第7章 雨とドア
その日は、朝から激しい雨が降っていた。
湿度は高く、低気圧のせいで頭が重い。僕は昼休み、逃げ込むように非常階段へ向かった。
重い鉄の扉に手をかける。
しかし、数センチ開けたところで、僕は動きを止めた。
いつもの定位置。階段の隅に、彼女がうずくまっていた。
文庫本は持っていない。膝に顔を埋め、小さく肩を震わせている。
雨音にかき消されそうだが、微かに、空気が漏れるような嗚咽が聞こえた。
(……うわ、マジか)
最悪のタイミングだ。
見てはいけないものを見てしまった。
泣いている女ほど、取り扱いに困る危険物はない。
「どうしたの?」と声をかければ、事情を聞かなければならなくなる。ハンカチを渡せば、変に懐かれるかもしれない。
関わらないのが一番だ。回れ右をして、デスクに戻って寝たフリでもしていよう。
僕はそっと扉を閉めようとした。
その時。廊下の向こうから、営業部の男性社員たちがガヤガヤと歩いてくるのが見えた。
「あー、一本吸ってくるわ」
「俺も俺も。階段行こうぜ」
彼らはここへ来る。喫煙所代わりに、非常階段を使うつもりだ。
この扉を開ければ、うずくまって泣いている彼女と鉢合わせる。
彼女のみっともない姿が、好奇の目に晒される。
そして翌日には、「あの子、階段で泣いてたらしいよ」「メンヘラじゃね?」なんて噂話のネタにされるだろう。
(……チッ)
僕は舌打ちをした。
自分でも驚くほど不快だった。
彼女があの静かな瞳を腫らして、下世話な連中に見世物にされる想像が、ひどく腹立たしかったのだ。
僕は扉を閉め、その場から動かなかった。
ドアノブの前に仁王立ちになり、スマホを取り出す。
「お、なんだ。どいてくれよ」
やってきた社員の一人が言った。
僕は顔を上げず、ダルそうに答えた。
「ああ、悪いっす。今ここ、清掃業者がワックスがけしてるみたいで。入らないでくれって言われました」
「はあ? 昼休みにやるか普通」
「さあ。僕に言われても困りますよ。……匂いキツいし、向こうの喫煙所行った方がいいんじゃないですか」
僕が動こうとしないのを見て、彼らは「使えねえな」と毒づきながら去っていった。
足音が遠ざかる。
僕はそのまま、ドアノブに背中を預けて立ち続けた。
扉一枚隔てた向こう側。
彼女の嗚咽はまだ続いている。
面倒くさい。足がだるい。早くコーヒーが飲みたい。
心の中で悪態をつきながら、僕はゲームアプリを起動した。
僕ができるのは、これだけだ。
中に入って慰めるなんて、寒い真似はしない。
ただ、彼女が泣き止んで、仮面をつけ直すまでの時間、この扉を封鎖する。
それなら、僕の「損な性格」の範囲内でやれる。
十分ほど経っただろうか。
ガチャリ、と内側からノブが回された。
背中で押さえていた僕は、慌てて一歩離れる。
扉が開く。
彼女が出てきた。
目は赤く腫れていたが、いつもの無表情に戻っていた。
彼女は、ドアの前に立っていた僕を見て、一瞬だけ目を見開いた。そして、僕の後ろ(誰もいない廊下)を見て、状況を理解したようだった。
僕がずっと、ここに立っていたことを。
「……清掃業者なんて、来てませんよ」
彼女が、掠れた声で言った。
「知ってます。僕の幻覚なんで」
僕はスマホをポケットに突っ込み、彼女とは目を合わせずに、入れ違いで階段に入ろうとした。
「あーあ、無駄な時間食った。……顔、洗ってくれば? ひどい顔ですよ」
すれ違いざま、わざと憎まれ口を叩く。
彼女は怒らなかった。
その代わり、僕の背中に向かって、深く、深く頭を下げた気配がした。
「……ありがとうございます」
その声は、震えていた。
今までのどんな「ありがとう」よりも、湿り気を帯びた、重たい響きだった。
僕は手をひらひらと振って、扉を閉めた。
階段の踊り場には、雨の匂いと、微かな金木犀の香りが残っていた。




