鏡の国、ミラージュ
花の国を離れた私たちは、山間の霧に包まれた谷を抜けた。そこに広がるのは――「鏡の国」ミラージュ。街の建物はすべて磨かれた鏡面で覆われ、昼は太陽を、夜は月を映し続けていた。人々の衣もまた、鏡片を織り込んだ「幻布」で作られている。幻布は着る者を最も美しく映し出すという。だがその美は、現実ではなかった。
広場に足を踏み入れると住民たちが幻布を誇らしげに広げていた。皺だらけの老人も幻布の中では若々しい姿。病に侵された者も幻布を纏えば健やかな美貌に変わる。
「ほら、私こそ真の美だ!」
「幻布を持たぬ者など、この国に存在する資格はない」
幻布を着られない貧しい者たちは隅に追いやられ、布切れで顔を隠していた。人々は幻布に映る「虚飾の美」に酔いしれ、現実の姿を忘れていた。私は震える声で呟いた。
「……これは、美ではありませんわ。幻布が映しているのは“幻”──虚構にすぎません」
すると一人の男が笑った。
「どうだ、異国の女よ。お前も試してみるがいい。その醜い体も幻布を纏えば女王のように美しく映るはずだ」
差し出された幻布に私は思わず触れてしまった。すると──鏡に映る自分が変わっていった。痩せ細った顎、透き通るような肌、輝く瞳。そこにいたのは、転生前のデザイナー・那月美編の姿だった。
「これが……私……?」
胸が締めつけられる。かつての私。美しく、尊敬され、羨望の眼差しを浴びていた頃の私。周囲がどよめいた。
「なんて美しい!」
「やはり幻布を纏えば、誰もが女王のようだ!」
オルガが眉をひそめ、私の肩を掴んだ。
「やめろ、ミア。それは本当のお前じゃない」
「……でも……!」
私は揺れていた。幻布に映る姿は、ずっと望んでいた自分。太った体も荒れた肌も、もう誰にも笑われない。その時、バーチェの声が聞こえた。
「目ぇ覚ましなさい! あんたは誰の幻でもない、あんた自身で針を持って戦ってきたんだろ!」
そうして幻布は粉々に砕け、虚像が消える。再び映ったのは──太った今の私。人々の視線が一斉に冷ややかになった。
「醜い……」
「やはり幻布なしでは生きられぬ!」
私は唇を噛みしめた。その瞬間、街の奥から低い声が響いた。
「幻こそが真実。真実こそが幻」
現れたのは鏡の国の支配者──「幻帝」。全身を幻布で包み、姿は絶え間なく変化していた。若者に、老人に、男に女に。誰もが見たい姿を自在に映し出す存在。
「人は皆、幻を求める。幻布は願いを叶え、苦しみを消す。それを否定するというのか? お前にその権利があるのか」
私は針を握り、幻帝を見据えた。
「幻は一瞬の安らぎかもしれません。けれど……幻の中では誰も本当には救われない。私は幻を裂き、真実を縫い直します!」
群衆が信じられないという顔でこちらを見つめる。幻帝の瞳が妖しく輝く。──鏡の国での試練が始まろうとしていた。幻帝が群衆の前に立った。彼の纏う幻布は絶え間なく形を変え、男にも女にも、子供にも老人にも映る。誰もが望む「理想の姿」を瞬時に映し出すのだ。観客たちは息を呑み、憧憬と狂気の入り混じった眼差しで彼を見つめていた。
「これこそ……美だ……!」
「幻布さえあれば、苦しみも老いも消える」
──その幻想に酔いしれる群衆の姿はあまりに痛ましかった。幻帝は私を見下ろし、声を響かせた。
「異国の女よ。幻を否定するならば、この場で証明してみせよ。幻布を超える美を、この民に見せられるのか?」
私は針を握りしめ、深呼吸した。
「幻は安らぎを与えるかもしれません。ですがそれは、現実を見なくていいという免罪符にすぎません。人は幻では生きられないはずです」
幻帝が布を広げる。すると広場全体が鏡に変わり、人々の幻影が映し出された。皺のない顔、理想の体、誰もが夢見る美貌。幻影の中で人々は歓喜し涙を流す。
「私は……若い……!」
「私は……愛されている!」
だが次の瞬間、幻が途切れると彼らは現実の自分を目にし、絶望の叫びを上げた。
「戻してくれ……!」
「幻を……幻を!」
その惨状に、私は心を震わせた。
「……これは救いではありません。ただ心を蝕む毒!」
私は布を広げ、針を走らせた。縫い上げるのは「ありのままを受け入れる布」。皺も、傷も、太った体も、そのままの姿を織り込み、そこに花を咲かせていく。布が光を帯び、群衆を包んだ。鏡に映った人々の姿が変わっていく。幻の美ではなく、現実の姿。だが布に咲く花々が、それぞれを優しく照らし出す。老いた顔にも、病んだ体にも、小さな美が確かに宿っていた。
「……こんな私でも……美しいのか?」
「皺も……花になる……?」
群衆が涙を流し、互いを抱き合った。幻帝の瞳に焦りが浮かぶ。
「馬鹿な……! 幻を失った人間が、なぜ笑える! 真実は醜悪でしかないはずだ! こんなものただの虚構だ」
「違います!」
私は針を振りかざし、幻帝の布に突き立てた。
「真実の中にこそ、本当の美はあるのです!」
針が閃き、幻帝の布を裂いた。虚飾の層が崩れ落ち、現れたのは痩せ細り、醜く歪んだ男の姿。群衆が息を呑む。だが私は彼を指差さず静かに布を広げた。
「幻で飾らなくても、あなたの布もまた咲かせられるのです」
裂けた布の端に針を通し、小さな花を縫い咲かせる。その瞬間、幻帝の目から涙が零れた。
「……私は……恐れていたのだ……。幻を失えば、誰からも愛されぬと……」
「幻にすがる限り、誰も愛せません。けれど真実の布は、互いを照らし合うのです」
広場に歓声が巻き起こった。
「幻などいらない!」
「私たちはこのままで咲ける!」
人々は幻布を脱ぎ捨て、現実の布に花を咲かせ合った。こうして鏡の国から幻布は消え、真実を受け入れる布が広がった。私は針を胸に抱き、深く息をついた。オルガとリュシアン、バーチェと肩を並べ、空を見上げた。
「……次は、“音の国”ね。布に音を縫い込み、沈黙を強いる文化。その布すら調べを変えてみせる」
「ミアとどこまでも行こう」
「あぁ、もちろんだ」
「さぁ、お嬢どんどん行くんだよ」
その日の空は美しく、次の国に移るまでしばし物思いに耽っていた。




