表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あい。  作者: 黒猫
9/11

第8章 瞬間の記録

 週末。

 僕は用事があって街に出ていた。

 新しいシャツを買うつもりだったが、結局何も買わずに人混みをぶらついていた。

 ふと、路地裏にある古びたカメラ屋の前で、足が止まった。

 ショーウィンドウの中に、見覚えのある後ろ姿があったからだ。

 彼女だった。

 会社でのオフィスカジュアルとは違う、ゆったりとしたリネンのワンピース姿。

 彼女はカウンターで店主の老人と何か話した後、小さな紙袋を受け取って店を出てきた。


「あ……」


 目が合った。

 休日に会うのは初めてだ。僕は少しドギマギしながら手を挙げた。


「奇遇ですね」


「……ええ、本当に」


 彼女は少し驚いた顔をしたが、すぐにいつもの静かな微笑みに戻った。

 その手には、レトロなフィルムカメラが握られている。


「カメラ、好きなんですか?」


 僕が聞くと、彼女は愛おしそうにその黒いボディを撫でた。

「はい。デジタルだと、何枚でも撮り直しができるでしょう? でも、フィルムは枚数が決まっているから。……一瞬一瞬が、もう二度と戻らないんだってことを、思い出させてくれるんです」


 まただ。

 彼女の言葉はいつだって、ハッとするような「重み」を帯びている。

 限りある枚数。戻らない一瞬。

 僕は彼女の横顔を見つめながら、改めて「すごい人だな」と感嘆していた。


「試し撮り、付き合ってくれませんか?」


 彼女が不意に言った。


「え、僕でいいんですか?」


「ちょうど、このフィルムを使い切りたかったので」


 僕たちは近くの公園へ移動した。

 彼女は花壇の花や、ベンチで休む猫、空の雲などを次々とシャッターに収めていく。

 その横顔は真剣で、どこか祈りを捧げているように見えた。


「はい、最後の一枚」


 彼女がレンズを僕に向けた。

 僕は照れ隠しにピースサインを作ろうとして、やめた。彼女のレンズの前では、そんな安っぽいポーズは似合わない気がしたからだ。

 ただ、ぎこちなく微笑む。

 カシャッ、という硬質な音が響く。


「……いい写真、撮れました?」


 僕が聞くと、彼女はカメラを下ろし、少し遠い目をした。


「ええ。……現像できるのは、明日以降ですけど」


 そこで、彼女の表情がふっと曇った。

 雲が太陽を隠したときのような、急激な陰り。

 彼女はカメラのフィルム巻き上げレバーに指をかけ、独り言のように呟いた。


「写真はいいですね。……いなくなってしまった人とも、こうして何度でも会えるから」


「え?」


 僕は聞き返した。

 彼女はハッとしたように顔を上げ、すぐにいつもの「非常階段の彼女」の顔を取り繕った。


「あ、いえ。なんでもないです。……ただの独り言」


 けれど、僕は見逃さなかった。

 一瞬だけ見せたその瞳が、ひどく濡れていて、深い喪失感をたたえていたことを。


 いなくなってしまった人。

 それは誰のことだろう。

 元恋人? 家族? それとも……。

 僕の中で、彼女への「憧れ」に、別の感情が混ざり始めた。

 完璧で、大人びていて、達観している彼女。

 でも、その強さは、何か大きな「悲しみ」の上に成り立っているのではないか。

 彼女の抱えている荷物は、僕が想像するよりもずっと重いのかもしれない。

 僕は初めて、彼女の「過去」に触れたいと思った。

 その重さを、少しでいいから知りたいと、そう願ってしまったのだ。


 彼女がフィルムカメラをバッグにしまった後、僕たちの間に少しだけ気まずい沈黙が落ちた。

「いなくなってしまった人」という言葉の余韻が、まだ空気中に漂っていたからだ。

 普段の僕なら、この重苦しさを避けるために「じゃあ、また会社で」と手を振っていただろう。

 けれど、今日は帰したくなかった。

 彼女がふと見せた、あの寂しげな横顔を、そのままにして別れるのが怖かったのかもしれない。


「……あの、もし時間があるなら」


 僕は勇気を出して、声を絞り出した。


「少し、茶でも飲みませんか。いい店を知ってるわけじゃないですけど」


 彼女は目を丸くし、それからふわりと笑った。

「ええ。私も、まだ帰りたくない気分でした」


 ***


 僕たちは、路地裏にある小さなジャズ喫茶に入った。

 飴色に変色した木の壁。低く流れるサックスの音色。

 若者が集まるような賑やかなカフェチェーンとは違う、時間の流れがそこだけ淀んでいるような空間だった。

 向かい合わせの席に座る。

 注文したアイスコーヒーが運ばれてくる。グラスの中で氷がカラン、と涼やかな音を立てた。


「……こういう店、来るんですね」


 彼女が店内を見回しながら言った。


「いや、初めてです。なんとなく、今の気分に合うかなと思って」


「ふふ。……正解です。私、こういう場所好きですよ」


 彼女はストローを使わず、グラスに直接口をつけてコーヒーを飲んだ。

 その仕草が、妙に色っぽく見えて、僕は慌てて視線を外した。

 会話は、途切れ途切れだった。

 でも、それは苦痛な沈黙ではなかった。

 以前、非常階段で感じたような「共犯者の沈黙」とも少し違う。もっと柔らかくて、温度のある沈黙だ。


「……ねえ」


 彼女が氷を指先で回しながら言った。


「私たちがこうしてコーヒーを飲んでる時間って、生産性ありますか?」


「え?」


 不意打ちの問いに、僕は考え込む。

 仕事の話をしているわけでもない。将来の計画を立てているわけでもない。ただ、ぼんやりと座っているだけ。

 かつての僕なら「無駄だ」と断じていただろう。


「……生産性は、ないですね」


 僕は正直に答えた。そして続けた。


「でも、悪くないです。一人で部屋にいて、焦って本を読んだりネットを見たりしている時間より、ずっと」


 彼女は満足そうに目を細めた。


「生産性のない時間は、心の隙間を埋めるためのパテ(充填剤)みたいなものです。これがないと、人間は乾いてひび割れてしまいますから」


 彼女の言葉は、いつも詩的で、確信を突いている。

 僕はグラスの水滴を指で拭いながら、彼女を見た。

 彼女は何を見ているんだろう。

 この琥珀色の液体の向こうに、誰を見ているんだろう。

 さっきの「いなくなってしまった人」の話を聞きたい衝動に駆られる。

 けれど、まだだめだ。

 今の僕には、その重い扉を開ける鍵を持っていない。無理にこじ開ければ、この心地よい関係さえ壊れてしまう気がした。


「……また、付き合ってください」


 僕は話題を変えるように言った。


「そのカメラの現像ができたら。どんな写真になったか、見たいです」


 それは、僕から提示できる精一杯の「次への約束」だった。

 彼女は少し驚いたような顔をして、それから今日一番の柔らかい笑顔を見せた。


「ええ。……楽しみにしています」


 カラン。

 氷が溶けて崩れる音が、静かな店内に響いた。

 僕たちはその音を聞きながら、もうしばらくの間、この「贅沢な無駄」を味わうことにした。

 外はもう日が傾きかけている。

 彼女の抱える秘密の輪郭はまだぼやけているけれど、僕は確かに、この人と過ごす時間の重さに惹かれ始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ