第3章 強がりの代償
週末の居酒屋は、相変わらず騒音の坩堝だった。
僕はジョッキに残った温くなったビールを流し込み、大きく息を吐いた。
「……おい、お前なんか顔死んでるぞ、お通夜ですかー?」
対面に座っていたケイが、焼き鳥の串を齧りながら言った。
(なかなか鋭いな、そして、不謹慎なやつめ)
こいつもまた、僕の仮面のひび割れに気づいた一人だ。付き合いが長い分、ごまかしが効かない。
けれど、僕は「なんでもない」と首を横に振った。
別に隠し事をしたいわけじゃない。
仕事のミスについては、もう自分の中で消化しているからだ。原因はわかっているし、再発防止策も頭の中で組み上がっている。月曜になれば淡々と処理をするだけだ。
すでに「解決済み」の案件を、わざわざ休日に友人に話して、愚痴をこぼしたり同情を引いたりすることに何の意味がある?
それはただの時間泥棒だし、せっかくの酒が不味くなるだけだ。
「ちょっと立て込んでてさ。まあ、なんとかなるよ」
僕がそう短く返すと、ケイは「ふーん」と鼻を鳴らした。
それ以上、聞いてこなかった。
「何があったんだ?」「話聞くぞ?」なんて野暮なことは言わない。
僕が話したくないなら、それには理由があるんだろうと察して、土足で踏み込んでこない。
その代わり、彼はニヤリと笑って、空になった僕のグラスを指差した。
「ま、なんとかなるならいいや。それより見ろよ、あそこの店員の姉ちゃん、めちゃくちゃタイプじゃね?」
「は? お前、先週は受付の子がいいとか言ってただろ」
「バカ、あれは先週の話だ。男心と秋の空って言うだろ」
「言わねーよ」
くだらない冗談。中身のない笑い話。
ケイは話題をガラリと変え、僕を無理やり「バカ話」の土俵に引きずり込んだ。
それが彼なりの気遣いだとわかっている。
僕が一人で反省モードに入り込んでいるのを、強引に引き剥がしてくれようとしているのだ。
心地よかった。
非常階段で、じっと無言でチョコを差し出してきたあの女性とは大違いだ。
彼女の行動は、確かに優しさかもしれないが、僕の不調を「重大なこと」として扱われているようで、少し息苦しかった。
けれどケイのこれは、もっと軽やかで、心が軽くなる。
(やっぱり、持つべきものは友だちだな)
僕は久しぶりに心から笑い、新しいビールを注文した。
信頼関係があるからこそ、言葉はいらない。
この軽さこそが、僕にとっての救いだった。
***
ケイと別れて、一人になった帰り道。
アルコールが回った頭で、ふと、昔のことを思い出した。
酔うと決まって思い出す名前がある。
エリ。三年前まで付き合っていた、元恋人の名前だ。
彼女は、悪い人間ではなかった。
むしろ、よく気がつく、優しい女性だったと思う。
ただ、その優しさが、当時の僕には少し「重」かった。そして何より、僕自身がどうしようもなく未熟で、可愛げのない男だったのだ。
「ねえ、次はいつ会える?」
電話越しの彼女の声は、いつも少し寂しげだった。
当時の僕は、入社三年目で一番仕事が面白く、同時に余裕がない時期だった。
「ごめん、今月は無理かも。プロジェクトが佳境なんだ」
「そっか……。でも、無理しないでね。辛かったら言ってよ? 飛んでいくから」
彼女の言葉は純粋な気遣いだった。
けれど、僕はその言葉を聞くたびに、心の扉にガチャリと鍵をかけたくなった。
仕事が忙しいのは事実だ。でも、本当に時間がないわけじゃない。睡眠時間を削れば会うことはできた。
ただ、弱音を吐くのが嫌だったのだ。
疲れた顔を見せるのも、甘えるのも、自分のプライドが許さなかった。
だから僕は、いつもの「ノリ」と「強がり」で返した。
「はは、大丈夫だって。俺、タフだからさ。むしろ仕事楽しんでるくらいだし。エリこそ、俺にかまってないで友達と遊んでこいよ」
あまのじゃくだった。
本当は、声が聞けて嬉しかった。
「頑張って」と言われるだけで救われていた。
でも、それを認めてしまえば、自分が彼女に依存してしまう気がして怖かった。だから突き放すようなことを言い、余裕ぶって見せた。
そうすれば、彼女も安心して自分の時間を過ごせるだろうと、本気で思っていたのだ。
それが、決定的な間違いだと気づいたのは、半年後の冬だった。
久しぶりのデートの日。
彼女は泣きもせず、怒りもせず、ただ静かに言った。
「ごめん。他に好きな人ができたの」
僕は頭を殴られたような衝撃を受けたが、顔には出さなかった。
「……そっか。まあ、最近会えてなかったしな」
精一杯の強がりだった。ここで「行かないでくれ」とすがりつくことさえ、僕にはできなかった。
彼女は、僕のその乾いた反応を見て、悲しそうに微笑んだ。
「あのね。その人、仕事もうまくいってないし、泣き虫で、全然頼りないの」
「……は? なんだそれ」
「でもね、私がいなきゃダメなの。……あなたはさ、強いから。私がいなくても、一人で生きていけるでしょう?それに、、あんまり私の事好きじゃなかったんでしょ?」
言葉が出なかった。
違う。
一人が平気なわけじゃない。寂しくないわけじゃない。ただ、それを口にする術を知らなかっただけだ。
僕が必死に築き上げてきた「自立」や「強さ」は、彼女にとっては「自分を必要としない拒絶」でしかなかったのだ。
彼女は去っていった。
自分を必要としてくれる、弱くて情けない男のもとへ。
浮気されたという事実よりも、「お前は一人で大丈夫」、「好きじゃなかったんでしょ?」という烙印を押されたことの方が、僕の心を深く抉った。
***
夜風が酔った頬を撫でる。
あの時、僕がもっと素直に「寂しい」と言えていれば、未来は変わっていたのだろうか。
いや、無意味な仮定だ。
結局、恋愛なんてものは、互いのエゴの押し付け合いだ。
「寂しいから埋めてほしい」「必要とされたいから頼ってほしい」。
そんな重たい感情のやり取りに、僕はもう疲れてしまった。
だから、今のままでいい。
ケイのように、深入りせずに笑い合える友人がいればいい。
非常階段の彼女のように、名前も知らない他人との、無責任な関わりだけでいい。
求めなければ、失うこともない。
期待にだけ応えていれば、失望されることもない。
適度な距離感。
(友達だけは大事にしたい)
僕はポケットの中で拳を握りしめ、自分に言い聞かせる。
やっぱり、一人が一番気楽で、安全だ。




