心霊内科医 神宿明察
登場人物紹介
神宿 明察
古びたアパートの一室で「心霊内科」を営む、年齢不詳の医師。
物腰は柔らかく、常に飄々とした態度を崩さない。鋭い洞察力を持つ一方、酒好きで私生活は少々だらしない。
怪異を否定も肯定もせず、患者の抱える問題に独自の方法で向き合う。
彼にとって重要なのは、幽霊が実在するかどうかではなく、問題が「解決」したかどうかである。
常世 千景
神宿の助手を務める、中性的な容姿の人物。
外見は十六、七歳ほどだが、実年齢や素性は不明。
礼儀正しく気配り上手で、訪れる患者にも丁寧に接する。だらしない神宿の世話を焼きつつ、その言動に呆れることもしばしば。
神宿の考え方を理解している数少ない人物だが、彼の導き出す「解決」には、ときに複雑な表情を見せる。
その医院を初めて訪れる者は、たいてい二度住所を確認することになる。
駅から徒歩十五分。商店街を抜け、住宅街の細い路地を進んだ先に、その建物はあった。
築何年になるのかも分からない、古びた二階建てのアパートである。
外壁はところどころ塗装が剥がれ、鉄製の階段には赤錆が浮いていた。雨樋は途中で外れ、建物の隅には雑草が生い茂っている。
およそ医療機関が入っているとは思えない外観だった。
しかし、一階の最も奥にある部屋の扉には、小さな真鍮製の表札が取り付けられていた。
『心霊内科 神宿明察』
表札の文字だけは、妙に新しかった。
その前で、一組の母娘が立ち尽くしていた。
「……本当に、ここなの?」
母親の高瀬由美子が不安そうに呟く。
隣に立つ娘の美咲は何も答えなかった。
中学三年生になる少女だった。首には白い包帯が巻かれ、顔色は悪い。母親に付き添われているというより、連れてこられたという表現の方が正しいように見えた。
由美子は紹介状に書かれた住所をもう一度確認した。
間違いない。
意を決して、扉の横にある呼び鈴を押した。
しばらくして、扉が開いた。
「はい。お待ちしておりました」
現れたのは、十六、七歳ほどに見える人物だった。
整った顔立ちに、落ち着いた声。少年とも少女とも取れる容姿で、白いシャツの上に黒いカーディガンを羽織っている。
「こちら、神宿先生の医院で間違いありませんか?」
「ええ。どうぞ、お入りください」
常世千景は、二人を室内へ招き入れた。
由美子は玄関を跨いだところで、思わず足を止めた。
外観からは想像もできないほど、室内が綺麗だったからだ。
白い壁。磨かれた床。整然と並んだ椅子。小さな観葉植物まで置かれている。
病院特有の消毒液の匂いはなく、代わりにほのかなお茶の香りが漂っていた。
「こちらへどうぞ。先生をお呼びしますので」
千景に促され、母娘は椅子に腰掛けた。
美咲は相変わらず俯いたままだった。
ほどなくして、奥の扉が開いた。
「お待たせしました」
現れた男は、柔和な笑みを浮かべていた。
年齢は四十前後だろうか。清潔な白衣を着ているものの、どこか普通の医者とは違う雰囲気を纏っている。
「神宿明察と申します。どうぞ、よろしく」
男は二人の向かいに腰を下ろした。
「さて、紹介状は拝見しましたが、まずはお母様からお話を伺いましょうか」
由美子は膝の上で両手を握り締めた。
「……今朝のことなんです」
話し始めた声は、わずかに震えていた。
美咲がいつまで経っても起きてこなかった。
普段なら、自分で起きて朝食を済ませ、学校へ行く準備をしている時間だった。
不審に思って部屋を訪ねたが、返事がない。
扉を開けると、美咲が床に倒れていた。
首から血を流し、傍らにはカッターナイフが落ちていたという。
「もう……何が何だか分からなくて……」
由美子は目元を押さえた。
「すぐに病院へ連れて行きました。幸い、命に別状はないと言われたんですけど……自分で傷つけたみたいだって……」
傷の処置を受けた後、精神面の診察も勧められた。
そこで美咲が語った内容を聞いた医師が、この医院を紹介したのだという。
「私、全然気づいてあげられなくて……」
「ママ、もういいってば」
それまで黙っていた美咲が口を開いた。
「私、大丈夫だから」
「でも、あなた……」
「だから、大丈夫だって」
美咲は苛立ったように顔を背けた。
神宿は二人のやり取りを静かに見つめていた。
「なるほど」
やがて、穏やかな声で言った。
「お母様。少しだけ、お嬢さんと二人でお話をしてもよろしいでしょうか」
「え……?」
「親御さんがいらっしゃると、話しにくいこともあるでしょうから」
由美子は美咲を見た。
美咲は何も言わなかった。
「……分かりました。よろしくお願いします」
「千景さん。お母様にお茶を」
「はい、先生」
千景が由美子を待合室へ案内する。
神宿は美咲に向き直った。
「では、こちらへ」
奥の診察室へ通された美咲は、勧められるまま椅子に座った。
神宿は机を挟んで向かいに腰掛ける。
「さて」
神宿はカルテを開いた。
「首の傷について、お話しいただけますか?」
美咲は包帯に手を当てた。
「……信じてもらえないと思います」
「それは、お話を伺ってから判断しましょう」
美咲はしばらく黙っていた。
やがて、小さな声で話し始めた。
「最初は、本当に小さかったんです」
数週間前のことだった。
陸上部の練習中、首筋にちくりとした痛みを感じた。
虫にでも刺されたのだろうと思い、そのときは気にしなかった。
しかし、練習後にシャワーを浴びようとして鏡を見ると、首に小さなできものがあった。
翌日には少し大きくなっていた。
さらに翌日も。
そして数日が経った頃、美咲は奇妙なことに気づいた。
できものが、人間の顔に似ているのだ。
「最初は……気のせいだと思ったんです」
美咲は震える指で包帯に触れた。
「でも、だんだんはっきりしてきて……目とか、鼻とか……」
美咲は言葉を詰まらせた。
「大会があるんです。中学最後の大会が。だから、こんなのがあったら出られなくなると思って……」
そこで声が途切れた。
神宿は急かさなかった。
「それで、今朝……自分で取ろうとしたんです」
「なるほど」
「でも……」
美咲の顔が青ざめた。
「病院で処置してもらった後、鏡を見たら……また、あったんです」
「顔が?」
美咲は小さく頷いた。
「……はい」
神宿はカルテに何かを書き込んだ。
そして、何気ない調子で尋ねた。
「その顔に、心当たりはありませんか?」
美咲の肩が跳ねた。
神宿はペンを置いた。
「どなたかに似ている、とか」
長い沈黙があった。
美咲は俯いたまま、膝の上で拳を握り締めている。
「……友達です」
「お友達?」
「……藤原紗奈っていう、死んだ友達に似てるんです」
神宿は静かに頷いた。
「よろしければ、その方のお話を聞かせてください」
美咲は目を伏せた。
そして、ぽつりぽつりと語り始めた。
紗奈とは、保育園の頃からずっと一緒だった。
家も近く、親同士も親しかった。
休日には互いの家を行き来し、夕食を一緒に食べることも珍しくなかった。
小学生の頃のことだ。
「ねえ、今日うちでご飯食べていきなよ!」
「いいの?」
「うん! ママに聞いてみる!」
美咲は台所へ駆け込んだ。
「ママー! 今日、紗奈も一緒にご飯食べていい?」
「いいわよ。ちゃんとお家に連絡しておきなさいね」
「やった!」
美咲が振り返ると、紗奈は嬉しそうに笑っていた。
「じゃあ、私、お母さんに電話してくる!」
「パパが帰ってきたら、ゲームしようよ!」
「うん!」
二人は何をするにも一緒だった。
美咲は走るのが得意だった。
小学校の運動会ではいつも上位に入り、リレーの選手に選ばれることも多かった。
紗奈は、そんな美咲をいつも応援していた。
中学校に入学すると、美咲は迷わず陸上部に入った。
すると、紗奈も同じ部に入部した。
「私も一緒に走りたい!」
美咲は嬉しかった。
練習の仕方を教え、フォームを見てやり、走り終えた後には二人でタイムを比べた。
最初の頃、紗奈は美咲にまったく追いつけなかった。
それでも諦めず、毎日練習を続けていた。
美咲は、そんな紗奈が好きだった。
自分の後ろを一生懸命追いかけてくる姿が、少し誇らしくもあった。
だが、中学二年生になった頃から、少しずつ何かが変わり始めた。
紗奈のタイムが急激に伸び始めたのだ。
最初は数秒あった差が、徐々に縮まっていく。
ある日の練習で、二人はほぼ同時にゴールした。
「やった! 初めて追いつけた!」
紗奈は息を弾ませながら笑った。
「……すごいじゃん」
美咲も笑った。
けれど、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚があった。
それから数週間後。
初めて、紗奈に負けた。
顧問は驚いたようにストップウォッチを見つめた。
「すごいな。まだまだ伸びるぞ」
周囲の部員たちが紗奈を取り囲む。
「めっちゃ速くなってるじゃん!」
「次の大会、期待できるんじゃない?」
紗奈は照れくさそうに笑っていた。
美咲も一緒に笑った。
ただ、その日の帰り道、いつもより口数が少なかった。
努力が足りないのだと思った。
だから練習量を増やした。
朝も走った。休日も走った。
しかし、差は縮まらなかった。
むしろ、少しずつ広がっていった。
以前は自分に向けられていた顧問の期待が、紗奈に向けられるようになった。
部員たちも、紗奈の記録について話すことが増えた。
それでも紗奈は、以前と変わらなかった。
「ここまで速くなれたの、全部美咲のおかげだよ!」
そう言って笑う。
美咲も笑い返す。
けれど、その言葉を聞くたびに、胸の奥がひどくざわついた。
そして、中学三年生。
最後の大会の代表選手に選ばれたのは、紗奈だった。
美咲は補欠となった。
さらに紗奈には、陸上の強豪高校からスポーツ推薦の話が舞い込んだ。
ある日の帰り道。
「ねえ、美咲は志望校どうするか決めた?」
「……まだ」
「えー、もう決めないとじゃん」
「分かってるよ」
「私の行く高校、受けてみない?」
美咲は足を止めた。
「……え?」
「私、推薦で行けるからさ。美咲は一般入試で受けてよ! 勉強頑張って!」
紗奈は屈託なく笑った。
「高校でも、ずっと一緒に走ろうね!」
美咲は何も答えられなかった。
かつて自分の後ろを走っていた少女が、今ではずっと先を走っている。
それなのに、当の本人はまだ二人が並んで走っていると思っている。
「……うん」
美咲は笑った。
「そうだね」
その笑顔が、どんなものだったのか。
今となっては、自分でも思い出せなかった。
「……それで?」
神宿の声が、美咲を現実に引き戻した。
「紗奈さんは、どうされたんですか?」
美咲は唇を噛んだ。
「……事故で、死にました」
「事故?」
「学校の帰り道に……階段から落ちて……」
「あなたも、その場に?」
「……はい」
「目の前で?」
「……はい」
神宿は静かに頷いた。
「それは、お辛かったでしょう」
美咲は何も答えなかった。
しばらく、時計の針が進む音だけが聞こえた。
やがて神宿が口を開いた。
「ところで」
美咲が顔を上げる。
「本当に、お話はそれだけですか?」
「……え?」
「何か、お忘れになっていることはありませんか?」
美咲の表情が強張った。
「……何が、ですか」
「紗奈さんは、本当に足を踏み外したのでしょうか?」
美咲は目を見開いた。
「……どういう意味ですか」
「あなたは、紗奈さんが羨ましかったのではありませんか?」
「……違う」
「走ることを教えたのはあなたなのに、いつの間にか追い抜かれてしまった」
「違います」
「周囲の期待も、最後の大会の代表も、そして高校への推薦も」
「違う!」
美咲の声が大きくなった。
神宿は表情を変えなかった。
「妬ましかったのでしょう?」
「違うって言ってるでしょ!」
「だから、あの日」
神宿は美咲の目を見つめた。
「階段で、紗奈さんの背中を押した」
「違う!!」
美咲は椅子から立ち上がった。
「私じゃない! あれは事故だったの! 紗奈が勝手に……!」
言いかけて、口を閉じた。
神宿は何も言わなかった。
ただ、美咲が落ち着くのを待っていた。
やがて、静かに尋ねた。
「ところで、その顔はあなたに何と言っています?」
美咲の身体が硬直した。
「……え?」
「首にある、その顔ですよ」
美咲はゆっくりと首に手を当てた。
包帯がわずかに緩んだ。
鏡などない。
それなのに、美咲には分かった。
そこに、いる。
ずっと、自分を見ている。
「……どうして」
小さな声がした。
美咲は息を呑んだ。
「どうして、殺したの?」
「……やめて」
「ずっと一緒って、言ったのに」
「やめて……!」
美咲は首を押さえた。
「やめてよ!!」
神宿は何も言わなかった。
ただ、静かに美咲を見つめていた。
*
「……そうだったんですね」
待合室で、千景は由美子の話に耳を傾けていた。
「本当に仲の良い二人だったんです。小さい頃から、いつも一緒で……」
由美子は膝の上で手を握り締めた。
「紗奈ちゃんが亡くなってから、美咲もずっと元気がなくて……。でも、まさかこんなことになるなんて……」
「お母様も、ご心配でしょう」
「ええ……」
そのとき、奥の扉が開いた。
神宿に続いて、美咲が姿を現した。
由美子は思わず立ち上がった。
娘の表情が、来院したときとはまるで違っていたからだ。
青ざめ、俯いていた美咲が、今は穏やかに微笑んでいる。
「美咲、大丈夫なの……?」
由美子が駆け寄る。
美咲は小さく頷いた。
「うん。もう大丈夫」
そして、母親を見つめて微笑んだ。
「心配かけてごめんなさい、お母さん」
「……よかった」
由美子は娘を抱きしめた。
美咲も静かにその背中に腕を回した。
神宿は二人を見つめ、穏やかに微笑んでいた。
「もう心配はいらないでしょう」
由美子は何度も頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました……!」
「いえいえ。お大事になさってください」
母娘は医院を後にした。
美咲は最後まで、穏やかな笑みを浮かべていた。
*
「……それで、先生」
千景は紅茶の入ったティーカップを神宿の前に置いた。
「結局、解決したんですか?」
「ええ」
神宿はカップを手に取り、立ち上る湯気を眺めた。
「おや、紅茶ですか。ブランデーの方がよかったですねえ」
「まだ昼ですよ、先生。それで我慢してください」
「少しくらい構わないでしょうに」
「駄目です」
「まったく、融通が利きませんねえ」
神宿は諦めたように紅茶を一口飲んだ。
「あれで満足でしょう。これでずっと一緒なんですから」
千景は少し考えた。
「……つまり、人面瘡に身体を乗っ取られた、ということですか?」
「さあ?」
神宿は肩をすくめた。
「罪の意識から、自分が幼馴染になったと思い込んでいるだけかもしれませんよ」
「……そういえば」
千景は思い出したように言った。
「お母様から伺ったんですが、美咲さんが顔のできものがあると言い張っていた場所には、何もなかったそうですよ」
「ほう」
「傷を負う前も、普通の綺麗な肌だったそうです」
神宿は特に驚いた様子も見せなかった。
「なるほど」
そして、また紅茶を一口飲んだ。
「まあ、解決したんです。それでいいじゃありませんか」
千景は呆れたようにため息をついた。
「……まったく、この人は」
神宿は何食わぬ顔で、空になったティーカップを差し出した。
「千景さん。おかわりをいただけますか?」
「ご自分でどうぞ」
「おや、冷たいですねえ」
窓の外では、いつもと変わらない街の日常が続いていた。
神宿はしばらく空のカップを眺めていたが、やがて諦めたように立ち上がった。
そして、自分で紅茶を淹れに向かった。
この作品も昔から頭の中にあったものでしたがチャッピーが上手く文章にしてくれました。さすチャピ。
この作品を最後まで読んでいただきありがとうございました。




