私は那月美編、デザイナーよ
――音が消えていく。ミシンの針が止まった瞬間、静寂が降りた。天井のシャンデリアが細かく震える糸を照らしていた。その光がまるで血管のように私の指先を包む。深呼吸をする。震える胸の奥に鈍い痛みが広がる。
「……まだ少しだけ」
針をもう一度落とす。糸が走るたび、痛みが遠ざかる気がした。それが錯覚だと知りながらも止められなかった。
私は那月美編。母は伝説と呼ばれたブランド〈ナ・ルナ〉の創始者。父は服飾財閥の会長で冷徹なまでに完璧を求める男だった。
「那月の名を継ぐなら、一秒たりとも美を妥協するな」
その言葉は十歳の誕生日ケーキよりも鮮明に覚えている。完璧が私の義務であり、美は正義だった。美しいものを生み出すためにはどんな制限もいとわない。そんな両親に育てられた私はいつの間にか大事な何かを成長過程に落としてきたのかもしれない。それでもデザインは好きだった。ドレスの構造を想像するたび、心がほどけていく。誰かの心を包む布。私にとってそれは自由の形そのものだった。だが現実は違う。
「ミア様、この線ではパターンが立ちません」
「ここの角度が一度ほどずれています」
アシスタントの冷静な声。私は笑って返す。
「……いいの。見た目が完璧なら、形はあとで追いつくわ」
その瞬間、空気が少しだけ冷えた。お抱えのパタンナー、アリサは眉をひそめたまま言った。
「見た目のために着心地を捨てるんですか?」
私は答えられなかった。正しいのはきっとアリサの方。だけど父と母が教えた正しさは違う。美しくなければ、生み出す価値はない――その声が耳の奥でこだまする。
「……もう帰っていいわ、アリサ」
アリサは黙ってうなずき、去っていった。その背中を見送りながら、私は胸の奥の痛みを押さえた。
夜更け。窓の外では雨が降り始めていた。アトリエの中は照明だけが灯り、壁に貼られたドレスの設計図が、まるで祈りのように整然と並んでいる。机の上には完成間近のドレス。“女神の羽衣”と呼ばれる特注生地を使用した、世界的な祭典のトリを飾る衣装。時に吐血することもあった。私はその症状に覚えがあった。数年前、双子の妹ユリアの命を奪った病。天才と呼ばれる私より確実に才能があった。彼女こそ、本来このブランドを継ぐはずだった後継者。だから妹の分まで結果を残そうと必死だった。両親の厳しい教育も妹に代わるためには必要だと本気で信じた。……このドレスを縫い終えるまで、倒れるわけにはいかない。
「ミア、また徹夜なの?」
ドアの向こうから聞こえたのは、母の声。昼間なら、決して現れない時間帯。
「あと少しで完成なの」
「そんな顔で“美”を創る資格があるのかしら」
鋭い声。振り返れば、母の表情は相変わらず完璧だった。鏡のような笑顔。その奥に何も映さない瞳。
「あなたは、私の後継者なの。弱さを見せた瞬間にブランドが死ぬわ」
「でも――」
「いいえ、言い訳はいらない。あなたが作る服はいつだって愛が足りないのよ。ユリアなら」
その言葉が心臓を貫いた。母はハッとして口をつぐんだ。その後に何を言おうとしたかなど誰でもわかることだ。私はまだ妹には遠く及ばないのだろう。母が去った後、私は糸を握りしめた。……愛が足りない? 私は誰よりも服を愛してきたのに。
それでも母の目には足りないと映る。きっと私は、“誰かを愛する方法”を知らないんだ。針を進めながら、涙が一滴布の上に落ちた。染み込んだ涙が銀糸の光を歪ませる。そして痛み。鋭い衝撃が喉の奥を走った。
「……っ、はぁ……」
指先が震え、視界が滲む。布の上に赤い染みが広がった。それが血だと気づいた瞬間、息が詰まった。
「大丈夫、大丈夫……終わるまで……」
それでも針を止めなかった。止めたら何かが壊れてしまう気がした。このドレスを完成させるまでは、倒れるわけにはいかない。その決意は固かった。私は机に突っ伏しながら、震える指で糸を通した。息が乱れて視界が白く霞む。脳の奥が焼けるように痛い。それでも縫う。父の言葉、母の笑顔、妹の存在。そしてブランドを背負う重み。全部を思い出して針を走らせる。
「これが……私の、生き方……」
ドレスの裾が完成した瞬間、視界が真っ暗になった。“美しい”を創りたくて“愛されたい”と言えなかった人生。最後に描いたのはみんなに愛されるデザイナーになる夢。ブランドを守るために生きてきたはずの私は――。
――夢を見ていた。広い庭園の真ん中で、母がドレスを着て踊っている。風が吹くたび、裾が光をまとって揺れた。あの頃の母は世界でいちばん美しく、私の中での美の神様だった。どんな宝石よりも母の笑顔が輝いていた。私はまだ小さくて庭の片隅で古いカーテンを切っていた。
「ミア、それは何をしているの?」
母の声に驚いてはさみを隠した。でも母は怒らなかった。ただ少しため息をついて微笑んだ。
「あなたもドレスを作りたいの?」
こくりとうなずくと、母は膝をついて私の髪を撫でた。
「ミア、服は夢よ。夢を汚すことは許されないの。だからこの言葉だけは覚えていてちょうだいね」
その言葉が幼い心に深く刺さった。――夢を汚してはいけない。だから泣くことも、怒ることも決して見せなかった。汚れを嫌う母の視線を怖いほど覚えていたから。
――十七歳の誕生日。父の主催するパーティーで私の初めてのデザインが披露された。その瞬間会場がどよめいた。
「やはり那月家の娘だ」
「才能がある」
「母親を超えるかもしれない」
歓声の裏で、私の耳に届いた小さな囁き。
「けれど彼女の亡くなった妹には敵わないものだ」
その言葉に私は笑ってグラスを手にした。炭酸水の泡が弾けて胸の奥が痛くなった。アトリエの仲間たちも最初は尊敬してくれていた。だが次第に距離が生まれた。そしてその距離が縮むことは最後までなかった。
「ミア様は怖い」
「ユリア様の方が優しかった」
そんな噂が耳に入るたび、私は笑顔を作った。何を言われてもブランドを守ることができる私でいればいい。その仮面を外す方法を誰も教えてくれなかったから。
「ミア様、休憩を」
アシスタントのアリサが心配そうに差し出した紅茶を私は手で制した。
「いらないわ。いま止めたら感覚が鈍るもの」
彼女の眉が動いた。
「……あなた、本当に倒れますよ」
その言葉の本当にが、なぜか優しくて胸が詰まった。その優しを受け取る覚悟のない私は線を逸らした。
「あなたは優しすぎるわ、アリサ。優しさではブランドは守れないの」
アリサは何も言わずに出ていった。扉が閉まった瞬間、静寂が落ちた。針の音だけが私の呼吸を刻む。まるで命の鼓動みたいに。
夜が更け、雨が強くなっていく。窓の外、ネオンが滲む。東京の街がまるで涙で濡れているようだった。机の上には最後の一着。世界的なファッションショー〈Le monde du rêve〉。私はそのショーで最終のトリを任されていた。この仕事を終えたら少し休もう。そう思いながら一針一針を通していった。だが針穴に金糸を通す指が震える。血の気が引いていくのを感じる。
「……いける。あと少し……」
スカートの裾を縫い上げながら、遠くで鳴る時計の針の音を聞いた。――チク、タク、チク、タク。それが、まるでミシンの針音に重なって聞こえた。気が付けば誰もいなかった。深夜三時。アトリエには針と糸の音だけ。壁一面に貼られたデザイン画が風で揺れている。指先の感覚が薄れていく。頭の奥がぼんやりと霞んでいくのがわかった。でも止まらなかった。
「これを仕上げたら、母に褒めてもらえるかもしれない……。父に初めてよくやったって言ってもらえるかもしれないから」
そんな子どもじみた願いが、なぜかこの瞬間だけは痛いほど本気だった。私はただ“愛されたい”だけだった。指が滑った。針が刺さり、血が滲んだ。布の上に赤い染みが広がる。それでも縫い続けた。布を汚すなと教えられたのに。それでも今だけは構わなかった。なぜならもう二度とこんなに熱く縫える気がしなかったから。ふいに視界が揺れる。机の上の照明が滲んで、形を失っていく。足元が崩れた。咳き込み、喉の奥から鉄の味が広がる。
「……まだ……」
立ち上がろうとするが力が入らない。椅子が倒れ、ガラスの音が響いた。壁に飾ってあったドレスのパターンがふわりと落ちる。まるで雪が降るようだった。
“ミア、完璧なものを作りなさい。”
“あなたの生き方も完璧でありなさい”
“少しでも美を揺るがすことがあってはならないわ”
頭の中で、母の声が響く。父の冷たい眼差しが浮かぶ。それでも私は――。
「本当はね。少しでいいから私だって愛されたかった……ユリアみたいに。みんなに認めてもらいたかったの」
その言葉を最後に視界が音もなく白に染まった。静寂の中で最後に見たのは、完成したドレスだった。真っ白な布地。光の角度によって七色に変わる生地。スカートの裾にたった一滴の赤が滲んでいる。それは、まるで“命”のように、この世界に残された唯一の私の証だった。 ――ブランドを守るのに必死で、私は誰かを愛せたのだろうか。そんな問いを抱えたまま意識は静かに、針の音とともに沈んでいった。




