第10章 写真と空白
休日の外出は、基本的に「コスト」だ。
体力を消耗し、時間を浪費し、人混みで精神を摩耗する。
だから僕は、彼女から「写真が現像できたので会いませんか」と連絡が来た時、一度は既読スルーして寝たフリをしようかと考えた。
しかし、結局僕はここに来ている。
約束を破った後の言い訳を考える労力と、外出する労力を天秤にかけたら、後者の方がマシだっただけだ。決して、楽しみにしていたわけではない。……たぶん。
「お待たせしました」
カフェの席に着くと、彼女が分厚い封筒をテーブルに置いた。
中から出てきたのは、数十枚の写真たち。
独特の粒子感と、少しあせたような色合い。フィルムカメラ特有の質感だ。
「へえ……意外と、ちゃんと撮れてますね」
僕は素っ気ない感想を漏らしながら、写真を一枚ずつめくっていく。
公園のベンチ、野良猫、逆光の街路樹。
どれも静かで、彼女の視線そのもののように落ち着いている。
手が止まったのは、最後の方にあった一枚だ。
それは、カフェのテーブルを撮った写真だった。
向かいの席。誰も座っていない、空っぽの椅子。
その上に、飲みかけのコーヒーと、男性物の腕時計が置かれている。
まるで、さっきまでそこに誰かが座っていて、ちょっと席を外した瞬間を切り取ったような構図。
けれど、妙な違和感があった。
ピントが、その「腕時計」ではなく、その奥の「空席」の背もたれに合っているのだ。
不在を強調するような、寂しい写真。
「……これ」
僕が指差すと、彼女はああ、と短く声を漏らし、少し困ったように眉を下げた。
「失敗作です。捨てようと思ったんですけど」
「失敗? ブレてないし、綺麗に撮れてますけど」
「……構図が悪いです。主役がいないから」
彼女はコーヒーカップの縁を指でなぞりながら、独り言のように続けた。
「癖なんです。昔、よく彼を撮っていたから。……カメラを構えると、無意識にそこに誰かがいるつもりで、フレームを作ってしまう」
彼。
その単語が出た瞬間、僕の中で警戒アラートが鳴った。
(うわ、来た。過去の男の話)
これは一番「面倒くさい」パターンだ。
死別か、あるいは酷い別れか知らないが、他人の色恋沙汰の、しかも終わった話ほど対処に困るものはない。
ここで「何があったんですか?」と聞けば、長い身の上話が始まるだろう。そして僕は、聞き役としての適切な相槌と、同情の言葉を求められる。
冗談じゃない。僕はカウンセラーでもなければ、彼女の感傷を受け止めるゴミ箱でもない。
僕は写真をテーブルに戻し、話題を変えようとした。
しかし。
目の前の彼女が、泣きそうなのを必死に堪えて「笑おう」としている顔が、目に入ってしまった。
口角を無理やり上げて、でも目元が震えている。
(……チッ)
まただ。
見なきゃいいのに、気づいてしまう。
その歪な笑顔を見ていると、胸の奥がザラザラして、ひどく居心地が悪い。
このまま彼女を家に帰したら、彼女は一人で部屋に閉じこもって、この写真を見ながらメソメソするんだろうか。
それを想像すると、なぜか僕まで気分が悪くなる。
これは、僕の精神衛生上の問題だ。
僕は大きく溜息をつくと、その「空席の写真」を指先で弾いた。
「……確かに、構図が悪いですね」
僕がぶっきらぼうに言うと、彼女が驚いたように顔を上げた。
「バランスが悪すぎる。右側がスカスカだ。これじゃあ、見てる方が不安になります」
「え……」
「だから、次は僕を座らせてください」
彼女がポカンと口を開けた。
僕も、自分で言っていて耳が熱くなる。なんてキザなセリフだ。でも、もう引けない。僕はあくまで「評論家」のような顔をして畳み掛けた。
「誤解しないでくださいよ。慰めるつもりとか、代わりになりたいとか、そういう重たい話じゃないです」
僕はアイスコーヒーのストローをかき混ぜながら、早口で続ける。
「ただ、その『空白』を埋める被写体として、僕のサイズ感がちょうどいいなら、貸し出しますって言ってるんです。……せっかくのフィルムが、失敗作になるのは勿体ないでしょう」
合理的な理由付け。
「フィルムが勿体ないから」。
これなら、僕のスタンス(ケチで合理的)とも矛盾しない。
彼女はしばらく呆気にとられていたが、やがてプッ、と吹き出した。
涙を堪えていた顔が崩れ、クスクスという笑い声に変わる。
「……ふふ、あはは! なんですか、それ」
「笑うところじゃないです。こっちは真面目に写真の話をしてるんです」
「被写体の貸し出し、ですか。……ふふ、随分と捻くれたモデルさんですね」
彼女は目尻に浮かんだ涙を指で拭うと、柔らかく微笑んだ。
さっきまでの無理した笑顔ではない。力が抜けた、自然な表情。
それを見て、僕の胸のザラつきがスッと消えていく。
(……よし、これでいい)
面倒ごとは回避できた。
彼女の身の上話を聞くこともなく、泣かれることもなく、ただ「次の撮影」の約束にすり替えることができた。
我ながら、見事な危機管理能力だ。
「じゃあ、お願いします」
彼女はカメラを構える真似をして、片目をつぶった。
「次は、空白を作らないようにしますから。……逃げないでくださいね?」
「逃げませんよ。座ってるだけなら、疲れないし」
僕は澄まして答えた。
嘘だ。
本当は、その空白を埋めるのがどれだけ「重い」役目なのか、気づき始めている。
それでも、彼女が泣くよりはマシだと思ってしまう自分は、やっぱりどうしようもなく損な性格なのだ。




