嗚呼、彼女はきっと空を飛ぶ。
昼休みの合図が鳴り、辺りはザワザワと騒ぎ始める。そんなクラスを横目にバッグを持って屋上へと早足で歩き去る。
屋上には本来鍵がかかっている筈だが、老朽化のせいで朽ちて扉を手で押せば開くほど、すんなり入れるようになってしまっている。
とはいえあまり知られているものでもないので、俺がいつも来ている限りは一人も人がいたことは無いのだが。
そんな事を考えながら屋上の扉を開いて、軽く辺りを見回すが先客はまだ来ていない。
良かった、まだみたいだ。少しばかり待てば来るだろう。
定位置であるベンチの前の冷たい石の床に座り、バッグから取り出した弁当を開く。
卵焼きをもごもごと頬張りながら空を眺めていると、扉が開き足を引きずった少女が現れる。
「あれ、もう来てたの〜?待った?」
「ん、ちょっと待って」
口の中に詰まった卵焼きを水で流し込む。
「ちょっと前に来たとこ、五分前くらい」
「良かった〜 長い事待たせてたんだったら、申し訳なさでどうにかなるところだったよ」
「よく分からない気負い方しないでくれ、怖いから」
変なことを口走っているが、待ち人登場というやつだ。
少女は目の前のベンチに深く腰掛け、菓子パンとペットボトルを取り出す。
俺はそれを横目に持ってきていたバッグを漁り始める。
「ふふふ〜ん、いつものように雑談と洒落込みましょ?」
俺は教科書に押し潰された救急セットを取り出し、慣れた手つきで傷だらけの足回りの処置を始める。
「ありゃ、いつもごめんね」
「やりたくてやってるだけだから、ところで話題でもあるのか?」
口に出してから気付いたが、雑談と言うやつに話題は要らないのではないか?いやまぁあるにこしたことはないのだが。
「話題〜?話題ねぇ...」
彼女は痛々しい色をした痣のある頬をかばうように、菓子パンを口に詰め込み始める。ウンウンと唸っている姿を見るのは中々に面白い。
「あ、そうだ 将来の夢とか面白いんじゃない?」
「将来の夢?」
「そ、やりたい事とかでもいいけどね」
そうだな、将来の夢か。無いという訳ではない。とはいえさほど面白いものでもないだろうが。
「将来の夢ね あるよ、警察官」
目の前の人間を守れるように、なんてそんな理由については口が裂けても言えそうにはない。
「へぇ~意外、なのにルールを破ってこんな所に居るんだ〜?」
これは痛い所を突かれた。確かにここに居るべきではない、しかしここに来なければ話も出来ないんだから仕方が無いだろう。
そんな会話をしているうちに、包帯が巻き終わる。
「うるさいうるさい、ほら足は終わったから顔出せ」
「はーい、ありがとうございま~す あ、触ると痛いからゆっくりやってね?」
「はいはい」
彼女は少しのあいだおとなしく処置を受け入れていたが、急に何かを思い出したようにハッとして勢いよく口を開く。
「ねぇ、私の夢は?聞かないの?ねぇねぇねぇ」
足をプラプラと揺らしながら、うざったらしく聞いてくる。
「あーはいはい。きみのゆめもききたいなー、ぼくもいったんだからそうすべきだよな〜」
自分でも驚くほどに心の籠もってない声がスルスルと出てきたものだ。彼女は少しだけジトッとこちらを見たが、まぁ良いかと言わんばかりに空を見上げながら口を開く。
「そこまで言うなら仕方ないなぁ〜、しょうがないから言ってあげるよ」
目の前のやかましいこいつは、やれやれといったようなジェスチャーで肩を揺らす。
「言いたくないか、そうかそうか じゃあ結構結構」
「急になんでさ〜!言わせてよ!」
腕をブンブンと振り回して俺をポコポコと叩く。
「痛いなもー 冗談冗談、良いよ 好きに語りな」
実際の所、特に痛くもない程度の力で可愛いものだが。
「まったくもう、イジワルなんだから」
彼女が一拍置いて次の言葉を出そうとした瞬間、彼女の雰囲気は一気に変わる。
「私ね、空を飛びたいの」
目の前の彼女は傍から見れば、突飛なことを口に出した。
俺が口を挟む間もなく言葉を紡ぎ出す。
「色んなしがらみから解き放たれて、先生からも、クラスメイトからも、親からも あなたでさえも私を捉えられない
全てを投げ出していきたい」
先程までのほんわかとして元気な彼女とは違い、どこか憂いを帯びて一つも言葉を詰まらせずに滑らかに言葉を紡ぎ出す。
「そんな風に空を飛びたい」
俺はこれを何度か聞いている。けれど、俺はそれを遮ることも指摘することもしない。そして俺が適当に話を膨らませる、 こうやって話せるのが嬉しいから仕方がない。惚れた弱みとでも言うやつだろうか。
そうだな、今日は前から気になっていたような事でも聞こうか。
「なぁ、それって俺もついていっちゃ駄目なのか?」
「うーん、それも面白いけど駄目かな でも、何からも飛び出したい。」
すぐに断られる、か。やっぱり俺じゃ駄目なんだろうな。
「そっか、しょうがない じゃあ感想でも聞かせてくれよ」
「仕方がないね、それくらいならしてあげる」
彼女は少しだけ意地悪な顔をして、わざとらしく面倒そうにそう口を開く。
「そうかい、良かった。ついていけなくてもそれなら面白そうだ」
「まったく効いてないなもう。まぁ君となら話してても楽しいからね、なんだって話してあげるよ」
ハッとさせられる。そうか、俺が拒絶されている訳ではないんだな。
「......ははっ なら良かった」
俺がそうやって少しだけ考え込んでいると彼女が口を開く。
「ねぇ」
「ん?」
「そろそろ終わる〜?」
一通り話し終えたからか、いつの間にか彼女はいつものほんわかとした雰囲気を取り戻していた。
そろそろ退屈が限界といった所のようで、足をプラプラとさせてこちらをつついてくる。
「やめろやめろ はい、大体処置終わったよ」
「やった、君ってばやっぱり医療の道に進んだ方が良いんじゃない?」
医療の道か、それもありだな。目の前の困っている人を救えるってのは変わらない。
「医療の道ねぇ、悪くないね」
「でしょ〜?それもタダで処置してよね!」
「やだよ、特別料金にしてやる」
「ケチ〜、でも君にしてもらえるならしょうがないかな〜」
「冗談だよ、いつでも来なよ」
それからも他愛のない会話を続けていると、彼女がボロボロの腕時計を眺めて何かに気づいたように落胆した。
「あっ、昼休みももう終わりかぁ〜、やだなぁ〜」
時刻は12時半を過ぎて少し経った頃で、もう10分もない位だ。
「サボるか?」
「私ってば真面目っ子だからしないよ」
彼女はこの後起こる事をきっと知っていながら、そんなことを口に出しているんだろう。
「不思議だな」
俺は空を見上げながらそう口に零す。
目の前の彼女は何を言ったのかと不思議そうにこちらを覗き込んできた。
その顔にはさっき俺が貼り付けたガーゼがあって、その下の痣のことが再び記憶の中から引き出される。
「なんか言った〜?」
彼女が何かを口に出しているが、俺の耳にはそれは届かない。ぐるぐると思考だけが回っている。
「どうして......」
彼女の体には会う度に痣が増えていく、この昼休みが終わった後も。
顔に、腕に、足に、きっと見えていないところにさえ。
彼女はその事を忘れた様に、あるいは忘れるように、いつも同じように夢を語りだす。
夢が実現するのはいつの日だろうか、十年後?一年後?一週間後?或いは明日だろうか。それは分からない、けれど。
嗚呼、彼女はきっと空を飛ぶ。
俺は足枷になれるだろうか。
「......おーい」
彼女の帰る場所になれるだろうか。
「おーい!」
唐突な大声が耳をつんざく。キーンと響く耳をさすりながら、見上げていた顔を彼女の方へと向けて口を開く。
「びっくりした、何さ」
「黄昏れてるところ悪いけど、チャイム鳴ったよ」
「......弁当食い終わってねぇ」