それに当然怖い。
俺は混乱を極めた。
この顔達は何を言ってるんだ。一体、これは何なんだ。
そんな絶句した俺の目の前に。ぐしゃり、と不気味な音を響かせて制服を着た肉塊が落ちて来る。ぼき、ぼき、と不愉快極まる音と共に首を捻じ曲げ、その眼窩を俺に向ける!
『旧校舎の生き埋めにされた生徒じゃねぇよ? ……は、はは。俺達。歌、歌なんざ、訊いてねぇ。訊いてねぇよおおおおおおおおおおおお!!?』
澤木が狂ったように言うと、一人走り出した。
『澤木、待っ、……わ、わひぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!』
中村は一人腰を抜かすと耐えられなくなったのかひたすら悲鳴を上げ続けた。鉄臭い血の匂いと、姦しい不気味な声共と悲鳴が支配する空間。
『ああ。旧校舎の生き埋めにされた生徒の噂に惹かれたんだね』
肉塊は金縛りにあったような俺の足を掴むと、
『……ひ!』
ずる、ずる、と俺の体を器用に這い上り、真っ黒な眼窩で見上げて来た。その間にも俺にはそれに張り付いた無数の声が聞えて来る。
『でも、何も出なかった』 『でも、所詮は噂よ』 『暇潰しだし』
『嘘臭ッ。嘘臭いッ。何それ、何の冗談?』
『笑えるわぁ。けれど、誰かがホントウに死ねばもっと』
俺は叫び出しそうになる衝動を抑える中、確かに訊いた。
『!?』
その言葉。何処かで……!?
それを見付けた瞬間。俺は目を大きく見開き、
『あぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!?』
恐怖に泣き喚いた。
その顔は俺に噂を教えた女子達の顔だったのだ。
すると、それの形相が醜悪なものに変貌した。
『旧校舎の幽霊ぃぃ? 誰かの流した噂に決まってんじゃんんんん!?』
体に張り付いた顔の言葉じゃない。今のは紛れも無く目の前の肉塊の言葉。それは醜く嘲笑した。
『な……!?』
『そんな霊なんざ居ない。生き埋めになった生徒なんざ居ないぃ! 誰も歌声なんか聞かない!! 誰も死なないぃ!! けれど、「それじゃ、つまらない」ぃぃ!!』
肉塊は咆えれば咆える度に肉片を撒き散らし、崩れて行った。俺は力が抜けたように両膝を折る。
『猩々院 椿木。……僕達の世界にようこそ』
俺はその後を覚えていない。一人逃げた澤木が大人達を連れて来て、気絶した俺と茫然自失の中村を病院に連れて行った。消毒臭い、病院のベッドの上で起きた俺の中には、……既に奴がいたんだ。
何の為に俺に憑いたのか解らない。しかし、何の罰かはよく解る。
これは人の想いを俺の脳に再生する。見せ付けるように。人間はこんなにも醜いんだぜ、と擦りこむように。
※
「覚悟。ん、んー」
「……椿木の、ばーか」
僕。僕、黒鵺 千尋は不気味な『欠片』に憑かれ、この町に来たと言う人、椿木の氷枕を替えると零していた。
欠片、と言うのは。
兄ぃ曰く。椿木に憑くのは悪霊、怪異になりかけのものらしいのだ。手遅れにならなくてよかった、みたい。
ここは、普段は使わない奥の客間だ。
稀に椿木のような霊を滅して欲しい人が来る、日の当たらない部屋。ちゃぶ台に一輪挿しの陶器の花瓶。壁の大きな古時計。座布団が敷かれている程度の。椿木の布団一式はお泊りお客様用。
……椿木が何故魘され、寝込んでいるか。
これには僕も少し驚いた。何のことは無い。僕の事情に首を突っ込むか否かを風呂の中で延々と悩んだ挙句、湯にあたり、ひっくり返っただけ。魘されている理由は知らない。
「……僕のことなのに」
首なんか突っ込まなければいいのに。
しかし、
仲よくしようぜ。
椿木は僕に言ってくれた。
「……ほんとの僕を見れば」
そんなこと言わなくなる。僕は椿木とは違う。学校の誰とも違う。
「いいや、本当のお前を見ても椿木は変わらねぇよ。心配すんな。椿木はいい人間さ。……基本、怪異と人間が交わることは無い。見ることも、言葉を交わすことも叶わない。椿木に憑いた欠片の執念。想いは解らなくねぇが、俺が滅してやるよ」
「……」
何時の間にか兄ぃが襖を開けて僕達を眺めていた。目が本気だ。あの目をした兄ぃから見事逃れた怪異を、僕は知らない。この欠片は日が昇れば大いなる神羅万象に還るだろう。
……『絶対』に。
兄ぃはニッと笑顔を見せると古時計を見た。
今。午後十一時 五十分。
僕は時間を忘れていたことに目を見開き、兄ぃと一緒に客間を出て行った。
「……決闘まで、あと十分」
……。
深夜の空に浮かぶ三日月を見上げる。
この時間だと空気が冷えて肌寒くも感じる。僕と錫杖を握った兄ぃは僕達の屋敷の屋根に佇んでいた。本当は屋根に上ってはいけません。
落ちれば大怪我するから。人なれば。
勿論、僕達は涼む為に屋根にいるわけじゃない。決闘の待ち合わせ場所は何時もここなのだ。
「午前、……零時!」
懐の古時計を覗く兄ぃの声。それと同時に僕達の『待ち人』が目の前に現われた。山伏の装束を纏い、黒い羽毛に包まれた体。鴉の顔の妖怪。
彼は上空に留まると、視線を屋根の上の僕達に向けた。
「今宵こそ。この天狗町を怪異側に返して貰うぞ。|千尋殿」
「……八柳」
彼の名前は八柳。
八咫烏なる怪異の組織の一員で、理由があり『毎晩』僕と天狗町をかけた決闘を行っている。決闘相手と言う関係で六年近く付き合ってる間柄だ。
僕が深呼吸すると、黒く黒くボクの体が塗り潰されて行き、人から解放される感覚が僕を包む。
僕は今、人の形をしていないだろう。簡単だ。人じゃ無いのだから。
僕も目の前の彼と同じ。鴉天狗と言う名前の、怪異。彼と同じ種族だ。
「「勝負!!」」
僕と八柳の声は同時だった。
早速八柳が僕に突進して来る。何の為にか。無論、僕を戦闘不能になるまで叩き伏せる為にだ。僕もそれに応じる。僕だって八柳を叩き伏せる気満々だ。これが僕達の関係。この町の昔の人間が怪異と結んだ遠い約束。
「千尋!」
「大丈夫!!」
兄ぃの声を訊き、僕は大きく錫杖を振り被った。
※
「……ぐっは!!?」
椿木の、潰されたような声を訊いた気がする。
僕は思いきり後ろから大きく錫杖で殴られ、黒鵺家。僕の屋敷の屋根に墜落した。いいや、これじゃ叩き付けられたと言う方が正しい。しかも、僕の体は屋根をぶち破り、家の中に落下した。
その屋根の下は運悪く、客間であり、更に運悪く椿木の布団の真上だった。視界がブラックアウト寸前になる。その為、僕の体は人間のそれに戻ってしまった。
「は!?」
椿木は上半身を起こすと目をぱちぱちさせた。自分を巡る状況が全く解っていないらしい。僕が口を開くより先に椿木は、僕、と言うより屋根を突き破って来た落下物の正体を確かめるべく僕の装束を鷲掴み、
「千、尋」
「……」
「……何、してんの?」
僕と屋根を交互に見ると椿木は声を引き攣らせた。僕が再び口を開こうとすると椿木の上にあいた穴から兄ぃが降って来た。何時も何時も兄ぃは人間離れし過ぎてる。
「千尋! 怪我を!!」
怪我? 僕は自分の体を確かめると、左肩が浅く裂かれていることに気付いた。
八柳の奴、今回は刃物を持参したらしい。正直、錫杖だけかと思ったが。ルールを守れれば『何を使用しようといい』のだ。甘かったかな。
兄ぃは自分の着物の袖を裂き、僕の左肩をきつく固定した。応急処置と言ったところか。
「八柳。俺の客と天狗町の建築物を巻き込むのは、『ルール違反』だ!!」
「!? 一体……、ええ?」
椿木が言葉を失い呆然としていると、八柳が屋敷の屋根に降り、穴を覗く。
「まだだ。戦え、千鶴殿! われ等、『八咫烏』。古の契約により、町を守護する守り人を駆逐する!!」
と、挑発するように僕に錫杖の先を向けるのだった。
「ルールは違反は決闘無効になるぜ?」
「ルール、か。
一、天狗町の人間に気付かれてはならない。
一、町の建造物を極力破壊しない。
一、決闘時間は午前零時から始まり、日が出るまで。
一、決闘者は怪異。
一、守護者が混血の場合、補助役を一名許す!
しかし、この人間は例外である。見れば悪霊になりかけの思念の欠片に憑かれているではないか!!」
兄ぃの言葉に八柳は大真面目に答え、椿木を見詰めた。一方の椿木は、
「な、何言ってるんだよ。わけ解らねぇ!! ……? って、お前怪異!!?」
怪異のトラウマにより、八柳を見ると逃げ腰になった。否、人間はトラウマが無くとも怪異を見れば逃げ惑う、か。
「ああ。鴉天狗の八柳。『八咫烏』って組織の一人だ。俺と千尋は午前零時を迎える度に『八咫烏』から送られる一体の怪異と決闘し続けなければならねぇ。千尋の傷の理由さ」
「!」
椿木は僕を驚きの瞳で見た。八柳の言ったルールを思い出したのだろう。
一、決闘者は怪異。
「千尋。千尋は、怪異なのか?」
噛み締めるような椿木の質問に僕は正直に応じた。
「……僕、半分人間。半分、鴉天狗」
行き付いた真実に椿木は絶句する。椿木はしかし、慄くどころか僕の両肩を掴むと、
「千尋が怪異で、体の怪我は決闘が理由って、何だよそれ! お前、小学生じゃん!! 下手すれば、怪異でも死ぬんじゃねぇのか! 血だって流れるんじゃねぇのか!?」
「……!?」
え?
僕は完全に虚を突かれてしまった。
僕は確かに人間年齢は小学生なわけだけど。確かに血も出るし、闇に還ると言うわけでは死に等しいことにも成り得るが。……怖くないのか。避けないのか。
僕を千尋として扱ってくれるの?
「千尋だけじゃねぇ。きっと闇の契約をして普通を保ってる場所なんざ沢山あるぜ。存在するのは人間達だけじゃねぇからさ」
「け、けど!」
「……椿木。これ、僕のお仕事」
僕は椿木に有無を言わさず言いきった。僕を心配し続ける椿木の様子を見ると満足そうに兄ぃは僕の肩手を置く。大丈夫だったろ? って。
「……」
僕は暫く何も答えられなかった。
「勝敗は付いていない。来い、千尋殿!!」
横から挟まれた八柳の声に僕は首を傾げ、
「…………八柳。僕の家の屋根破壊したでしょ?」
突き破ったのは僕だが原因は八柳。古い屋敷なのに、これ以上の損傷は困るなぁ、と錫杖を向けると八柳は面白いように戸惑い、兄ぃを見た。
「き、貴殿の屋敷の屋根は。決闘後、穴を塞ぐ!!」
「割と律儀!!」
午前を時計が刻む中、律儀で真面目な八柳の解答を訊きた椿木のツッコミが響き渡る。詳しくは決闘後に説明するから、と椿木に言い置き、僕達は再び深夜の空に舞い戻った。
お前、小学生じゃん!!
椿木の言葉が僕の心を優しく擽った。
何だか全く負ける気がしない。
「椿木」
「?」
必死に屋根に上って来た椿木は僕を見上げる。落ちそうで危ないなぁ。
「有難う」