最終章 気づかれないまま
季節が一つ、進んでいた。
朝の空気が少し軽くなり、駅前の花壇の色が変わる。
修司はそれを見て、ようやく気づいた。
ああ、時間はちゃんと流れている。
相変わらず、特別なことは起きない。
目覚ましは鳴り、電車は混み、仕事は終わる。
夜の店には人が来て、人が帰る。
修司は、その中にいる。
ある日、会社で新人が入ってきた。
まだ勝手が分からず、コピー機の前で立ち尽くしている。
修司は少し迷ってから、横に立つ。
「これ、詰まりやすいんで」
それだけ言って、紙の向きを示す。
新人は「ありがとうございます」と言い、修司はその場を離れた。
名前も聞かない。
それで十分だった。
別の日、駅の改札で、以前見かけた年配の男性がいた。
今度は一人で、スムーズに通れている。
修司はそれを横目で見て、通り過ぎる。
何も思わない。
夜の店では、例の女子高生が友達と来ていた。
楽しそうに笑いながら、会計を済ませていく。
修司は、ただレジを打つ。
子どもが泣く日もある。
苛立つ客もいる。
何も起きない夜もある。
修司は、やれることだけをやる。
やれないことは、無理にやらない。
それが、いつの間にか当たり前になっていた。
ある深夜、閉店間際に一人の女性が入ってきた。
疲れた顔で、温かい飲み物を一つ手に取る。
会計のとき、修司は商品を袋に入れ、差し出す。
「……助かりました」
女性は小さくそう言った。
修司は一瞬、聞き返しそうになって、やめた。
「いえ」とだけ返す。
何を助けたのかは、分からない。
聞く必要もない。
女性は店を出ていき、ドアが静かに閉まる。
修司は、その背中を見送らなかった。
レジに戻り、次の作業をする。
閉店後、外に出る。
空は澄んでいて、星がいくつか見えた。
修司は立ち止まり、ほんの少しだけ背筋を伸ばす。
もう癖だ。
自分が何者かになった気はしない。
世界が変わったとも思わない。
それでも、ここにいなかったら困る人が、
ほんの一人か二人くらいは、いるのかもしれない。
それで十分だ。
名前を覚えられなくてもいい。
感謝されなくてもいい。
気づかれないまま、
誰かの一日が、少しだけ滞りなく進めばいい。
修司は歩き出す。
夜道を、特別な理由もなく。
背中は、以前より少しだけ、まっすぐだった。
ありがとうございました。
感想をいただけるとありがたいです。




