沈黙の国、クロフォニア
鏡の国を後にし、谷を抜けると、不気味な静けさが広がっていた。鳥のさえずりも風の唸りも聞こえない。まるで世界そのものが息を潜めているかのようだった。
「変ね。森の中なのに、虫の声一つしないなんて」
辺りを見回し手も特に何も変わったことはない。そのまま進み続けていくと、やがて視
界が開け、街が現れた。石畳の通り、木造の家々。人々は行き交っている。だが誰一人として声を発していなかった。口を開いても音が出ない。老女が孫を呼ぼうと口を動かしても、ただ沈黙が流れる。楽師が楽器を奏でても、指先は踊るのに音は響かない。
「声が……消えてる?」
オルガが顔を強張らせた。私はすぐに気づいた。人々の胸元に縫い込まれた布。そこには細かな刺繍で「音符」の模様が刻まれている。──音布。声や音を縫い込み、沈黙を強いる布だった。市場の一角で、一人の子どもが泣き叫んでいた。いや叫んでいるのに音が出ない。声を失ったその姿に、母親はただ抱きしめるしかなかった。その姿に胸が締めつけられる。
「……こんな布……許せないわ」
すると突然、街に鐘が鳴り響いた。唯一響くその音に、人々は一斉に跪いた。広場の舞台に現れたのは、この国を支配する「静帝」。漆黒の布を纏い、その布には無数の五線譜が縫い込まれている。
「音は混乱を生む。争いも嘆きもすべて声があるからこそ生まれる。沈黙こそが秩序、沈黙こそが安寧」
人々は沈黙のまま頷いた。反論する声はどこにも存在しない。私は一歩前に出て針を掲げた。
「間違っています、音は命。声は心。それを布で縫い潰すなんて──あってはならないことです!」
広場にざわめきが走った。久しく聞かれなかった「声」に、人々が驚いたのだ。静帝の瞳が細まり、冷ややかな声が響いた。
「異国の女。お前の声は不協和音だ。ならば次の祭で証明してみせよ。音布に沈黙を縫えるか、それとも己の声を失うか」
私は仲間たちを見回した。
「やってみせましょう。誰もが自由に歌える布をこの国に咲かせてみせます!」
音の国――ならぬ沈黙の国クロフォニアでは、月に一度「沈黙の祭」が行われる。広場に集まった群衆は誰一人声を発せず、舞台の上で静帝が布を掲げるのを待つ。それはこの国で唯一「音」が響く瞬間でもあった。祭の始まりを告げる鐘の音が鳴り響く。その余韻の中、中央に静帝が姿を現した。漆黒の衣の五線譜が風に揺れて力強く波打っている。
「音は我が布の中にのみ存在する。民は声を持たず、私の奏でる秩序に従えばよい」
静帝の指が布を弾いた。すると布の刺繍が震え、重低音の旋律が広場に轟いた。だがその音は、威圧と支配に満ちたものだった。群衆は沈黙のまま頭を垂れる。私は針を握り、胸を張って舞台に上がった。
「……布は支配のためではありません。声は奪うものではなく、共に響き合うものです!」
再び人々の前に「声」が響いた。静帝が冷たく言い放つ。
「ならば縫ってみせよ。沈黙を破る布を」
私は仲間と共に裂け布を広げた。オルガは拳を握り、リュシアンは震える手で音符の刺繍をなぞる。バーチェは私を見つめていた。
「ミア……できるの?」
「できますわ。必ず」
私は針を走らせた。布に糸を通し、音符を縫い込み、旋律を形にする。一針ごとに、微かな音が漏れ始めた。
「……ラ……」
それは最初かすかな囁きだった。だが縫い進めるごとに、声は大きくなり、旋律となって空気を震わせる。
「歌だ……!」
群衆が目を見開く。誰もが長らく忘れていた音──歌声。私は布を掲げた。それは「歌布」。声を封じるのではなく、心の旋律を響かせる布。布が光を放ち、広場に解き放たれた瞬間、人々の胸元の音布が震えた。
「……声が……出る……?」
老女が震える唇を開いた。
「おかえり……」
かすれた声が確かに響いた。孫が泣き声を上げ、母親が叫んだ。
「声だ、私の子の声が戻った!」
次々と人々の声が広場に溢れた。嗚咽も、笑い声も、歓声も。そのすべてが音楽のように重なり合った。静帝の顔が怒りに歪む。
「黙れ! 沈黙を乱す者は不要だ!」
彼が布を振り下ろし、轟音が広場を圧した。だがその音は恐怖ではなく、逆に人々の歌声にかき消された。私は針を突き立て、叫んだ。
「声を縫い潰す布に未来はありません! 私は響き合う布をこの国に咲かせます!」
針が閃き、静帝の布を裂いた。五線譜がほどけ、音が霧散する。広場に歌声が広がった。初めは不協和音だったが、やがて一つの合唱となる。人々が互いに声を重ね合い、涙と共に歌った。私は針を胸に抱き、目を閉じた。
「これこそ……声の布……」
こうして音の国は、沈黙から解放された。人々は再び歌い、語り合い、笑い合う。布は声を奪うのではなく、響きを重ねるためにある、そう広まっていった。私は深く息を吸い、仲間たち――オルガ、リュシアン、バーチェに告げた。
「次は“血の国”。布に血を縫い込み、生死を支配する文化。それすらも、この針で縫い直してみせる。さぁ、ともに血の国へ」




