第1章 背筋を伸ばす癖
修司には、理由のよく分からない癖がある。
何かを始める前に、背筋を伸ばすことだ。
朝、アパートの玄関を出るとき。
コンビニの自動ドアが開く直前。
レジに並ぶ前、横断歩道を渡る前、誰かに話しかける直前。
背中をぴん、と一度だけ伸ばす。
それで何かが変わったことはない。
声が通るようになるわけでもないし、度胸が据わるわけでもない。
ただ、自分の中で「今からちゃんとする」という合図になる。
修司は二十五歳で、特別な肩書きは持っていない。
昼は小さな会社の雑用、夜は週に何度かコンビニのシフトに入る。
誰かに誇れる仕事かと聞かれたら、少し考えてから首を横に振る。
でも、悪くはない。
少なくとも、サボってはいない。
駅までの道を歩きながら、修司は周囲をちらりと見る。
朝はいつも同じ顔ぶれだ。
イヤホンをした学生、スマートフォンを見続ける会社員、足早に歩く人たち。
みんな忙しそうで、誰も他人を見ていない。
それが普通で、正しい。
——正しい、はずだ。
ホームに着いたとき、小さな言い争いが聞こえた。
年配の男性と、若い女性。
言葉ははっきり聞こえないが、空気だけが少し尖っている。
修司は立ち止まった。
胸の奥で、よく知っている感覚がもぞもぞと動く。
関わった方がいい気がする。
でも、どう関わればいいのかは分からない。
修司は一歩だけ近づき、そして止まった。
何か言う準備をするでもなく、ただ様子を見る。
数秒後、駅員が駆け寄り、二人は別々の方向へ誘導された。
修司は何もしていない。
それでも、胸の奥のざわつきはしばらく消えなかった。
電車に乗り、吊り革をつかむ。
窓に映った自分の顔は、特に変わりない。
修司は小さく息を吐いた。
「……まあ、いいか」
そう呟いてから、少しだけ背筋を伸ばす。
誰に見せるでもない動作だ。
会社では、コピー用紙の補充と、頼まれた資料の整理をした。
急ぎの仕事はない。
誰かに感謝されることもない。
昼休み、同僚たちはスマートフォンを眺めながら笑っていた。
修司はその輪に入らず、窓際で弁当を食べる。
嫌われているわけではない。
ただ、特別に必要とされていないだけだ。
午後、帰り際に社長から「助かったよ」と軽く声をかけられた。
修司は少し驚いてから、「いえ」と答える。
それだけで、今日一日は悪くない気がした。
夜のシフトはいつもより静かだった。
客もまばらで、時間がゆっくり流れる。
レジの前で、小さな子どもが泣き出した。
母親が慌ててあやすが、なかなか泣き止まない。
修司は一瞬迷い、それからレジ横に置いてあるくじ付きのお菓子を一つ取り、レジ越しに差し出した。
「これ、好き?」
子どもは涙を溜めたまま、こくりと頷いた。
母親が「すみません」と言う。
修司は首を振る。
特別なことじゃない。
マニュアルに書いてある対応でもない。
それでも、子どもが泣き止んだのを見て、少しだけ胸が軽くなった。
深夜、店を出る前に、ガラスに映る自分を見た。
疲れた顔だが、悪くない。
修司は背筋を伸ばす。
今日も、何かを成し遂げたわけじゃない。
誰かの人生が変わったわけでもない。
それでも、何もしなかった一日ではなかった。
少なくとも、そう思うことにした。
修司は夜道を歩きながら、少しだけ空を見上げる。
星は見えない。
見えなくても、空はそこにある。
自分も、ここにいる。
それで十分だ、とまでは言えない。
でも、悪くはない。
修司は歩き続けた。
背中を、ほんの少しだけ伸ばしながら。
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