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あい。  作者: 黒猫
8/11

第7章 雨とドア

 その日は、朝から激しい雨が降っていた。

 湿度は高く、低気圧のせいで頭が重い。僕は昼休み、逃げ込むように非常階段へ向かった。

 重い鉄の扉に手をかける。

 しかし、数センチ開けたところで、僕は動きを止めた。

 いつもの定位置。階段の隅に、彼女がうずくまっていた。

 文庫本は持っていない。膝に顔を埋め、小さく肩を震わせている。

 雨音にかき消されそうだが、微かに、空気が漏れるような嗚咽が聞こえた。


(……うわ、マジか)


 最悪のタイミングだ。

 見てはいけないものを見てしまった。

 泣いている女ほど、取り扱いに困る危険物はない。

 「どうしたの?」と声をかければ、事情を聞かなければならなくなる。ハンカチを渡せば、変に懐かれるかもしれない。

 関わらないのが一番だ。回れ右をして、デスクに戻って寝たフリでもしていよう。

 僕はそっと扉を閉めようとした。

 その時。廊下の向こうから、営業部の男性社員たちがガヤガヤと歩いてくるのが見えた。


「あー、一本吸ってくるわ」


「俺も俺も。階段行こうぜ」


 彼らはここへ来る。喫煙所代わりに、非常階段を使うつもりだ。

 この扉を開ければ、うずくまって泣いている彼女と鉢合わせる。

 彼女のみっともない姿が、好奇の目に晒される。

 そして翌日には、「あの子、階段で泣いてたらしいよ」「メンヘラじゃね?」なんて噂話のネタにされるだろう。


(……チッ)


 僕は舌打ちをした。

 自分でも驚くほど不快だった。

 彼女があの静かな瞳を腫らして、下世話な連中に見世物にされる想像が、ひどく腹立たしかったのだ。

 僕は扉を閉め、その場から動かなかった。

 ドアノブの前に仁王立ちになり、スマホを取り出す。


「お、なんだ。どいてくれよ」


 やってきた社員の一人が言った。

 僕は顔を上げず、ダルそうに答えた。


「ああ、悪いっす。今ここ、清掃業者がワックスがけしてるみたいで。入らないでくれって言われました」


「はあ? 昼休みにやるか普通」


「さあ。僕に言われても困りますよ。……匂いキツいし、向こうの喫煙所行った方がいいんじゃないですか」


 僕が動こうとしないのを見て、彼らは「使えねえな」と毒づきながら去っていった。

 足音が遠ざかる。

 僕はそのまま、ドアノブに背中を預けて立ち続けた。

 扉一枚隔てた向こう側。

 彼女の嗚咽はまだ続いている。

 面倒くさい。足がだるい。早くコーヒーが飲みたい。

 心の中で悪態をつきながら、僕はゲームアプリを起動した。

 僕ができるのは、これだけだ。

 中に入って慰めるなんて、寒い真似はしない。

 ただ、彼女が泣き止んで、仮面をつけ直すまでの時間、この扉を封鎖する。

 それなら、僕の「損な性格」の範囲内でやれる。

 十分ほど経っただろうか。

 ガチャリ、と内側からノブが回された。

 背中で押さえていた僕は、慌てて一歩離れる。

 扉が開く。

 彼女が出てきた。

 目は赤く腫れていたが、いつもの無表情に戻っていた。

 彼女は、ドアの前に立っていた僕を見て、一瞬だけ目を見開いた。そして、僕の後ろ(誰もいない廊下)を見て、状況を理解したようだった。


 僕がずっと、ここに立っていたことを。

「……清掃業者なんて、来てませんよ」


 彼女が、掠れた声で言った。


「知ってます。僕の幻覚なんで」


 僕はスマホをポケットに突っ込み、彼女とは目を合わせずに、入れ違いで階段に入ろうとした。


「あーあ、無駄な時間食った。……顔、洗ってくれば? ひどい顔ですよ」


 すれ違いざま、わざと憎まれ口を叩く。

 彼女は怒らなかった。

 その代わり、僕の背中に向かって、深く、深く頭を下げた気配がした。


「……ありがとうございます」


 その声は、震えていた。

 今までのどんな「ありがとう」よりも、湿り気を帯びた、重たい響きだった。

 僕は手をひらひらと振って、扉を閉めた。

 階段の踊り場には、雨の匂いと、微かな金木犀の香りが残っていた。


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