第2章出会い
視線が絡んだのは、ほんの数秒だったと思う。
彼女はふいに立ち上がると、カメラをバッグにしまい、空になった缶コーヒーをゴミ箱に捨て、僕に背を向けた。
言葉はなかった。会釈も、微笑みもなかった。
ただ、去り際に一瞬だけ、夜風に乗って金木犀のような、あるいは雨上がりのアスファルトのような、不思議な香りが鼻先を掠めた気がした。
カツ、カツ、とヒールの音が遠ざかり、闇に溶けていく。
後に残されたのは、僕と、自動販売機の低い唸り声だけ。
「……」
僕はどこかで、、誰だっけ?と暫く思い出そうとしたが記憶から出てくる事は無かった。
まるで、彼女がこの場の「静寂」という質量をごっそりと持って行ってしまったかのように、僕の周りの空気はまた、いつもの薄っぺらいものに戻っていた。
***
それから三日が過ぎた。
あの夜のことは、酔っ払った僕が見た幻覚だったのかもしれない。そう思い込むことにした。
日常は相変わらずだ。
会社では「ノリが良くて、そこそこ仕事ができる若手」という仮面を被って過ごしている。
「お、その資料もうできたの? 早いねー」
「いやいや、たまたまですって。先輩のフォローのおかげっすよ」
中身のない謙遜と、定型文のようなお世辞。
円滑なコミュニケーション。
波風の立たない人間関係。
僕はうまくやっている。
誰にも期待せず、誰からも深く踏み込まれないこの距離感が、一番楽なんだ。
昼休み。僕は逃げるようにオフィスを抜け出した。
ケイや同僚とランチに行けば、別の先輩たちがいるせいで、また愛想笑いの延長戦だ。一人の時間が欲しかった。
僕には、会社の中にひとつだけ「避難所」がある。
あまり使われていない、北側の非常階段の踊り場だ。ここは冬場は少し冷えるけれど、人も来ないし、静かにスマホをいじったり本を読んだりできる。僕だけの聖域だ。
重たい鉄の扉を開ける。
ひんやりとした空気が頬を撫でる。
僕は安堵の息を吐きながら、いつもの定位置――階段の隅に座り込もうとして、
――固まった。
先客がいた。
踊り場の手すりに寄りかかり、コンビニのおにぎりを無心で頬張っている女性。
制服ではない、オフィスカジュアルな服装、首から下げた社員証が、微かに揺れている、地味な色のカーディガン。
少し乱れた髪。
そして、あの夜のベンチで見たのと全く同じ、どこか遠くを見ているような瞳。
(……え?)
思考が停止する。
なぜ、彼女がここにいる?うちの社員だったのか?部署は?どうりで見覚えがあると思った。
僕が扉を開けた音に気づき、彼女がゆっくりとこちらを向いた。
口元についた米粒を気にする様子もなく、彼女は僕を見る。
あの夜と同じだ。
驚くでもなく、嫌がるでもなく。ただ、そこに存在する事実だけを受け入れるような、凪いだ目。
何気なく立ち去るべきか、挨拶すべきか。
僕の「コミュ力」を司る回路がショートする。
「あはは、、お疲れ様です。」
笑ってごまかす。
普段のノリなんて通用しない。
この重たい沈黙の前では、小手先の技術なんて無意味だ。
数秒の硬直の後。
彼女は飲み物を一口飲むと、ボソリと呟いた。
「……ここ、静かでいいですよね」
それは僕への同意なのか、独り言なのかわからないトーンだった。
けれど、その声は不思議なくらい僕の耳に馴染んだ。
僕は戸惑いながらも、引き攣った笑いを浮かべたまま、ただ正直に頷いた。
「……そう、ですね」
それが、僕たちが初めて交わした会話だった。
名前も知らない。部署も知らない。
ただ、「静寂を好む」という一点だけで繋がった、俺のただ一つの憩いの場が、そう思った。
扉の向こうでは、騒がしい世界が回っている。
けれどこの狭い踊り場だけは、妙に重力が安定している気がした。
***
仕事でのミスは、ドミノ倒しに似ている。
最初の一枚が倒れた音なんて、誰も聞いていない。気づいた時には、すべてが手遅れなほど派手な音を立てて崩れ落ちているのだ。
僕のミスではなかった。はずだ。
連携不足。確認漏れ。誰かの「まあいいか」の積み重ねが、最終的に僕のデスクの上で爆発しただけだ。
けれど、謝るのは僕の役目だった。
「申し訳ありません。以後気をつけます」
上司の怒声。取引先の冷ややかな視線。
僕は頭を下げながら、心のスイッチを切る。
(はいはい、すみません。僕が悪かったです。これで満足ですか)
反論はしない。期待も要望もしない。
ただ嵐が過ぎ去るのを待つ。
それが一番「波風が立たない」からだ。
深夜残業の連鎖で、睡眠時間は削られ、食事はコンビニのおにぎりで済ませる日々が続いた。
鏡に映る自分の顔は、土気色をしていて酷いものだった。
友人からの「飲み行こうぜ」というLINEには、『今、繁忙期で死んでるw』と軽いスタンプ付きで返した。
大丈夫。まだ笑える。まだ演じられる。
***
昼休み。
僕は重たい足を引きずって、いつもの非常階段へ向かった。
聖域へ。
鉄の扉を開けると、いつものように彼女がいた。
彼女は文庫本を読んでいた。
僕が入っていくと、ページから目を離し、静かにこちらを見る。
ここ数週間で、僕たちの間には奇妙なルーティンが出来上がっていた。
名前は聞かないし、連絡先も交換しない。
ただ、会えば軽く会釈をして、それぞれの時間を過ごす、それだけの関係。
「……お疲れ様です」
僕は努めて明るい声を出して、会釈をした。
彼女も軽く頭を下げる。
僕はいつもの定位置、階段の隅に座り込もうとした。
その時だった。
彼女の視線が、僕の顔に張り付いたまま動かないことに気づいた。
「……?」
なんだろう。
顔に何かついているのか。
僕が不審に思って振り返ると、彼女は文庫本を閉じて、眉をほんの数ミリだけ寄せた。
「……顔色、悪いですね」
淡々とした、事実を述べるだけの声。
けれど、そこには明らかな「違和感の指摘」が含まれていた。
僕は心臓が跳ねるのを感じた。
見透かされた。
仮面の下の疲労を。
焦燥を。
いや、認めるわけにはいかない。
ここで「実は仕事が辛くて」なんてこぼすのは、僕の流儀じゃない。他人になんて期待しない。同情なんていらない。
僕は反射的に、口角を吊り上げた。
いつもの、ノリと勢いの笑顔だ。
「あー、わかります? 昨日ちょっと夜更かししてゲームしすぎちゃって。全然余裕なんですけどね、眠くて眠くて」
ペラペラと、軽い言葉が口をついて出る。
嘘だ。
ゲームなんてする気力もない。本当は胃がキリキリと痛んで、立っているのもやっとだ。
でも、これでいい。
笑ってごまかせば、相手もそれ以上踏み込んでこない。いつものように「そうですか」と流してくれるはずだ。
しかし。
彼女は流さなかった。
僕のヘラヘラした笑顔を、じっと見つめている。
その瞳は、僕の嘘を見抜いているようで、それでいて責めるわけでもなく、ただ静かな水面のように僕を映していた。
居心地が悪い。
何も言わないその視線が、どんな言葉よりも重たい。
数秒の沈黙の後。
彼女はふいに視線を外し、カバンの中から何かを取り出した。
「……これ」
差し出されたのは、一粒のチョコレートだった。
高価なものではない。コンビニで売っているような、ありふれたミルクチョコ。
「糖分。……頭痛に効くので」
それだけ言うと、彼女はまた文庫本を開き、自分の世界に戻っていった。
拒絶でもなく、過剰な干渉でもない。
ただ、「そこに置いておくから」という程度の、ささやかな施し。
僕は呆気にとられ、しばらくそのチョコを見つめていた。
笑って断ることもできたはずだ。「甘いの苦手なんで」とか言って。
でも、なぜかその時は、その小さな包みを突き返すことができなかった。
「……どうも」
笑顔を作るのを忘れて、僕は短く礼を言った。
包みを開けて口に放り込む。
甘さが、疲れた脳に染み渡る。
それは、僕が自分で築き上げた「大丈夫」というバリケードを、内側から少しだけ溶かしてしまうような、優しい味がした。




