第9章 変化
会社という組織は、鈍感な人間ほど生きやすいようにできている。
誰かが困っていても、気づかなければ手伝わなくて済む。空気が悪くても、感じなければストレスにならない。
その点、僕は損な性分だ。
僕は昔から、無駄に目がいい。
斜め前の席の後輩が、さっきから同じ資料を何度もめくって、冷や汗をかいていること。
その資料の数値が、先週の会議で変更になったことを彼が見落としていること。
全部、視界の端で見えてしまっている。
(……ああ、面倒くさい)
僕は心の中で盛大に溜息をつく。
ここで「そこ、間違ってるよ」と声をかけるのは簡単だ。
だが、声をかければ「ありがとうございます! ついでにここも教えてもらっていいですか?」と頼られる。そうなれば、僕の平和な定時退社は遠のくし、彼の「教育係」みたいな面倒なポジションを押し付けられかねない。
親切は、コストだ。
一度関われば、そこには「期待」という重たい利子がついてくる。
だから僕は、気づかないフリをしてモニターを見つめる。
放っておけばいい。いつか上司に怒られて、自分で学習するだろう。それが彼のためだ。
そう自分に言い聞かせて、イヤホンで耳を塞ごうとした。
――その野菜、泥がついてますか?
不意に、脳内で誰かの声が再生された。
あの非常階段の女だ。
最近、彼女のせいで調子が狂う。彼女は僕が「見ないようにしているコスト(手間)」を、さも大事な宝物のように拾い上げて見せるからだ。
(……チッ)
舌打ちが出た。
放置しようと決めたのに、一度「見えて」しまったものを無視し続けるのは、それはそれで寝覚めが悪い。
胃のあたりがモヤモヤする。この不快感を抱えたまま仕事をするほうが、結果的に生産性が下がる。
「……おい」
僕はイヤホンを乱雑に外し、椅子を蹴るように回して後輩を呼んだ。
後輩がビクリと肩を跳ねさせる。
「え、あ、はい! すみません、うるさかったですか?」
「違う。……お前さ、その参照データ、古いやつ見てるだろ」
「え?」
「サーバーの『2025_ver2』ってフォルダ見ろよ。先週更新されたやつだ」
後輩は慌ててマウスを操作し、そして顔を青くした。
「うわ、本当だ……! やばい、これ全部計算し直しじゃ……」
「関数入ってるから、数字入れ替えれば勝手に直る。……あと、そこの小計もズレてるから直せ」
ぶっきらぼうに指摘して、僕はさっさと背中を向けた。
後輩が背後で
「ありがとうございます! 助かりました!」
と何度もお辞儀をしている気配がする。
「……別に。目についただけだ」
僕は小声で呟く。
優しさなんかじゃない。これ以上、彼の焦る貧乏ゆすりを聞かされるのが鬱陶しかっただけだ。自分の快適さのための行動だ。
そうやって理由をつけないと、他人に関わる自分を許容できない。
***
昼休み。非常階段。
僕は缶コーヒーを開けながら、不機嫌に手すりに寄りかかった。
「……なんか、顔が怒ってますね」
彼女が文庫本から目を離さずに言う。
「怒ってませんよ。ただ、自分の損な性格に呆れてるだけです」
僕は事の顛末を話した。
後輩を助けたこと。でもそれは感謝されたかったわけじゃなく、ただ無視するのが気持ち悪かったからだということ。あくまで「自分のため」であることを強調して。
話し終えると、彼女はパタンと本を閉じた。
そして、困ったような、でもどこか嬉しそうな目で僕を見た。
「あなたは、本当にあまのじゃくですね」
「なんとでも」
「優しくするのが恥ずかしいからって、『面倒くさい』とか『自分のため』とか、いちいち言い訳のラッピングをしないと気が済まないんですか?」
図星を突かれて、僕はコーヒーでむせそうになった。
「……違いますよ。本当に面倒なんです。関わるとロクなことがない」
「そうですか? でも、その後輩さんは救われたし、あなたも無視し続ける罪悪感から救われた。……お互いの荷物を少し分け合っただけでしょう?」
荷物を分け合う。
彼女の言い回しは、いつだって綺麗事だ。でも、その綺麗事が、今の僕の胸には少しだけ痛い。
「……そういうの、重いって言うんですよ」
僕が憎まれ口を叩くと、彼女はふふっと笑った。
「重くていいじゃないですか。風で飛ばされなくて済みますよ」
彼女はそう言って、また本を開いた。
僕は反論する言葉を失い、苦いコーヒーを流し込む。
分かっている。
本当は、この「重さ」を心地よいと感じ始めている自分を。
でも、それを認めてしまったら、僕が今まで守ってきた「気楽な自分」が死んでしまいそうで、まだ素直にはなれなかった。




