小さな勝利と大きな波紋
工房作りは言葉以上に手を動かす作業だった。まずは床の掃除。煤と破片を払い、腐った木板を抜いてはめ直す。バーチェの荒い笑い声と、オルガの静かな励ましが交互に響く。日が差し込むようになると、倉庫は以前よりずっと温かい。壁には古い布を裂いてつくったタペストリーを吊るした。色は地味でも、そこに描かれた小さな模様に、町に生きる人々の記憶を織り込んだ。私は針で一針ずつ、民の願いを縫い付けていった。
「ここは、見せるための舞台ではない。手を汚して恥を知る。でもそれ以上に笑顔を作る場所にする」
その言葉通り、私は工房を「公共のアトリエ」として開放した。灰になった私のアトリエよりもっとずっと明るい光が差し込む場所だった。
アトリエを解放した初日、三人の者が来た。一人目は鍛冶屋の娘で手先が器用だが裁縫は素人の女性。二人目は街頭で布を売る老人。三人目は小さな盗みを働いていたらしい薄汚れた少年で、その瞳には怒りと飢えと小さな希望が混ざっていた。彼らに私はまず布の扱い方と簡単な縫い方を教えた。針の持ち方、糸の撚り方、最初の玉留め——そうした基礎の悦びを分け与えた。
「こんなに……手が震えるほど嬉しいとは思わなかった」
老人は涙をぬぐいながら、ぎこちない手つきでのみみずくの模様を縫った。少年は最初はそっぽを向いていたが、次第に針先に集中するようになり、終わる頃には小さな作品を抱えていた。彼らの顔が変わる。布の数は同じでも、手で造形することで「私たちは変われる」という実感が生まれる。これこそ私が欲しかった革命の実像だった。並行して私は街頭ショーと名付けた公開ワークショップを行った。王都の中央広場では毎週市場が開く。そこに座り、切れ端を渡しては短時間で服を作る実演を見せる。子どもたちが集まり、老婆が口を開け、職人が眉を上げる。
ある日、年季の入った裁判所職員が興味深そうに近づいてきた。彼は無口でだが目の奥に深い疲れが刻まれていた。私は彼に簡単な肩当ての作り方を教え、彼は不器用ながらも真剣に手を動かした。夕暮れ、彼は出来上がった品を戸惑いながらも胸に当て、ぽつりと言った。
「これで少しだけ仕事が楽になりそうだ」
それから数週間後、その職員は微笑んで私の工房を訪ねた。小さな恩返しのように、彼は法の書類を一枚差し出す。そこには公衆の集会を保護するための暫定的な許可書が記されていた。彼は言った。
「民が集まるなら、命を危険に晒す必要はない。行政の側でもできることがある」
それは小さな勝利だった。民が手を動かすだけではなく、制度の片隅からも援助が差し伸べられる。そうして私たちの輪は少しずつ大きくなっていった。しかし革命が大きくなるほど、攻撃は激しくなるものだ。
ある朝、工房の前に黒い封筒が置かれていた。封筒の中には、燃え盛る工房の夜と同じような、冷たい脅迫文。しかも最後には「あなたの近しい者——傷ついてもいいか」とだけ書かれていた。受け取った瞬間、私の胃が縮んだ。
「これは……」
バーチェが低く呟く。オルガは拳を固く握り、顔を青ざめさせた。私は封筒を破り捨て、笑った。
「脅し文句で涙を見せるほど私は弱くない。だが……」
私は言葉を区切り、皆の顔を見回した。
「誰も傷つけさせはしません。私が守ります。皆を巻き込むわけにはいかない」
その夜、私は夜通しでバリケードや避難経路の準備をした。民のために作った場が民を危険に晒すことだけは絶対に避けたかった。私は時間を忘れて日々せわしなく働いていた。この世界のため、そして自分のためにも。恋はそんな過酷な日常にも静かに根を張っていった。オルガは夜中に消毒した布で私の傷を包んでくれる。彼の指先の温もりが、いつもより長く私の手の甲に残る。言葉は少ないが、示してくれる行動は雄弁だった。
「ミア、無理するな。本当に無理すんなよ」
ただそれだけ彼は言う。対してリュシアンは、都会の夜に私を連れ出し、高い塔の上から王都を見せてくれた。街の光は綺羅星のように広がっている。彼は静かに言った。
「君がここまで来るとは思わなかった。僕は組合を背負っている立場だ。しかし君の針は僕の心を揺らした」
彼の言葉は私の胸を掻き乱した。冷たさと熱を併せ持つその眼差しに私は幾度となく揺れた。だが選ぶのは理性ではなく今は使命だ。私は二人に対し、曖昧に微笑むことでしか応えられなかった。
ある晩、工房の若い仲間の一人が少年ユウのことを私に打ち明けた。彼はかつて組合の仕立て屋に雇われていたが、待遇の悪さから逃げ出して以来、盗みを働いて食いつないでいたという。だが最近「彼の師匠」になぞらえた男から連絡が来て、再び組合の回し者として利用されているらしい。
「ミア様、本当に手伝ってくれるんですか?」
男は問い詰めるように言った。
「もちろんよ」
私は即答する。針を握る手に力が籠る。
「なら、一緒に来てください。ユウがあの男に連れていかれてしまいます」
私は躊躇わなかった。夜の闇に紛れて工房の数名と共にユウの師匠の住処へ向かった。そこは薄暗い裏通り、古い裏口から男たちが抜け出す姿が見えた。私は針箱を握りしめ、静かに扉を開けた。中では組合の手先らしき者がユウを脅していた。言葉は荒く、力は強い。だが私が針を掲げて入っただけで、空気が張りつめる。組合の手先は嘲笑うように言った。
「ミアという女か。こんな所まで出てくるとはご苦労なことだ。そうだ、お前が仲間になれば命は助けてやるぞ」
私は一歩も引かなかった。針先が月光を受けてきらりと光る。
「私の仲間は売り物ではありません。まして私があなたと手を組むことも今はないのです。ですが――」
私達は長い交渉を持ちかけた。最初は首を横に振るばかりだった男たちも、長きにわたる説得でついにその首を縦に振った。そして最後には、ユウは私たちの腕の中に戻った。帰り道、彼は小さな声で言った。
「ありがとう。俺、もう二度とあんなことはしない。ここでちゃんと縫い物を覚えて誰かのために作りたい」
その言葉を聞いたとき、胸の奥にこみ上げるものがあった。ここにいる一人の人生が私の針で織り直されていく。……私の求めていた革命の姿だ。
だが黒幕は焦っていた。彼らは私の影響力が拡大するたび、より露骨に動き出した。市場での横流しの花嫁布には毒が混ぜられ、貧しい村で配られた支援布には品質不正があった。民の間に不安を撒き散らし、私の信用を削ごうとしているのだ。私はもう逃げ隠れはしないと決めていた。工房の扉を大きく開け、公衆の縫製講座を毎朝開くことにした。最初は十人、次には三十人、やがては百人の列ができた。彼らが自分で服を作る姿は奇跡のようで、眼差しは誇らしげだった。リュシアンはその様子を遠くから見ていた。ある夕暮れ、彼は工房の前に佇み、私にこう言った。
「君はいつも針先で人の心を打つ。僕はそれが怖いんだ。組合を守る者とし、守るべきものを壊すかもしれない恐怖がある」
私はゆっくりと答えた。
「リュシアン、私は舞台で勝っても力が欲しいとは思わない。私が欲しいのは共に作る人。あなたもいつか針を持ってみるのはいかが?」
その提案に彼は顔を変えた。言葉に詰まり、やがて彼は視線を外して去って行った。彼の胸の中の葛藤は、革命の隙間に新たな波紋を刻んでいった。




