愛なき結婚に花を飾ろう
※戦争の描写があります。
苦手な方はご注意ください。
ひとつひとつ、小さな磁石を布で包んでいく。
愛なき私達の結婚生活を、花で飾る為に────
***
「貴女を愛することはないかもしれません。この先、ずっと」
結婚式を挙げたその日。二人きりになった部屋で、私は夫からそう告げられた。
「そう……ですか」
としか答えられなかった。元々親が決めた結婚だったし、愛がないことの何が結婚生活に影響するのか、よく分からなかったから。
夫を支え、子を生み、家を守ること。それが妻の使命であると女学校で学んだが、異性への愛が何たるかは誰も教えてくれなかった。
両親や友人を想う気持ちと同じなのか、それとも、同じであってはいけないものか……
そんなことを考えている内に、初夜は滞りなく終わったらしい。優しかったし、労ってくれたし、お布団もふかふかだった。
この行為に愛は必要ない。愛がなくても子は授かる。そう分かって、とりあえずホッとしたのを覚えている。
夫は私より八つ年上で、磁石を装飾品の留め具に加工する職人だった。曾祖父の代から受け継ぐ技で生み出される品は、今や王族や高位貴族に愛される一級品だ。
暮らしにはゆとりがあり、工房の付いた広い家は、実家よりもずっと立派で手入れが行き届いている。使用人達も親切で、まだ十八歳だった私を女主人として敬い、丁寧に家の仕事を教えてくれた。
夫との関係も特に問題はなかったように思う。
一日のほとんどは工房にこもりきりだが、朝昼晩の三食とおやつは一緒に摂ってくれた。お互い口数はあまり多くないし、今日のお天気とか家のこととか、他愛ない会話だったけれど。無理に話題を探したりしなくても、心地好く過ごせた。
用事で街へ出る時は必ず誘ってくれて、一緒に買い物をしたり、公園を散歩したりもする。
寝室も一緒だし、夫の肌は何度重ねても優しい。
だけど────
三年が経っても、子どもを授かることはなかった。
やはり愛がないからだろうか……
医師や使用人の助言どおり、身体を温めたり食生活に気を付けながらも、内心ではそう考えていた。
その内、夫との食事は一日三回から一回になり、おやつは工房に運んだ。どこかへ出掛けることはもちろん、家の庭すら散歩することも、一緒に寝ることもなくなった。
……正確には、一緒に寝てはいるけれど。「これからは先に休みなさい」と言われて以来、夫がいつベッドに入って、いつ出ていくのか曖昧だった。
元々存在しない愛がなくなる訳はない。
夫は、ただ忙しかった。
戦地へ赴く男性達の為に、早朝から深夜まで、ブーツの金具を必死に作っていたから。磁石を用いた、着脱が楽で脱げにくい金具。それを、国の命令で大量に作らなければならなかったのだ。
美しい装飾品など、作る余裕も需要もない。今日はこんな物を作ったと笑うこともなく、夫はただ、疲れた顔をスープ皿に落としていた。
隣国との戦争が始まってから二年。戦況は悪化し、騎士団だけでは立ち行かなくなった我が国は、民間からも強制的に兵を徴収した。
生産する金具が全盛期の半分以下に落ち着いてきた頃、剣など握ったことがない夫にも、ついに徴収命令が下されてしまった。
「行ってらっしゃいませ」
涙も抱擁もない、普通の外出と変わらない挨拶で、夫を戦地へ見送ってしまった私。
結婚五年目の、哀しい秋だった。
夫が出征してから半年。隣国の圧倒的な国力には抗えず、我が国は多くの犠牲を払い敗戦した。
幸いなことに、田舎のこの地は隣国に攻め入られることもなく、物資が乏しい以外は今までと変わらぬ生活を送っていた。
何も出来ない私は、使用人達と共にただ畑を耕し、家を磨き、夫の帰りを待ち続ける。
きっと今日は、きっと明日こそはと待ち続ける。
『今日はもう終わりにしましょうか』と畑仕事の道具を片付けていた時────
あの日と同じ、肌寒い秋空の下を、黒い人影が歩いて来るのが見えた。
ボロボロの服、顔中を覆いつくす髭。その中で、見覚えのあるブーツの金具だけが、夕陽にキラリと光って。
抱きしめられた瞬間、夫だと分かった。
こんな風に、乱暴に抱きしめられたことなんてないのに。すぐに彼だと分かった。
温かいお風呂に入り髭を剃った夫は、別れた日とは比べものにならないくらい痩せてしまっていた。
家中の食料をかき集めて皿に盛ったが、よほど疲れているのか、ほんの数口しか食べられない。私でもスープ皿でもなく、遠いところをぼんやりと見つめていた。
夜、ふかふかのお布団の中で、夫は何度も魘されていた。繋いで寝たはずの手は離れ、苦しそうに胸をかきむしっている。
もし私達の間に愛があれば、「あっちに行け」と振り払われることもなく、癒してあげることが出来たのだろうか。ただ見守ることしか出来ない、無力な自分に肩を落とした。
老執事以外、男手を失ったこの家で、夫は帰宅した翌日から積極的に畑仕事を手伝ってくれた。その内どこかで慣れない力仕事を見つけてくると、毎日ヘトヘトになって帰宅する。
日払いのお給金を渡してくれるその手は、痩せて骨張っていて。かつての肉厚な職人の手ではないことが、無性に悲しかった。
何故工房に入らないのか。
私も家の誰も訊かなかった。
余裕とか需要がないとか、そんなことではない何かが、彼を苦しめ阻んでいるのだと感じていたから。
ある夜、ランプを消した寝室で、夫は私の手ではなく、胸元に顔を寄せた。
まるで幼子のような姿に、戸惑いつつも、そっと頭を撫でずにはいられない。
やがて夫は、こんな静かな雪の夜でなければ聞き取れない声で、心の内をしんしんと語り始めた。
次の日、仕事へ向かう夫を見送ると、私はすぐに工房へ入る。
冷気を纏う朝日に照らされているのは、年季の入った机や棚。古い木と金属の混ざり合った独特のにおいが、ツンと鼻を突いた。埃を払うなどの掃除は定期的にしているものの、道具の場所などは、夫が最後に使った時のまま動かしてはいない。
床から天井までぐるりと見回すと、私はいつもより丁寧にはたきをかけていく。決して触れなかった道具や小物をどかし、ひとつひとつ丁寧に。
一番大きな棚に差し掛かった時、奥に、他とは違う煌びやかな箱があることに気付く。
慎重に取り出し蓋を開けてみると、そこには丸い小さな対の磁石が、幾つも入っていた。
『死体から……昨日まで仲間だった遺体から、ブーツを剥ぎ取っていくんだ。穴の空いた自分のブーツを脱ぎ捨て、まだマシなそれに履き替えるんだ。遺体の傍で、自分が作った金具がギラギラ睨んで……だから、だからもう僕は作れないよ』
丸いそれにちょんと指で触れれば、夕べの夫のそんな言葉が甦る。
冷たくて、滑らかで……哀しい。
『僕は工房が嫌いだった。磁石を加工することも嫌だった。上手く出来なければ祖父に叱責され、父に殴られ、母に食事を抜かれたから。皆亡くなって、自分が当主になってからは、家と使用人達を守る為必死で。だけど……君と結婚してから少し変わったんだ。窮屈だった工房が広く感じて呼吸が出来た。ただの磁石が、時々宝石みたいに見えた。もしかしたら、愛ってそういうことなのかな?』
……そういうことなのかしら。私が今、貴方の宝石を握りしめているのも……涙を流しているのも。
『僕はもう入れないから、君にあの工房を全部あげる。道具を売れば、なかなかいい金額になると思うよ。……あ、棚のどこかに、普通とは違う箱があって。その中の磁石は、ブローチ用に加工したものだから、きっと一番いい値が付く。もう少し国内の情勢が安定したら王都で……』
私はふるふると首を振り、愛しいそれを朝日にかざした。
それから私は、ずっと考えていた。もらった工房を……宝石をどうするかと。
その内季節は春に変わり、庭には色とりどりの花が勝手に咲き始めていた。
あっ! と閃いた私は、クローゼットに飛んでいく。
結婚式で着た絹のドレスは、一番苦しかった時に小麦粉と替えてしまったけれど。白い木綿のワンピースが、手招きするように揺れていた。
夫の留守に、使用人達とあれこれ相談しながら、宝石を布と糸で加工していく。花を簡単に結べるように、ひとつひとつ仕掛けを作りながら。
庭中の花が満開になった休日。
私は玄関から外へ出て、テラスで身体を休めている夫の元へ、そっと近付いていく。
昼寝をしていたのだろうか。ぼんやりした細い目が、私を捉えて徐々に見開いていった。
花の中を歩くのは、花で飾ったドレスを纏う私。
値段の付けられない、世界にたった一つのドレスを────
夫は立ち上がり、テラスを下りて、ふらふらと私へ歩み寄る。そして満面の笑みを浮かべた。
「綺麗だ……すごく」
ドレスに触れた夫は、「あっ」と声を上げ、涙を流す。私は言葉にならず、こくりと頷く。
花を潰さないように優しく、でも、少し乱暴に互いを抱きしめた。
***
二度目の結婚式をしたあの後、夫は私と一緒に工房へ入れるようになった。
少しずつ道具に触れ、少しずつ動かし……
夫が言っていた通り、国内の情勢が安定してきた頃、人々は再び美しいものに目を向け始めた。
時代は流れゆき、今や夫が加工した宝石は、かつての貴族達だけでなく、平民にも飛ぶように売れている。
生花を服に飾る。その斬新なアイデアと共に。
溢れるほどの愛があっても、私達の間に子は授からなかった。
だけど、可愛いお弟子さん達に『お父さん』『お母さん』と慕われる。そんな素敵な人生を二人で歩んだ。
ありがとうございました。




