第8章 瞬間の記録
週末。
僕は用事があって街に出ていた。
新しいシャツを買うつもりだったが、結局何も買わずに人混みをぶらついていた。
ふと、路地裏にある古びたカメラ屋の前で、足が止まった。
ショーウィンドウの中に、見覚えのある後ろ姿があったからだ。
彼女だった。
会社でのオフィスカジュアルとは違う、ゆったりとしたリネンのワンピース姿。
彼女はカウンターで店主の老人と何か話した後、小さな紙袋を受け取って店を出てきた。
「あ……」
目が合った。
休日に会うのは初めてだ。僕は少しドギマギしながら手を挙げた。
「奇遇ですね」
「……ええ、本当に」
彼女は少し驚いた顔をしたが、すぐにいつもの静かな微笑みに戻った。
その手には、レトロなフィルムカメラが握られている。
「カメラ、好きなんですか?」
僕が聞くと、彼女は愛おしそうにその黒いボディを撫でた。
「はい。デジタルだと、何枚でも撮り直しができるでしょう? でも、フィルムは枚数が決まっているから。……一瞬一瞬が、もう二度と戻らないんだってことを、思い出させてくれるんです」
まただ。
彼女の言葉はいつだって、ハッとするような「重み」を帯びている。
限りある枚数。戻らない一瞬。
僕は彼女の横顔を見つめながら、改めて「すごい人だな」と感嘆していた。
「試し撮り、付き合ってくれませんか?」
彼女が不意に言った。
「え、僕でいいんですか?」
「ちょうど、このフィルムを使い切りたかったので」
僕たちは近くの公園へ移動した。
彼女は花壇の花や、ベンチで休む猫、空の雲などを次々とシャッターに収めていく。
その横顔は真剣で、どこか祈りを捧げているように見えた。
「はい、最後の一枚」
彼女がレンズを僕に向けた。
僕は照れ隠しにピースサインを作ろうとして、やめた。彼女のレンズの前では、そんな安っぽいポーズは似合わない気がしたからだ。
ただ、ぎこちなく微笑む。
カシャッ、という硬質な音が響く。
「……いい写真、撮れました?」
僕が聞くと、彼女はカメラを下ろし、少し遠い目をした。
「ええ。……現像できるのは、明日以降ですけど」
そこで、彼女の表情がふっと曇った。
雲が太陽を隠したときのような、急激な陰り。
彼女はカメラのフィルム巻き上げレバーに指をかけ、独り言のように呟いた。
「写真はいいですね。……いなくなってしまった人とも、こうして何度でも会えるから」
「え?」
僕は聞き返した。
彼女はハッとしたように顔を上げ、すぐにいつもの「非常階段の彼女」の顔を取り繕った。
「あ、いえ。なんでもないです。……ただの独り言」
けれど、僕は見逃さなかった。
一瞬だけ見せたその瞳が、ひどく濡れていて、深い喪失感を湛えていたことを。
いなくなってしまった人。
それは誰のことだろう。
元恋人? 家族? それとも……。
僕の中で、彼女への「憧れ」に、別の感情が混ざり始めた。
完璧で、大人びていて、達観している彼女。
でも、その強さは、何か大きな「悲しみ」の上に成り立っているのではないか。
彼女の抱えている荷物は、僕が想像するよりもずっと重いのかもしれない。
僕は初めて、彼女の「過去」に触れたいと思った。
その重さを、少しでいいから知りたいと、そう願ってしまったのだ。
彼女がフィルムカメラをバッグにしまった後、僕たちの間に少しだけ気まずい沈黙が落ちた。
「いなくなってしまった人」という言葉の余韻が、まだ空気中に漂っていたからだ。
普段の僕なら、この重苦しさを避けるために「じゃあ、また会社で」と手を振っていただろう。
けれど、今日は帰したくなかった。
彼女がふと見せた、あの寂しげな横顔を、そのままにして別れるのが怖かったのかもしれない。
「……あの、もし時間があるなら」
僕は勇気を出して、声を絞り出した。
「少し、茶でも飲みませんか。いい店を知ってるわけじゃないですけど」
彼女は目を丸くし、それからふわりと笑った。
「ええ。私も、まだ帰りたくない気分でした」
***
僕たちは、路地裏にある小さなジャズ喫茶に入った。
飴色に変色した木の壁。低く流れるサックスの音色。
若者が集まるような賑やかなカフェチェーンとは違う、時間の流れがそこだけ淀んでいるような空間だった。
向かい合わせの席に座る。
注文したアイスコーヒーが運ばれてくる。グラスの中で氷がカラン、と涼やかな音を立てた。
「……こういう店、来るんですね」
彼女が店内を見回しながら言った。
「いや、初めてです。なんとなく、今の気分に合うかなと思って」
「ふふ。……正解です。私、こういう場所好きですよ」
彼女はストローを使わず、グラスに直接口をつけてコーヒーを飲んだ。
その仕草が、妙に色っぽく見えて、僕は慌てて視線を外した。
会話は、途切れ途切れだった。
でも、それは苦痛な沈黙ではなかった。
以前、非常階段で感じたような「共犯者の沈黙」とも少し違う。もっと柔らかくて、温度のある沈黙だ。
「……ねえ」
彼女が氷を指先で回しながら言った。
「私たちがこうしてコーヒーを飲んでる時間って、生産性ありますか?」
「え?」
不意打ちの問いに、僕は考え込む。
仕事の話をしているわけでもない。将来の計画を立てているわけでもない。ただ、ぼんやりと座っているだけ。
かつての僕なら「無駄だ」と断じていただろう。
「……生産性は、ないですね」
僕は正直に答えた。そして続けた。
「でも、悪くないです。一人で部屋にいて、焦って本を読んだりネットを見たりしている時間より、ずっと」
彼女は満足そうに目を細めた。
「生産性のない時間は、心の隙間を埋めるためのパテ(充填剤)みたいなものです。これがないと、人間は乾いてひび割れてしまいますから」
彼女の言葉は、いつも詩的で、確信を突いている。
僕はグラスの水滴を指で拭いながら、彼女を見た。
彼女は何を見ているんだろう。
この琥珀色の液体の向こうに、誰を見ているんだろう。
さっきの「いなくなってしまった人」の話を聞きたい衝動に駆られる。
けれど、まだだめだ。
今の僕には、その重い扉を開ける鍵を持っていない。無理にこじ開ければ、この心地よい関係さえ壊れてしまう気がした。
「……また、付き合ってください」
僕は話題を変えるように言った。
「そのカメラの現像ができたら。どんな写真になったか、見たいです」
それは、僕から提示できる精一杯の「次への約束」だった。
彼女は少し驚いたような顔をして、それから今日一番の柔らかい笑顔を見せた。
「ええ。……楽しみにしています」
カラン。
氷が溶けて崩れる音が、静かな店内に響いた。
僕たちはその音を聞きながら、もうしばらくの間、この「贅沢な無駄」を味わうことにした。
外はもう日が傾きかけている。
彼女の抱える秘密の輪郭はまだぼやけているけれど、僕は確かに、この人と過ごす時間の重さに惹かれ始めていた。




