闇の国
霧の奥にそびえる黒城──その向こうに闇帝が待っている。心臓が早鐘を打つ。だが私は一歩も退く気はなかった。霧を抜けた先に現れたのは、黒布に覆われた巨大な城。壁一面に縫い込まれた布の断片は、まるで人々の絶望を縫い合わせたかのようだった。近づくほどに胸の奥から冷たい糸が心臓を締めつける。
「これが闇帝の城なのか」
リュシアンが声を震わせた。城門が軋みを上げて開く。中から現れたのは、影布を纏った兵たち。虚ろな目、機械のような動き──人間としての意志をすでに奪われていた。
「行くぞ!」
オルガが剣を抜き、先陣を切る。広間に足を踏み入れると天井から垂れ下がる無数の黒糸が揺れていた。それらは人々の影を縫い止めており、呻き声が糸の奥から聞こえる。
「助けて……」
「縫い潰される……」
私は震える手で針を握った。
「……絶対に救います」
針先を走らせ、黒糸を裂く。途端に光が溢れ、縫い止められていた影が解き放たれた。人々の目に再び命の輝きが宿る。だがその瞬間、広間の奥から重々しい声が響いた。
「……無駄だ」
玉座に座る巨大な影が立ち上がる。それが、この世界を覆う黒幕──闇帝だった。全身は闇そのものを縫い合わせたかのようで、輪郭すら定まらない。だがその瞳だけは、赤黒く光を放ち、私を射抜いていた。
「布は希望など縫えぬ。繋ぎ直そうとも、必ずほつれ、影に沈む……お前の針も、やがて折れる」
私は震えながらも針を掲げた。
「布はほつれるからこそ、縫い直せるのです! 絶望すら布の一部にして、未来を描いてみせます!」
闇帝が低く笑う。
「──光布が闇布に勝てるものか!」
その言葉と共に、広間全体が影に覆われた。黒布が天井から降り注ぎ、私たちを飲み込もうとする。
「来るぞ!」
オルガが剣で影を斬る。だが斬ってもすぐに縫い直され、影は増殖するばかり。リュシアンの悲痛な声が響く。
「効かない。こいつは過去一厄介だな」
「闇布が全部、吸い込んで……」
私は針を振るうが、光はすぐに黒に染められて消えてしまう。まるでこの場そのものが巨大な布でできているかのようだった。そんな中、闇帝の声が轟く。
「人は皆、影を抱いている。それを縫い合わせたものがこの“闇布”だ。お前自身の影も──ここに縫い込まれている」
突如、足元に黒布が絡みつく。見下ろすとそこに浮かび上がったのは──妹ユリアの顔だった。
「お姉様……どうして私だけ……」
胸が締めつけられる。針を握る手が震え、声が出なくなる。
「……ユリア」
バーチェが叫んだ。
「お嬢、闇に呑まれるな!」
だが闇帝の声がそれをかき消す。
「抗えぬだろう。お前は縫う者である前に一人の人間……最も弱い縫い目から、布は破れるのだ」
胸の中に押し込めていた痛みが、黒布となって溢れ出す。針先からさえも闇が滴り落ちていた。
「私は」
その時──オルガが私の肩を強く掴んだ。
「ミアがここまで縫ってきたのは、希望だろ! お前の妹のことはよく知らない。だけどもこんな素敵なお前の妹がそれを望んでるはずだ」
リュシアンも叫ぶ。
「お前の布に救われた人を思い出せ! 光は確かに縫い込まれてきた!」
私は目を閉じ、震える胸に針を押し当てた。……そうだ。私は、何度も何度も、布を縫い直してきた。花の国でも、鉄の国でも、血の国でも。そのたびに人の笑顔を縫い込んできた。
「影を抱いているのは私も同じ。けれどだからこそ縫い直せる」
光が針先に灯り、黒布を押し返す。闇帝が低く唸る。
「ならば見せてみろ。光布が闇布を越えられるのか……!」
広間が震え、闇と光がぶつかり合った。決戦の幕が、ついに開かれたのだ。闇帝の咆哮が広間を揺るがした瞬間、天井から降り注ぐ黒布が一斉に広がり、私たちを包み込んだ。それはまるで奈落へ落ちるような闇。光も音も奪われ、針先の微かな輝きさえ掻き消されていく。
「オルガ! リュシアン! バーチェ様!」
声を上げても返事はなかった。暗闇の中でかすかな叫び声が響いた。
「ぐっ……! 糸が……!」
「助けて……!」
「苦しい」
伸ばした手が虚空を掴む。だが仲間の姿は見えず、ただ影の糸が彼らを絡め取っていく気配だけが伝わった。
「やめてっ!」
私は針を走らせ、光を放とうとした。だが次の瞬間、鋭い衝撃が針先を襲う。──パキン。甲高い音とともに私の針が折れた。
「……あ」
手の中に残ったのは根元だけの短い針。震える指先から、力が抜け落ちていく。
「見ろ」
闇帝の声が低く轟く。
「光布は脆い。繋ぎ直そうとも縫い目は必ず裂ける。お前の針は折れ、仲間は影に沈む。これが布の真実だ」
闇布の海にオルガたちの姿が沈んでいくのが見えた。
「二人共っ!」
必死に手を伸ばすが、指先は影に飲み込まれて届かない。
「どうして⁉」
声が震える。私はここまで布を縫い直してきた。花の国でも、鉄の国でも、血の国でも、炎の国でも。そのたびに人々は救われ、笑顔を取り戻してきた。……それなのに最も大切な仲間を救えないなんて。
「私は……失敗したの?」
折れた針を見つめ、膝が崩れ落ちる。涙が頬を伝い、布に染み込んでいく。闇帝の声が冷たく響いた。
「ようやく理解したか。布は絶望を縫い合わせるためにある。希望など、所詮は幻。お前も影の一部となるがいい」
黒布が押し寄せ、私の身体を包み込もうとする。視界が暗転し、息が詰まる。
「いや」
声は震え、掠れて消えていく。胸の奥の小さな光がいまにも潰えそうだった。──その時。闇の底から、かすかな声が響いた。
「……諦めないで」
はっとして顔を上げる。妹ユリアの声。それは影に縫い込まれて消えたはずの存在。
「お姉様の針は……まだ折れてなんかいない。光は心に縫い込まれてる」
折れた針の先が微かに光を帯びた。震える指先にまだ確かな温もりが残っている。私は涙を拭い、声を振り絞った。
「闇に呑まれてなんか……たまるものか!」
暗闇に沈む広間で、私は折れた針を握りしめていた。仲間は影布に絡め取られ、呻き声さえも遠のいていく。希望は消えかけ──いや、もう消えたと思った。だがその時、胸の奥で確かな響きがあった。──お姉様。再び妹ユリアの声。懐かしく、あたたかく、涙がこぼれるほどに優しい声。
「お姉さまが縫った布は、ずっと私の心に残ってる。光はなくならない。ほつれても、また縫い直せるの」
折れた針が微かに光を帯びる。私はそれを胸に当て、震える声で呟いた。
「そうよね、ユリア。布は何度だって縫い直せる。なら針だって……」
折れた針の破片が眩しく輝き、私の涙と混じり合う。そして──砕け散ったはずの針がひとつに繋がり、新たな形を成した。掌に残ったのはかつてよりも細く鋭く、そして温かな光を帯びた針。
「これは?」
「光針です」
ユリアの声が囁く。
「お姉様の心が縫い上げた、新しい針」
私は震える指でそれを握りしめた。
「……ありがとう、ユリア」
――闇帝の咆哮が響く。
「馬鹿なっ。折れた針が再び繋がるだと? 光は脆いはずだ!」
私は立ち上がり、光針を掲げた。
「光は脆くなんてありません。裂けても、折れても、何度でも縫い直せる! それこそが私の信じた、人の強さです」
針先から眩い光が溢れ、黒布を裂き始める。絡め取られていた仲間の身体が解放され、息を吹き返した。
「オルガ!」
「ミア……!」
「間に合ったぁ」
涙ぐむリュシアが私に駆け寄り、力強く頷いた。
「これが君の本当の針なんだね!」
バーチェもそこにかぶさる。
「お嬢、よくやったよ」
私は仲間たち――オルガ、リュシアン、バーチェと肩を並べ、光針を突き出した。
「行くわ。この針で闇布ごと縫い直してみせる!」
闇帝の影が蠢き、広間全体が震えた。
「来い……最後の縫い合いだ……」




