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あい。  作者: 黒猫
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第1章 梱包された優しさ

一人暮らしを始めて、一番最初に感動したのは「静寂」だった。

誰にも名前を呼ばれない。


何時に起きても、夕飯にスナック菓子を食べても、脱ぎ捨てた服が床に散らばっていても、誰にも文句を言われない。


その「無重力」のような生活が、僕はたまらなく好きだった。

けれど、そんな僕の浮遊感を邪魔するものが、定期的に届く。

実家からの段ボール箱だ。


部屋のチャイムが鳴り、運送業者から受け取ったそれは、ずしりと重かった。

宛名に書かれた母の丸文字を見るだけで、少しだけ胸が詰まるような、あるいは胃もたれするような気分になる。


ガムテープを剥がして中を開ける。

 隙間なく詰め込まれた米、カップ麺、近所のスーパーで安売りしていたであろうお菓子。そして、新聞紙に包まれた不格好な野菜たち。

一番上には、チラシの裏に書かれた手紙が一枚。


『ちゃんと食べてる? 風邪ひかないようにね』

「……コンビニあるし、いらないって言ったのに」


独り言は、誰の耳にも届かずに部屋の壁に吸い込まれる。

 スマホを見ると、母から「荷物届いた?」というLINEが来ていた。僕は既読をつけるのをためらい、画面を閉じる。

今の僕にとって、この箱の重さは「愛」ではない。「干渉」だ。

僕が欲しいのは、もっとスマートで、洗練された自由なのに。

野菜を包んでいた新聞紙からは、実家の匂いがした。雨と土と、古い畳の匂い。

 その懐かしさに胸が痛むのと同時に、どうしようもない面倒くささを感じて、僕は蓋を閉じた。

段ボール箱を部屋の隅に追いやり、ベッドに寝転がる。

スマートフォンをタップする。通知は、来ていない。

これが僕のデフォルトだ。

僕は元来、人付き合いが得意な方ではない。


 少人数ならそれなりに話せるが、大人数になると途端に口が重くなる。大勢の前でのスピーチなんて以ての外だ。

頭が真っ白になって、カンニングペーパーがあってもうまく言葉が出てこないだろう。

ただ、大勢の中に「紛れ込んでいる」のは嫌いじゃない。

会社や、満員電車、渋谷のスクランブル交差点。

 自分が「群衆の一部」というモブキャラになって、誰からも注目されずに流されていく感覚は、むしろ気楽で心地よかった。

 だから僕はいつだって、目立たないように、けれど孤立しないように、うまいこと空気を読んで生きてきた。


友達も多くはない。

高校時代の友人とは疎遠になり、今は会社で知り合った友人が一、二人いるだけだ。

ピロン、とスマホが鳴った。

入社同期で、唯一の友人と言えるケイからだ。


『今週末、飯でもどう? うまい焼肉屋見つけた』


僕は画面を見つめ、数秒考えてから『いいよ、空いてる』とだけ返した。

スタンプも絵文字もない、素っ気ない返信。

ケイはこうして定期的に誘ってくれる、貴重な友人だ。

正直言ってありがたいし、心の支えだとも思っている。

彼と会って、仕事の愚痴や馬鹿話、お互いの代わり映えのしない日常の話をすれば、救われる部分はある。

だが、そこにドラマはない。僕の孤独を根本から埋めるような劇的な救いもない。

ただの、ぬるま湯のような時間。それでも十分幸せだと思える。

僕はその「変わらなさ」に安堵しつつも、心のどこかで冷めた目を向けていた。


SNSを開くと、タイムラインには知らない誰かの「最高に幸せな瞬間」が流れてくる。

画面の中の人々は、発光しているかのように眩しい。


「……別に、羨ましくなんてないな」


僕は小さく呟いて、画面をスワイプした。

 嘘だ。本当は、自分がその輪に入れないことを知っているから、最初から「興味がないフリ」をしているだけだ。

 傷つかないための予防線。


僕には、この静かで、あまり干渉されない「低体温」な生活がお似合いなんだ。

そう自分に言い聞かせているのに、ふと視線を上げると、部屋の隅の段ボール箱が目に入る。

そして思う。

もし今、僕がこの部屋で倒れて動けなくなったとして。

誰が僕を見つけてくれるんだろう?

週末に会う約束をしたケイか? 遠く離れた母か?

いや、きっと誰も気づかない。

僕が築いてきた人間関係は、僕の命を繋ぎ止めるには、あまりにも細くて頼りない。

僕は言い知れない不安から逃げるように布団を被った。

さっさと寝てしまおう。

暗闇の中で、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。


     ***


そして週末。


「おー、来た来た。遅いぞ」

 

居酒屋の個室に入ると、すでに数人が集まっていた。

同じ会社の同期の面々ケイと別部署の友達2人。

友達は少ないが、こうして定期的に集まる程度の人間関係はある。


「わりぃ、電車遅れててさ。とりあえず生でいい?」


僕は軽口を叩きながら、空いている席に座る。

 人見知りだが、一度懐に入った相手や、こういう気心知れた場なら、それなりに「ノリ」で会話を回すことはできる。

深く考えず、勢いと条件反射で言葉を返す。それが僕の処世術だ。


「そういえばお前、最近どうなの? 彼女できた?」


友人の一人が、ニヤニヤしながら聞いてくる。


「いや、全然。てか出会いねーし。誰か紹介してくれよ」


僕は大げさに肩をすくめてみせる。

これは本心半分、その場のノリ半分だ。

彼女は欲しい。

人肌恋しい時もあるし、クリスマスやイベント毎に一人でいるのは普通に寂しい。

 でも、自分からガツガツいけるタイプじゃないし、マッチングアプリで知らない誰かと一から関係を築くのは億劫だ。

誰かいい子が空から降ってこないかな、くらいの適当な願望しかない。


スマホが震えた。

テーブルの下で画面を確認すると、母からのLINEだった。


『荷物届いた? 野菜いたむから早めに冷蔵庫入れてね。あと、ちゃんと湯船につかりなさいよ』


僕は小さく舌打ちしたくなるのを堪えて、画面を閉じる。

これだ。

この「心配」という名の過干渉。

別に悪気がないのはわかっている。

でも、こっちはもういい大人だ。風呂くらい自分で決めるし、野菜の管理くらいできる。


(期待も要望もしないでくれよ。こっちだって親に何も求めてないんだから)


他人に期待をしない。だから他人にも期待されたくない。

それが僕のスタンスだ。期待しなければ裏切られることもないし、腹も立たない。そうやって低空飛行で生きるのが、一番燃費がいい。


「おーい、聞いてるか? 合コンの話してんだけど」


「あ、悪い。聞いてる聞いてる。で、可愛い子くんの?」


僕は慌ててスマホをポケットに突っ込み、作り笑いを浮かべた。

気分の浮き沈みは激しい方だ。親からの連絡一つで、さっきまでの楽しい気分が少し冷めてしまった。

僕はグラスのビールを煽る。

冷たい液体が喉を通る時だけ、胸の奥のモヤモヤが少し晴れる気がした。


     ***


「じゃあな、また来月!」


「おう、お疲れー」


駅の改札前で手を振って、友人たちの背中が見えなくなった瞬間。

プツン、と何かのスイッチが切れた。

さっきまで顔に張り付いていた愛想笑いが、重力に負けて剥がれ落ちる。

急激な気分の降下が始まった。

 ジェットコースターの比じゃない。さっきまであんなに騒いでいたのに、今はもう、口を開くのも億劫だ。

アルコールのせいか、それとも無理をしてテンションを上げていた反動か。

 猛烈な疲れと、形容しがたい虚しさが津波のように押し寄せてきた。


(……何やってんだろ、俺)


 楽しかったはずだ。嘘じゃない。

 でも、その「楽しさ」は、その場限りの泡のようなものだ。家に帰ってシャワーを浴びれば、綺麗さっぱり消えてなくなる。

 後に残るのは、少しの頭痛と、減った財布の中身と、どうしようもない静寂だけ。

 帰ろう。

 そう思うのに、足が動かない。

 あのアパートの、シンとした部屋に帰りたくなかった。母からの未読のLINEが待っているだけの、あの箱に。


「すこし、寄り道しようかな」


 僕は人混みを避けるようにして、駅前のロータリーから少し外れたベンチに腰を下ろした。

 街灯が頼りなく点滅している。

 通り過ぎる人々は皆、誰かと電話をしていたり、早足で家路を急いでいたりする。彼らには帰るべき場所があり、待っている人がいるのだろうか。


 僕はポケットからスマホを取り出し、意味もなく画面を点灯させては、また消した。

 誰かに連絡したいわけじゃない。

 ただ、この広すぎる世界で、自分が一人ぼっちではないという証拠が欲しかっただけだ。

 けれど、誰に何を期待するでもない僕は、誰からも何も期待されていない。

 その事実が、今夜はやけに胸に刺さる。


「……はあ」


 重いため息をついて、顔を上げた時だった。

 視界の端に、誰かがいた。

 僕が座っているベンチの、反対側の端。

 いつからそこにいたんだろう。まったく気づかなかった。

 夜の闇に溶け込むような、暗い色のコートを着た女性。

 彼女はスマホを見るでもなく、本を読むでもなく、ただじっと、足元の缶コーヒーを見つめていた。

 この騒がしい駅前で、彼女の周りだけ、音が吸い込まれているみたいだった。

 まるで、世界の喧騒から切り離されたような静けさ。

 普段の僕なら、関わり合いにならないように視線を逸らすところだ。知らない人間なんて、背景の一部でしかない。


 でも、なぜか目が離せなかった。

 彼女が纏っている空気が、僕の抱えている虚無感と、どこか似ている気がしたからかもしれない。

 いや、違う。

 そこそこ美人だ、だがそこじゃない、どこかで見たような気がする、他人の空似か?

 彼女は、カメラを手に、何かをじっと考えているように見えた。


 不意に、彼女が顔を上げた。

 目が、合った。

 街灯の逆光で表情はよく見えない。

 けれど、その視線は真っ直ぐで、僕はとっさに逸らすことも忘れて、その場に縫い付けられたようになった。

 それが、僕と「君」との、最初の接触だった。


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