其の二
俺の悪霊を滅せられる人間は黒鵺 鳴神しかいないらしい。
俺の命運を握る人だ。絶ッッ対、見付ける。
猫月曰く、黒鵺 鳴神は神出鬼没だが、唯一の身内の千尋の下校時間に迎えに現われる時が多いのだとか。
夕日は傾き、下校時間が過ぎて行く。
と、俺が曲がり角を曲がった瞬間、
「!?」
俺は自分を襲った衝撃に耐えきれず、綺麗に引っくり返った。
「ん、悪ぃ」
どうやら、人にぶつかったらしい。俺とぶつかった相手は引っくり返るどころかびくともしなかったようだが。
俺は腰を擦りつつ、瞳を上げて、 「あッ」と、間抜けな声を漏らしていた。
随分と草臥れた、群青の着物の青年だった。
俺よりずっと背丈がある。年齢も俺より上だろう。二十過ぎぐらいじゃないか? 黒い、三つ編みに結われた髪と褐色の瞳が一際、目を引いた。
その青年が口を開く。
「お。見ない奴だな。お前が椿木か」
「……アンタは?」
俺は一応質問するが、相手が誰かなんて解っていた。
見た目の、その喋る声の。
質が人と異なるのだ。先に逢った十一人の霊媒師。あの人たちも有る意味では異質だったが、その異質じゃない。この人の纏う空気の格が違った。俺の質問に相手の青年は人をホッとさせる不思議な笑みを浮かべ、
「はは。おれぁ、黒鵺 鳴神。よろしくな」
相手の青年は予想通りの名を名乗った。
『椿木ぁ、おれに用事だろう?』
黒鵺 鳴神は俺の用件を知っていた。しかし、先に千尋を迎えに行くぜ、と俺を連れたまま小学校の前まで歩いて行ってしまった。鳴神は千尋の兄ちゃんらしい。
いい兄ちゃんなんだなぁ、なんて感心していると、
「兄ぃ?」
丁度、早朝に見たままの千尋が校門を出た時だった。千尋と目が合った瞬間に鳴神は、
「よぉ、元気そうだな。千…、」
千尋に抱き付かれ、勢い余って押し倒された。 「っと。危ねぇ危ねぇ」と余裕で受け身をとるあたり流石だと俺は戦慄する。千尋は兄の鳴神に一通り甘えたのか俺を見ると驚き、
「あ。椿木だ!」
と、アメジストの瞳をぱちぱちさせた。俺が手を振ると、律儀に千尋も手を振り返してくれた。
「…………『それ』。ダメだった?』
千尋は小首を傾げ、俺の背後を見詰めると、
「!!」
アメジストの瞳を見開き、壮絶な威圧感を発した。間違いなく俺の悪霊が見えている。
ああ、千尋も視えるのか。人成らざるものが。
「椿木」
千尋が優しく俺を呼んだ。俺は千尋を見ると容易く、ドサッと腰を抜かしてしまった。
千尋、お前。……何、その顔?
「僕が『それ』、消滅させてあげる」
千尋は壮絶な笑顔を湛え、黒い霧。いいや、違う。もっともっと黒い。……闇だ。墨みたいな闇を吐き出した。
「!?」
何で、誰も気付かないんだよ。こんなに下校して行く子供達がいるのに。
俺と千尋だけ、世界から切り取られたみたいに!!
「止めろ。千尋」
その時、鳴神の声が響いた瞬間。 「千尋!」 「お兄ちゃん来たの?」 「またねーー」と、子供達が千尋に次々声をかけて行った。気付けば、千尋は元の無感情に戻り我に返った様子だった。鳴神は千尋を脇に抱えると息を吐き、千尋の髪をくしゃくしゃした。
「お前は止せ。雑に消せば、椿木が危ねぇ」
「……ん」
千尋は上目で俺を見ると両手を合わせ、 「ごめん。椿木」と若干申し訳無さそうにしていた。俺は両腕を擦り、何があっても千尋を怒らせないようにしようと心に誓ったのだった。
「気にすんなよ。千尋は俺の為に気を遣ってくれたんだろ? はは……」
「椿木ぃ。いいこと言ってるが顔が真っ青通り越して土色だぜ?」
そこは、気にしない方向でお願いします。
俺はその後。黒鵺兄妹に付いて行き、町の外れの屋敷の前に立ち止まった。
屋敷を見た第一の感想は大きいじゃない。
「で、『出そう』!!』
俺の素直な感想にくっくっと鳴神は笑い、千尋がぎしぎしと軋む屋敷の大きな扉を開けた。
「さ。天狗町一番の古屋敷だ!!」
兄弟の古屋敷は一階建ての木造建築だ。築八十年はありそうな雰囲気。
どろどろとした効果音に、不気味な亡者の皆さまが湧いて出て来そうなイメージが脳裏を過った。そんな俺を見た千尋は胸を張り、
「大丈夫。全部、綺麗に祓ったから」
そんな千尋の言葉に俺は肩を落としていた。い、嫌だ。帰りたい。
ん? 俺は気になることがあって千尋を振り返った。
「なぁ千尋。お前、両親は?」
「……? 居ない、よ? 僕、兄ぃと二人暮らし。兄ぃ、よく怪異を滅する為に出かけるから、僕、結構一人。でも、家事得意」
千尋も大変なんだなぁ、と俺は思わず言葉を失ってしまった。しかし、
「……お?」
その時、俺の視界に入る千尋の怪我。
何だこれ? 大きな擦り傷?
俺は無意識に千尋の腕をわしっと掴むと、
「ぴぃ!!?」
何だか千尋が面白い声を上げた。
「あ、椿木!?」
鳴神が不味い! と同じく声を上げた瞬間。千尋は素早く俺の腕を捩じり上げ、問答無用に背負い投げた。
「ぎぃああああああああああああああ!!?」
――ばきばきばきぃ、がっしゃんんんんんん!!
視界がぐるんと回り、凄まじい音を立てて屋敷の扉は粉砕されたのだった。
「……。椿木ぃ。悪霊を滅する料金、二割引きするわぁ」
扉を突き破り、投げ込まれた俺に憐れそうな鳴神の言葉が飛んで来た。俺は十二分に千尋の恐怖を体に刻み込まれ、
「あ、有難う御座います」
と、返すのが精一杯だった。
……。
「痛ッッ」
俺は千尋に腰にぱんぱんと湿布を貼られて痛みに声を上げた。悪ぃ、と鳴神は漏らし、
「千尋は大きな男に背後をとられると、ぶん投げる癖があってよぉ」
何、その特殊能力!?
「物騒過ぎるわ!!」
俺は割烹着姿の鳴神に声を上げる。目の前の千尋の頭をぱんぱん叩き、
「俺は、お前の怪我が…、」
と言いかけ、言葉を失くした。よくよく見れば千尋の怪我は腕だけじゃ無かったからだ。今度は用心して千尋の小さな体に触れ、細く白い首筋を確認した。
首筋には、古傷になった大きな横一文字。
「お前。これ、……刀傷? ここにも、ここにも!?」
膝には絆創膏が貼られ、袖の下の腕には包帯が巻かれていた。
何だよ、これ。
「これ、これ。ドメスティックバイオレンス……、」
「俺が千尋に刀傷なんざ、いいや、傷一つ許すかぁぁ!!」
俺は後頭部に鳴神の投げた木製の鍋敷きの直撃を受けた。
確かに発想が飛び過ぎた。あと鳴神さん、間違い無くシスコンだな。
千尋は不思議そうに口を開くと、ああ。これはね、と続け、
「これは八咫烏んぐ、」
しかし、その言葉を鳴神が塞いだ。
「千尋。夕飯の準備だ。今日は鍋だ。行くぜ」
「んー」
千尋は鳴神に抱えられて、居間の奥のキッチンに消えて行く。俺は慌てて腰を浮かせて、
「ちょ、ちょっと待って! 八咫烏? って、何ぃぃ!!?」
途中で塞がれた話の続きを求めるのだった。
二十分後。
俺はいい匂いの鍋の具を頬張ると上機嫌に感嘆の声を上げていた。
「美味い。鳴神さん、美味いです!!」
「おお。遠慮すんなよ。どんどん喰ってくれ」
「……兄ぃのご飯、世界一美味しい」
千尋は幸せそうにもぐもぐと咀嚼する。
ああ、確かに美味い。美味いんだが!
「……」
俺は少し箸を止める。先の千尋の傷の件なんだが。あれは千尋だけじゃなく、観察すると鳴神の体も観察すると古傷塗れだった。古い擦り傷に痣……。
八咫烏。気になって気になって仕方ない。
俺に関係が無くてもさ。
「椿木」
鳴神は苦笑する。俺の心を察して、心からの笑顔を見せてくれるのだ。この鳴神って人は『兄貴の見本』のような青年だった。気付けば俺も何時の間にか心を許して、本気で信じ、頼ってる。悪く言えば悪霊を滅するって、嘘臭い人間をよ。
そんな鳴神は笑顔のまま、
「お前に憑いた悪霊は明日の朝一に滅してやるさ。夜だと怪異の力も大きくなる。それだけお前に負担もかかるしなぁ。……千尋と俺に巻き込まれる覚悟があれば。今夜。午前零時まで起きててみな」
午前、零時?
「……兄ぃ」
千尋が箸を置き、 「いいの?」と、真剣に鳴神を見詰めていた。鳴神は千尋の髪を撫で、へへっと、
「椿木は俺達を心配してくれてるんだ」
俺の心臓が大きく鳴った。巻き込まれる、覚悟。
※
毒素を孕み、伝染して行く怖い話。学校の放課後は最も噂の充満する時間帯だった。
噂をするだけならいい。
噂に無防備に近付き、目の前に在る大事なことを忘れてはいけない。
気を付けなければいけないのは噂が真実だった時の、重み。人成らざるものの領域を犯す、覚悟。
あの日。椿木は覚悟も何も無く、噂の真偽を確かめようと自分の通う高校の敷地内の旧校舎に友達と忍び込んだのだった。
『なぁ、旧校舎の噂って何よ』 『澤木。知らねぇの?』
澤木と、中村。それなりの仲のいい友達と、椿木は木造の旧校舎の廊下を無遠慮に歩いた。俺達は噂なんざ怖くねぇ。俺達はここに堂々と居る、と誇示するように。
『女子達の話だと、この旧校舎には建設時の事故で生き埋めにされちまった生徒がいる。その生徒が寂しがって歌を歌うんだ。その歌を最後まで訊いちまった人間は死んじまうんだってよ』
ぷっと澤木が吹き出し、
『建設時の事故で生き埋めって怖い話の鉄板だよな。大体さ本当に死ねば、噂なんて流れない』
俺は真偽を確かめに来たんじゃねぇ。ただ、友達と面白おかしく騒ぎたかったんだ。
俺は肩をすくめてみせ、
『まぁな。はは、噂通り死ねば、その張本人は俺は旧校舎にわざわざ忍び込んで、事故で生き埋めになった生徒の幽霊の歌を訊いて死んじまったと普通の人間に告げることはまず出来ない。この噂は成立しないわけよ』
おいおいと、俺に中村が口を尖らせた。
『椿木。噂の真偽も何も無ぇじゃん』
『当たり前だ。こんなもん所詮は嘘八百。暇潰しだよ。はは、お前等も近頃、退屈してたじゃんか』
俺は笑った。俺の言葉に中村は違いないと頷くだけ。
その時、
――ぴちゃん。
『おわ!?』
澤木が天井から落ちて来た水滴の音に驚き、声を上げた。俺と中村は悲鳴を上げてしまった澤木を笑った。
わはは。解る、解るって。
こんな薄暗い空間で虚を突かれれば誰でも驚くわな、と二人で澤木をなだめて。
――ぴちゃん。
『何の音よ。雨漏り?』
『いいや、ここ数日降ってねぇし。昔の水道が生きてんじゃねぇ?』
『はぁ、つまらねぇ』
『噂だし』
『はは。寧ろ、』
俺の言葉を遮り、二人が振り返った。
――ぴちゃん、ぴちゃん。
『なぁ』
『この雫の音……、』
『こっち。来ねぇ?』
俺の肩に例の雫が落ちた。気持ち悪ぃ。俺は咄嗟に肩濡れたに触れた。その雫は生温かくて、赤かった。
『な、』
――ぴちゃん。
俺は赤い雫が落ちて来た天井を仰ぎ見た。
嘘だ。信じねぇ。
『い、』
俺は天井のそれと目が合った。
否、それに目玉なんざ無かった。人間の形をした、それ。目玉のあるところには何も無い空間。それは眼窩が虚ろに俺を覗き、ぎぎぎぃ、っと微笑んだ。
嘘……だ。
俺はあの時何を思ったんだ。寧ろよ。それは先の俺の心の声を吐き出した。
『寧……ろ。何か起きた方が。例えば、さ。誰かが死ねばすっごく面白いよね』
それのごぼりと吐き出すような言葉を訊き、俺は弾けたように悲鳴を上げた。