第3章 余計だったけど、忘れられない一言
修司は、できるだけ目立たないように生きてきた。
前に出ると、だいたいろくなことがない。
第2章の出来事から数日経っても、朝の交差点のことは頭から離れなかった。
声をかけた瞬間の男性の表情。
途中で止まった足。
走り去る背中。
善意は、受け取られなければ意味がない。
そんな当たり前のことを、修司は改めて思い知らされた。
それでも、完全に黙っているのも違う気がして、
修司は今日も、無駄に背筋を伸ばして家を出た。
午後、会社で頼まれて外回りに出た。
小さな書類を一つ届けるだけの用事だ。
道中、商店街を通る。
その一角で、若い女性が立ち尽くしていた。
電話を切った直後らしく、画面を見つめたまま動かない。
修司は足を緩めた。
通り過ぎる人たちの流れに逆らうように、少しだけ速度を落とす。
またか。
そう思った自分に、苦笑する。
修司は近づきすぎない距離で立ち止まり、
声を低く、短くかけた。
「……大丈夫ですか?」
それだけだった。
女性は顔を上げ、少し驚いた表情を見せた。
一瞬、警戒の色が走る。
しまった、と思う。
言葉が足りなすぎた。
「いえ……あの……」
修司が続けようとしたとき、女性は小さく息を吐いた。
「大丈夫です。……ありがとうございます」
そう言って、笑った。
作った笑顔ではなかった。
泣く一歩手前の、崩れそうな笑顔だった。
修司はそれ以上、何も言えなかった。
用事があるふりをして、軽く会釈をして、その場を離れる。
歩き出してから、心臓の音がやけに大きいことに気づいた。
余計だったかもしれない。
助けにはなっていない。
でも、声をかけなければ、その表情を見ることもなかった。
会社に戻ってからも、女性の言葉が頭に残っていた。
「ありがとうございます」
それだけだ。
それだけなのに、朝の失敗とは違って、胸の奥が少しだけ軽い。
夜、コンビニのシフトに入ると、常連の女子高生が珍しく黙ってレジに来た。
いつもは友達と笑いながら菓子を選ぶ子だ。
会計を終え、袋を渡すとき、修司は一瞬迷った。
言わなくていい。
余計だ。
でも、迷ったまま黙るのも、少し違う。
「……寒くなってきましたね」
我ながら、どうでもいい一言だった。
女子高生は一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。
「ですね」
それだけだった。
ドアが閉まる音を聞きながら、修司はレジ台に手を置く。
今日は、何も起きていない。
誰も救っていない。
何かを変えたわけでもない。
それでも、今日一日を振り返ったとき、
胸に残る言葉が一つある。
「ありがとうございます」
修司はその言葉を、何度も心の中でなぞった。
声をかけたことが正しかったかどうかは、分からない。
でも、誰かがその言葉を口にするくらいには、
その瞬間に必要だったのだと、信じることにした。
深夜、店を出る前に、修司はいつものように背筋を伸ばす。
今日も、少し余計なことをした。
それでも、忘れたくない一言がある。
それでいい。
たぶん、それで。
ありがとうございました。
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