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あい。  作者: 黒猫
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第6章 送料と愛情の計算

 自炊はする。

 けれど、それは「生活を楽しむため」ではなく、「生命維持コストを下げるため」の作業だ。

 肉と適当な野菜を炒めて、焼肉のタレで味付けする。

 あるいは、パスタを茹でて市販のソースをかける。

 僕の食卓は、いつだって茶色くて、効率的で、そして少し寂しい。

 だから、実家から送られてきた段ボール箱いっぱいの土付き野菜は、正直なところ「処理に困る物体」でしかなかった。

 泥を落とすのが面倒だ。

 皮をむくのも時間がかかる。

 一人暮らしの狭いキッチンには、その不格好なジャガイモや玉ねぎは溢れすぎている。

 翌日の昼休み。

 僕はスーパーのビニール袋に野菜を詰め込み、非常階段へ向かった。

 友人や同僚に配った残りだ。これを彼女に押し付けてしまえば、僕のノルマは達成される。

 扉を開けると、彼女はいつもの場所にいた。


「……お疲れ様です」


 先日の「歩幅」の一件以来、少しだけ気まずさが残っていたが、彼女は普段通りに会釈をしてくれた。


「これ、よかったら貰ってくれませんか」


 僕は単刀直入に本題に入り、ずしりと重い袋を差し出した。


「実家から送られてきたんですけど、一人じゃ食べきれなくて」


 彼女は目を丸くして袋の中を覗き込み、それから少し驚いたように僕を見た。


「……立派なジャガイモですね。土もついてる」


「ああ、汚れててすみません。洗えば綺麗になると思いますので、、洗ってからお渡しすればよかったですね、すみません。」


 彼女は「とんでもない」と首を振り、その袋を大事そうに膝の上に置いた。

 ミッション完了だ。

 僕は安堵して、いつもの定位置に座る。

 そこで会話を終えればよかったのに、沈黙を埋めるために、僕はつい余計なことを口走ってしまった。


「……ほんと、参りますよ。頼んでもいないのに定期的に送ってくるんです」


 僕は苦笑いを浮かべて、スマホを取り出しながら続ける。


「これだけの野菜、近所のスーパーで買えば千円もしないじゃないですか。なのに、わざわざ高い送料かけて送ってくるなんて、どう考えてもコスパ悪いですよね。現金で振り込んでくれた方がよっぽど助かるのに」


 悪気はなかった。

 ただの軽口だ。現代的な若者なら誰もが共感するような、合理的なボヤキのつもりだった。

 けれど。

 彼女からの相槌はなかった。

 ふと視線を上げると、彼女は袋の中のジャガイモを取り出し、その表面についた乾いた土を、指先で愛おしそうに撫でていた。

 そして、静かに言った。


「……計算、間違ってますよ」


「え?」


「あなたは、野菜の値段と送料しか計算に入れていません」


 彼女は顔を上げ、僕を真っ直ぐに見た。その瞳は、叱責というよりも、もっと深い哀れみを含んでいるように見えた。


「何を詰めるか悩む時間。重たい箱を郵便局まで運ぶ労力。宛名を書くときの手間。そして、食べてくれるかなと想像する時間」


 彼女は一つ一つ、指を折って数えるように言った。


「その『見えないコスト』を全部足したら……現金なんかよりも、ずっと高価な贈り物になるはずです」


 言葉に詰まった。

 コスパ。効率。そんな口から出た考えなしの言葉、そこまで考えてもいなかった自分の浅ましさが、急に恥ずかしくなった。


「それに」


 彼女は少しだけ口元を綻ばせた。


「スーパーの野菜は綺麗ですけど、誰の手も痕跡も残っていません。でもこの土は、あなたのご両親が触れた証拠です。……遠く離れていても触れられる、一番確かな体温じゃないですか」


 体温。

 彼女はそう言って、泥のついたジャガイモを、両手で包み込んだ。

 僕は何も言い返せなかった。

 ただ、彼女の膝の上にあるその野菜が、急に黄金か何かのように尊いものに見えてきた。


「……いただきますね。今夜は、ポテトサラダにします」


 彼女は袋を持ち上げ、嬉しそうに微笑んだ。

 その笑顔を見て、僕は胸の奥がチクリと痛んだ。

 同時に、今夜、家に帰ったら残りの野菜をちゃんと洗ってやろうと、心の中で思った。

 簡単な料理でいい。

 ただ、その土の感触を、僕も確かめてみようと思ったのだ。

その夜、僕はキッチンのシンクに立ち、ジャガイモを洗った。

 水を含むと、茶色い塊から黒い土が流れ出し、指先をざらりと撫でた。

 冷たい水。泥の匂い。


(……これが、体温か)


 たわしでこすりながら、僕は昼間の彼女の言葉を反芻する。

 確かに、スーパーで並んでいる野菜にはない、生々しい「手間」の感触がそこにはあった。

 茹で上がったジャガイモを潰し、マヨネーズと和える。

 不格好なポテトサラダができあがった。

 一口食べる。素朴で、少しだけ塩気が足りない味がした。

 僕はスマホを手に取り、しばらく画面を見つめてから、意を決して通話ボタンを押した。

 コール音が三回鳴り、母が出た。


『あら、どうしたの? 珍しい』


 少し驚いたような、弾んだ声。

 僕は喉の奥の小骨を取り除くように、咳払いをしてから言った。


「……荷物、届いたから。野菜」


『ああ、無事着いた? よかった。あのジャガイモね、お父さんが腰痛いのに張り切って掘ったのよ』


「そうか。……食ったよ、さっき。うまかった」


 たったそれだけ。

 「ありがとう」という五文字は、照れくさくて言えなかった。

 けれど、僕の言葉の裏にあるニュアンスを汲み取ったのか、母の声がさらに明るくなった。


『そう、よかったわあ。また送るからね。ちゃんと食べるのよ』


 電話を切った後、胸の中に温かいものが残った。

 今まで「重い」と感じていたものが、今は「支え」のように感じられる。

 それを気づかせてくれたのは、あの非常階段の彼女だ。


(敵わないな……)


 僕が何年もかけて築いた「合理性の壁」を、彼女はたった一言で飛び越えてしまった。

 物事の本質を見抜く目。手間を愛する心。

 僕にはないものを、彼女は全部持っている気がした。

 それはまだ「愛」と呼ぶには遠いけれど、強烈な「憧れ」だった。

 彼女のような視点で世界を見られたら、僕の退屈な灰色の日々も、少しは色づいて見えるのだろうか。

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