第5章 歩幅
その日は、珍しく残業が早く終わった。
エレベーターホールで彼女と鉢合わせたのは、本当に偶然だったと思う。
「……お疲れ様です」
「お疲れ様です」
交わした言葉はそれだけ。けれど、駅までの道のりをどちらからともなく、なんとなく並んで歩くことになった。
会話はない。
以前の僕なら、この沈黙に耐えられず、無理やり天気の話題でも振っていただろう。
でも今は、この無言が心地よい。
革靴がアスファルトを叩く音と、彼女のヒールの音が、不規則なリズムを刻んでいる。
駅前の大きな交差点に差し掛かった時だ。
信号が青に変わったが、僕たちはすぐに渡り出せなかった。
目の前を、一組の老夫婦が歩いていたからだ。
旦那さんだろうか、右足を引きずるようにして、ゆっくり、ゆっくりと歩いている。
隣に寄り添う奥さんは、彼の手をしっかりと握り、時折何か話しかけながら、その遅い歩みに合わせている。
信号の点滅が始まる。
彼らはまだ、横断歩道の半分も渡りきれていない。
(……危ないな)
僕は無意識に時計を見た。
タクシーを使えばいいのに。あるいは、もっと急ぐように促すとか。
後ろから来る人たちが、彼らを追い抜いていく。
効率。スピード。それがこの街のルールだ。彼らの存在は、この忙しい夕暮れ時には、明らかな「ノイズ」として扱われていた。
「……大変そうだな」
僕がぽつりと呟くと、隣の彼女が足を止めた。
「そうですか?」
彼女は、じっとその老夫婦の背中を見つめている。
「私には、羨ましく見えます」
「羨ましい?」
「ええ。だって、見てください。あの人たち、周りのことなんて気にしてない」
彼女の視線の先。
クラクションが鳴っても、誰かに追い抜かれても、二人は繋いだ手を離そうとしない。
お婆さんが何かを囁き、お爺さんがくしゃりと笑ったのが見えた。
そこには、二人だけの世界があった。
「相手の重さを支えて、相手の速度に合わせて。そうやって時間を浪費することって、今の時代、一番贅沢なことだと思いませんか?」
彼女の言葉に、僕はハッとした。
時間を浪費する。
僕はそれを「無駄」だと切り捨ててきた。
けれど、彼らにとってその時間は、互いの存在を確かめ合うための、かけがえのない儀式なのかもしれない。
信号が赤に変わる。
老夫婦はようやく渡りきり、夜の街へ消えていった。
僕たちは、次の青信号を待つために立ち尽くす。
ふと、僕は自分の歩くスピードが、いつもより速かったことに気づいた。
一人で生きるということは、誰にも合わせず、最短距離を最高速度で駆け抜けることだと思っていた。
でも、それはただ、景色を見る余裕を失っていただけなんじゃないか。
再び信号が青に変わる。
僕は「行こうか」と短く声をかけ、歩き出した。
駅まではあと少しだ。早く帰って、泥のように眠りたい。
無意識のうちに、僕の足はいつもの「最適速度」に戻っていたらしい。人混みを縫い、前の人を追い越し、スタスタとアスファルトを蹴る。
このペースが一番楽だ。誰にも邪魔されず、自分のリズムだけで世界が進んでいく。
ふと、隣の気配がないことに気づいた。
ヒールの音が聞こえない。
「……あれ?」
立ち止まって振り返る。
彼女は、五メートルほど後ろにいた。
追いかける様子もなく、立ち止まって、じっとこちらを見ている。
夜風に髪が揺れている。その表情は、怒っているようにも見えるし、呆れているようにも見えた。
「……あ、ごめん。歩くの速かった?」
僕は慌てて戻り、言い訳がましく笑った。
「つい、いつもの癖で」
彼女はすぐには答えなかった。
少しだけ唇を尖らせて、明後日の方向を見ている。
その仕草は、いつもの淡々とした彼女らしくない、どこか幼い、拗ねているような空気を纏っていた。
「……癖、ですか」
彼女は僕を見ないまま、ポツリと言った。
「歩く速さって、その人の生き方そのものですね」
「え?」
「あなたのその背中、後ろから見てると、こう言われてる気がします。『俺は誰にも歩み寄らないぞ』って」
僕は言葉に詰まる。
彼女はゆっくりと視線を僕に戻し、痛いところを突くように続けた。
「一緒にいるのに、一緒にいる気がしません。……あなたが歩幅を合わせないのは、結局のところ、その相手に興味がないからじゃないですか?」
心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。
図星だった。
元カノのエリの顔が浮かぶ。彼女とのデート中、僕はよく「歩くのが速い」と怒られていた。
その度に僕は「足の長さが違うんだから仕方ないだろ」と笑ってごまかしていたけれど、違う。
僕は心のどこかで、彼女に合わせることを「面倒だ」と思っていたのだ。
自分のリズムを崩してまで、相手の世界に踏み込むほどの興味も、情熱も、持っていなかった。
「……貴方を追う人は、貴方に歩みを合わせてもらえない人は、どう思うか考えたことあります?」
彼女の声は静かだったが、鋭い棘があった。
置いていかれたことへの小さな抗議と、僕の核心を突く冷徹な分析。
「いつか」
彼女はカバンの持ち手を握り直し、少しだけ声のトーンを緩めた。
「……いつか、あなたが自分の方から『歩幅を合わせたい』と思える人が、見つかるといいですね」
それは皮肉にも聞こえたし、本心からの祈りのようにも聞こえた。
彼女は「お先に」と短く言い捨てると、僕の横を通り過ぎていった。
カツ、カツ、とヒールの音が鳴る。
その背中は、僕がさっきまで見せていた背中よりも、ずっと拒絶的に見えた。
僕はしばらく動けなかった。
(考えたことはなかった)
今まで「合わせたい人」がいなかった事実。
そして今、彼女に置いていかれたこの数メートルの距離が、ひどく寂しいものだと感じている自分。
(……ああ、そうか)
僕は初めて理解した。
置いていかれるというのは、こんなにも惨めな気分になるものなのか。
僕は小さく息を吐き、彼女の背中を追った。
走って追いつくことはしなかった。
ただ、彼女のヒールの音が聞こえる距離を保ちながら、今までよりも意識して、ゆっくりと足を運んだ。




