第4章 睡眠は大事
眠りにつく時間が、たまらなく惜しくなった。
目を閉じて意識を手放してしまえば、またすぐに「朝」が来て、仮面を被らなければならない「会社」という戦場へ放り出される。
それが怖くて、僕は夜を必死に引き伸ばそうとした。
午前二時。
ベッドの中でスマホのブルーライトを浴びながら、僕は無意味な知識を貪る。
海外の哲学書の難解な一節を読んだり、深海魚の生態を調べたり、明日の仕事に役立つ効率化ツールを探したり。
睡眠時間は削られる。けれど、こうして新しい情報を頭に入れている時だけは、自分が停滞していない、前に進んでいる人間だと思えた。
この孤独な夜更かしこそが、僕に残された唯一の自由だった。
しかし、身体は正直だ。
つけ払いの代償は、容赦なく利子がついて回ってくる。
***
「……おい、ここ。数字違ってるぞ」
上司の低い声に、僕はハッと顔を上げた。
モニターの数字がぼやけて見える。頭の中には常に薄い霧がかかっていて、思考が泥の中を歩くように鈍い。
「あ、すみません。すぐ直します」
「頼むよ。昨日もメールの宛先間違えてただろ。最近たるんでるんじゃないか?」
「申し訳ありません」
頭を下げるが、言葉に感情が乗らない。
反省していないわけじゃない。ただ、脳の処理速度が追いつかず、「申し訳ない」という感情を生成する前に、次のタスクが押し寄せてくるのだ。
小さなミス。
一つ一つは致命的ではない。書類の不備、会議時間の勘違い、返信の遅れ。
けれど、それが積み重なることで、周囲の空気は確実に変わっていく。
「あーあ、また修正かよ。あの人、最近どうしたの?」
「なんか話しかけづらいよね。ピリピリしてるし」
給湯室から漏れ聞こえてくる同僚のヒソヒソ話。
普段の僕なら、「わりぃ! 珈琲おごるから許して!」とノリよく謝って、その場の空気を修復できただろう。
今の僕には、そのエネルギーがない。
笑いかける余裕もなければ、気を使う体力もない。
「……何か用?」
心配そうにこちらを見ていた後輩に、つい鋭い視線を返してしまった。
後輩はビクリと肩を震わせ、「す、すみません」と逃げるように去っていく。
やってしまった。
完全な八つ当たりだ。
円滑なコミュニケーション。波風を立てない人間関係。僕が一番大切にしていた処世術が、ボロボロと崩れ去っていく。
昼休み。
僕は逃げるように席を立った。
非常階段へ行こうとして、足が止まる。
行けない。
今のこんな余裕のない顔で、彼女に会いたくなかった。
またあの静かな瞳で「大丈夫ですか」なんて見透かされたら、今度こそ僕は、取り返しのつかない醜態を晒してしまいそうだった。
僕は踵を返し、誰もいないトイレの個室に逃げ込んだ。
鍵をかける。
便座に座り込んで目を閉じると、身体が鉛のように重い。
(……少しだけ。五分だけ、寝よう)
そう思った瞬間、意識はプツリと途絶えた。
自分では五分のつもりだった。
しかし、次にスマホの振動で目を覚ました時、一時間が経過していた。
画面には、上司からの不在着信と、『会議始まってるぞ』という同僚からのLINE。
血の気が引いていく。
やってしまった。
挽回しようとして夜更かしをし、知識を蓄え、効率化を図ろうとした結果がこれだ。
僕は震える手で鍵を開け、個室を出た。
鏡に映る自分は、幽霊のように青白く、ひどく頼りなかった。
***
上司の説教は、一時間近く続いた。
会議をすっぽかしたのだから当然だ。僕はただ「申し訳ありません」と壊れた機械のように繰り返した。
同僚たちの気まずそうな視線を背中に浴びながら、デスクに戻る。
残っていた仕事を片付ける気力なんて、もう一ミリも残っていなかった。
「……今日は、帰ります」
誰にともなく呟いて、僕はカバンを掴んだ。
逃げ出したかった。
パソコンの画面からも、ヒソヒソ話からも、自分自身の情けなさからも。
オフィスを出て、エレベーターに乗り、エントランスを抜ける。
夜の風が冷たい。
駅へ向かう足を動かすが、地面がふわふわとして頼りない。視界がグニャリと歪む。
空腹と、睡眠不足と、自己嫌悪。
そのすべてが混ざり合って、鉛のような重りになって足首に絡みついていた。
(だめだ、歩けない)
駅までたどり着ける気がしなかった。
僕はオフィスの裏手にある、小さな公園に逃げ込んだ。
遊具なんてない、ベンチと自販機があるだけの喫煙所みたいなスペースだ。
ベンチに座り込む。
いや、座っていられなくて、そのまま背もたれに身体を預け、天井(空)を仰いだ。
都会の空は明るすぎて、星なんて見えない。
スマホを取り出す。
ケイに連絡しようか?
『やらかしたわ。飲みに付き合ってくれ』と送れば、あいつはきっと来てくれる。笑い飛ばしてくれる。
……でも、指が動かない。
笑い話にできるレベルを超えていた。今の僕の顔は、きっと笑えないほど酷い。そんな顔を友人に見せたくない。
それに、こんな夜遅くに呼び出して、あいつの時間を奪うのが申し訳ない。
「……はは、詰んでるな」
乾いた笑いが漏れた。
誰にも頼れない。頼りたくない。
自立した大人のつもりでいて、結局は一人で勝手に転んで、起き上がり方もわからなくなっている子供だ。
自販機のモーター音がブーンと響く中、僕は目を閉じた。
このまま少し休んで、動けるようになったら帰ろう。
そう思っていた時だった。
ジャリ、と足音が近づいてくる。
誰かが自販機を使いに来たのか。
僕は顔を見られたくなくて、腕で目元を覆ったまま、息を潜めた。
ガチャン。
缶が落ちる音がした。
足音がこちらへ近づいてくる。
通り過ぎてくれ。頼むから、僕に関心を持たないでくれ。
しかし、足音は僕のベンチの横で止まった。
「……ここで寝ると、風邪ひきますよ」
心臓が跳ねた。
聞き覚えのある、静かで平坦な声。
恐る恐る、腕の隙間から覗き見る。
彼女だった。
コンビニの袋を提げて、コートのポケットに片手を突っ込んだまま、僕を見下ろしている。
非常階段で会う時と同じ、あの温度のない瞳。
「……偶然、ですね」
彼女はそう言うと、僕の返事を待たずに、ベンチの空いている隣のスペースに腰を下ろした。
距離は、拳二つ分くらい。
近すぎず、遠すぎず。
「なんで……」
僕の声は嗄れていて、自分でも情けなくなるほど弱々しかった。
「コンビニの帰りです。近道なので」
彼女は淡々と答えた。
嘘か本当かはわからない。でも、わざわざ僕を探していたわけじゃないというその建前が、今は死ぬほどありがたかった。
彼女は買ってきたばかりの温かい缶コーヒーを、カシュッと開けた。
てっきり僕にくれるのかと思ったが、彼女は自分で一口飲んだ。
そして、ふう、と白い息を吐く。
「……最近、来ませんね。階段」
独り言のように、彼女が言った。
責める口調ではない。ただの確認だ。
「……忙しくて」
「嘘ですね」
即答だった。
「顔、この前より酷いです。幽霊みたい」
「……うるさいな」
僕は力なく笑おうとしたが、頬が引きつってうまくいかなかった。
彼女は僕の方を見ない。
前を向いたまま、コーヒーの缶を両手で包み込んでいる。
「私ね、詮索されるの嫌いなんです」
唐突に、彼女が言った。
「『大丈夫?』とか『何があったの?』とか聞かれると、逃げたくなります。放っておいてくれって思う」
僕と同じだ、と思った。
彼女もまた、他人の干渉を疎ましく思う側の人間なのだ。
「でも」
彼女は言葉を切って、少しだけ視線を下げた。
「誰にも見つけられない場所で、一人で勝手に潰れていくのを見ているのは……もっと嫌いです」
その言葉は、鋭い針のように僕の胸に刺さった。
そして、彼女は自分のポケットから、何かを取り出した。
肉まんだった。
コンビニの袋に入ったままの、温かいやつ。
「半分、食べますか」
彼女はそれを二つに割ると、湯気の立つ半分を僕に差し出した。
優しさの押し売りではない。
「私が食べきれないから」というような、ぶっきらぼうな手つき。
僕はそれを受け取った。
手のひらに、熱いくらいの温度が伝わってくる。
「……ありがとう」
一口かじると、安っぽい肉の味がした。
でも、喉を通った瞬間、胃の奥がじわりと熱くなって、張り詰めていた糸がプツンと切れた。
涙は出なかった。
ただ、隣に座る彼女の、言葉少なな存在感だけが、僕の身体を支えていた。
誰にも期待しない僕が、初めて「他人の重さ」を心地よいと感じた瞬間だった。




