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あい。  作者: 黒猫
3/11

第2章出会い

視線が絡んだのは、ほんの数秒だったと思う。

 彼女はふいに立ち上がると、カメラをバッグにしまい、空になった缶コーヒーをゴミ箱に捨て、僕に背を向けた。

 言葉はなかった。会釈も、微笑みもなかった。

 ただ、去り際に一瞬だけ、夜風に乗って金木犀きんもくせいのような、あるいは雨上がりのアスファルトのような、不思議な香りが鼻先を掠めた気がした。

 カツ、カツ、とヒールの音が遠ざかり、闇に溶けていく。

 後に残されたのは、僕と、自動販売機の低い唸り声だけ。


「……」


 僕はどこかで、、誰だっけ?と暫く思い出そうとしたが記憶から出てくる事は無かった。

 まるで、彼女がこの場の「静寂」という質量をごっそりと持って行ってしまったかのように、僕の周りの空気はまた、いつもの薄っぺらいものに戻っていた。


     ***


 それから三日が過ぎた。

 あの夜のことは、酔っ払った僕が見た幻覚だったのかもしれない。そう思い込むことにした。

 日常は相変わらずだ。

 会社では「ノリが良くて、そこそこ仕事ができる若手」という仮面を被って過ごしている。


「お、その資料もうできたの? 早いねー」


「いやいや、たまたまですって。先輩のフォローのおかげっすよ」


 中身のない謙遜と、定型文のようなお世辞。

 円滑なコミュニケーション。

 波風の立たない人間関係。

 僕はうまくやっている。

 誰にも期待せず、誰からも深く踏み込まれないこの距離感が、一番楽なんだ。

 昼休み。僕は逃げるようにオフィスを抜け出した。

 ケイや同僚とランチに行けば、別の先輩たちがいるせいで、また愛想笑いの延長戦だ。一人の時間が欲しかった。


 僕には、会社の中にひとつだけ「避難所」がある。

 あまり使われていない、北側の非常階段の踊り場だ。ここは冬場は少し冷えるけれど、人も来ないし、静かにスマホをいじったり本を読んだりできる。僕だけの聖域だ。

 重たい鉄の扉を開ける。

 ひんやりとした空気が頬を撫でる。

 僕は安堵の息を吐きながら、いつもの定位置――階段の隅に座り込もうとして、

 

 ――固まった。


 先客がいた。

 踊り場の手すりに寄りかかり、コンビニのおにぎりを無心で頬張っている女性。

 制服ではない、オフィスカジュアルな服装、首から下げた社員証が、微かに揺れている、地味な色のカーディガン。

 少し乱れた髪。

 そして、あの夜のベンチで見たのと全く同じ、どこか遠くを見ているような瞳。


(……え?)


 思考が停止する。

 なぜ、彼女がここにいる?うちの社員だったのか?部署は?どうりで見覚えがあると思った。

 僕が扉を開けた音に気づき、彼女がゆっくりとこちらを向いた。

 口元についた米粒を気にする様子もなく、彼女は僕を見る。

 あの夜と同じだ。

 驚くでもなく、嫌がるでもなく。ただ、そこに存在する事実だけを受け入れるような、凪いだ目。

 何気なく立ち去るべきか、挨拶すべきか。

 僕の「コミュ力」を司る回路がショートする。


「あはは、、お疲れ様です。」


 笑ってごまかす。

 普段のノリなんて通用しない。

 この重たい沈黙の前では、小手先の技術なんて無意味だ。

 数秒の硬直の後。

 彼女は飲み物を一口飲むと、ボソリと呟いた。


「……ここ、静かでいいですよね」


 それは僕への同意なのか、独り言なのかわからないトーンだった。

 けれど、その声は不思議なくらい僕の耳に馴染んだ。

 僕は戸惑いながらも、引き攣った笑いを浮かべたまま、ただ正直に頷いた。


「……そう、ですね」


 それが、僕たちが初めて交わした会話だった。

 名前も知らない。部署も知らない。

 ただ、「静寂を好む」という一点だけで繋がった、俺のただ一つの憩いの場が、そう思った。

 扉の向こうでは、騒がしい世界が回っている。

 けれどこの狭い踊り場だけは、妙に重力が安定している気がした。



 ***


仕事でのミスは、ドミノ倒しに似ている。

 最初の一枚が倒れた音なんて、誰も聞いていない。気づいた時には、すべてが手遅れなほど派手な音を立てて崩れ落ちているのだ。

 僕のミスではなかった。はずだ。

 連携不足。確認漏れ。誰かの「まあいいか」の積み重ねが、最終的に僕のデスクの上で爆発しただけだ。

 けれど、謝るのは僕の役目だった。


「申し訳ありません。以後気をつけます」


 上司の怒声。取引先の冷ややかな視線。

 僕は頭を下げながら、心のスイッチを切る。


(はいはい、すみません。僕が悪かったです。これで満足ですか)


 反論はしない。期待も要望もしない。

 ただ嵐が過ぎ去るのを待つ。

 それが一番「波風が立たない」からだ。

 深夜残業の連鎖で、睡眠時間は削られ、食事はコンビニのおにぎりで済ませる日々が続いた。

 鏡に映る自分の顔は、土気色をしていて酷いものだった。

 友人からの「飲み行こうぜ」というLINEには、『今、繁忙期で死んでるw』と軽いスタンプ付きで返した。

 大丈夫。まだ笑える。まだ演じられる。


     ***


 昼休み。


 僕は重たい足を引きずって、いつもの非常階段へ向かった。

 聖域へ。

 鉄の扉を開けると、いつものように彼女がいた。

 彼女は文庫本を読んでいた。

 僕が入っていくと、ページから目を離し、静かにこちらを見る。

 ここ数週間で、僕たちの間には奇妙なルーティンが出来上がっていた。

 名前は聞かないし、連絡先も交換しない。

 ただ、会えば軽く会釈をして、それぞれの時間を過ごす、それだけの関係。


「……お疲れ様です」


 僕は努めて明るい声を出して、会釈をした。

 彼女も軽く頭を下げる。

 僕はいつもの定位置、階段の隅に座り込もうとした。

 その時だった。

 彼女の視線が、僕の顔に張り付いたまま動かないことに気づいた。


「……?」


 なんだろう。

 顔に何かついているのか。

 僕が不審に思って振り返ると、彼女は文庫本を閉じて、眉をほんの数ミリだけ寄せた。


「……顔色、悪いですね」


 淡々とした、事実を述べるだけの声。

 けれど、そこには明らかな「違和感の指摘」が含まれていた。

 僕は心臓が跳ねるのを感じた。

 見透かされた。

 仮面の下の疲労を。

 焦燥を。

 

 いや、認めるわけにはいかない。

 ここで「実は仕事が辛くて」なんてこぼすのは、僕の流儀じゃない。他人になんて期待しない。同情なんていらない。

 僕は反射的に、口角を吊り上げた。

 いつもの、ノリと勢いの笑顔だ。


「あー、わかります? 昨日ちょっと夜更かししてゲームしすぎちゃって。全然余裕なんですけどね、眠くて眠くて」


 ペラペラと、軽い言葉が口をついて出る。


 嘘だ。


 ゲームなんてする気力もない。本当は胃がキリキリと痛んで、立っているのもやっとだ。

 でも、これでいい。

 笑ってごまかせば、相手もそれ以上踏み込んでこない。いつものように「そうですか」と流してくれるはずだ。

 しかし。

 彼女は流さなかった。

 僕のヘラヘラした笑顔を、じっと見つめている。

 その瞳は、僕の嘘を見抜いているようで、それでいて責めるわけでもなく、ただ静かな水面のように僕を映していた。

 居心地が悪い。

 何も言わないその視線が、どんな言葉よりも重たい。

 数秒の沈黙の後。

 彼女はふいに視線を外し、カバンの中から何かを取り出した。


「……これ」


 差し出されたのは、一粒のチョコレートだった。

 高価なものではない。コンビニで売っているような、ありふれたミルクチョコ。


「糖分。……頭痛に効くので」


 それだけ言うと、彼女はまた文庫本を開き、自分の世界に戻っていった。

 拒絶でもなく、過剰な干渉でもない。

 ただ、「そこに置いておくから」という程度の、ささやかな施し。

 僕は呆気にとられ、しばらくそのチョコを見つめていた。

 笑って断ることもできたはずだ。「甘いの苦手なんで」とか言って。

 でも、なぜかその時は、その小さな包みを突き返すことができなかった。


「……どうも」


 笑顔を作るのを忘れて、僕は短く礼を言った。

 包みを開けて口に放り込む。

 甘さが、疲れた脳に染み渡る。

 それは、僕が自分で築き上げた「大丈夫」というバリケードを、内側から少しだけ溶かしてしまうような、優しい味がした。

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