下手くそ
「楽しかった」
「おぅ、今日もありがとうな」
お互いのバイオリンをとんっとぶつけて、お互いに敬意を示す。
こんな挨拶もゲームならではの挨拶だろう。現実でこんな挨拶をしたら…なんて思う灰色のセーターの人を後ろに、アルトはまた何かを感じたように、耳をぴょこぴょことしていた。
彼女は人間ではない。このゲームの、サウンド・ガーデンに住まう住民。いわゆる、NPC。
「もう行くの?」
「うん。ばいばい」
挨拶も適当に、振り向きもせず、アルトは好きな音がする方へと一歩一歩近づいていく。
先程の演奏とはかけ離れた途切れ途切れで、音楽と呼ぶには恥ずかしいくらいの、それでいて……歩き始めた楽しさが込められた、そんな演奏が響いていた。
とても自惚れた演奏だ。
楽しいのだろう。
アルトはそっと近づいて、演奏のするところを見る。
そこには初心者らしく、ピアノの前で右手だけを震わせる人がいた。
初めてのピアノを触ったかのような、熱々と火照った顔がとてもお似合いの、小さい人だった。
まだ未成年だろう。リアルでは楽器なんて、場所などの問題で買う事も許されなかったに違いない。ここに流れ込む人はほとんどがそうなんだから。
「ん……これ、か?」
一生懸命に、その人は音を探していた。
きちんとした譜面は持っているものの、読み方が全くわからないみたいで、ただ頭の中に漂う音を弾くばかりの人に、アルトは少し笑ってしまった。
わたしみたい。
音楽を学び始めた頃の自分を思い出して、ついつい、微笑んでしまう。
人であろうと人ではないであろうと、音楽への一歩を踏み出した瞬間はとても微笑ましいものだ。
だけども、やっぱり下手くそなのは変わらない事実で、楽しさだけが先走ってリズムも音程も、響く音もバラバラだった。
でも楽しそうに、しかめっ面で、音を一つ一つ拾い、響け、場を和ませる。
音が発せられる度に周りの草むらはそよそよと体を揺らし、木々はさらさらと舞い踊る。
轟く音は日差しを強く含んでいて、不器用でも優しく、辺りを照らしていた。
ちょっとだけ練習すればきっと、この人は上手くなるはずだ。そんな予感がする演奏だった。
いや、演奏と言うにはまだ程遠いけれども。
アルトは、そっと近づいて肩に手を置いた。
「教えてあげる」
「へっ?あ?えっ?誰…?」
困惑する人の顔は全無視で、アルトは右手を握って、音を鳴らす。ファの音。
「ちゃんと覚えるのよ?」
「え、いや、えぇっ」
答えも、挨拶もせず、アルト達の右手はピアノの上を滑り始める。この人が弾きたがる音楽を目指して、するすると指は動く。
右手だけの、メインのメロディー。
両足で立ち、真っ直ぐに前に進む音。それでも、足りないものはたくさんあってて。
足元がふらふらし、進むはするものの、左右にゆらゆらと不安定で仕方が無い。
だから、アルトはそっと左手を加える。
「ゎ……」
音が一気に均等さを増す。
途切れ途切れで、転んでも前だけに進んでいた音は一瞬に消え失せ、ふらふらする事を勢いに変えて前に突き進む。
下手な技術を勢いで誤魔化すとも言えるだろうが、今はこれが一番だった。
「…、あははっ」
転びそうで危ういからこそ、始まったばかりのこの人はより楽しく、深く音楽に耽ける。
初めて自転車に乗った時のような、転びそうな危うさ。前に進んでいる事への嬉しさ。
顔を撫でる風の涼しさ。
止める事を思うと一瞬、躊躇いはするものの、風を切り裂く心地良さに全てを忘れて前に進むが如く。演奏は次々と紡がれる。
楽しそうね。
アルトも一緒に、その自転車に乗っていた。共に楽しみ、一緒に風を分けて、真っ直ぐ。
「ふふ、楽しかった?」
やがて曲は終わりに迎え、徐々にスピードを落とす。でも、ふらふらはせず。
しっかりと立ち止まる。
「次は、一人でも弾けるようになるのよ?下手くそ君。あなたが上手になったらまた来るから」
そう言い残し、アルト立ち去った。
残された人は呆然と、アルトに握られた手を眺めるばかり。




