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フランは孤児だ。
小さい時に貴族に引き取られて、この屋敷に来た。目的は跡取り子息の身代わりだった。
貴族は伯爵で裕福だった。しかし表向きの商売とは別に、裏で高利貸しを営んでいて、恨みを買う機会が多いらしい。一人息子の身を案じ、身代わりを仕込むほどに。
フランは髪の色が少々珍しかったので選ばれてしまった。伯爵子息と同じように、金髪に紺色が混じっていて、根元が暗くなっているのだ。
引き取られてからは貴族子息としての礼儀作法、知識を詰め込まれた。それまで文字も書けなかったので、厳しく躾けられた。待遇は使用人よりも悪く、まるで奴隷のようだった。
使用人は働いた分の給料を貰えるし、休日もある。しかし身代わりに自由はなく、給料もない。生きる為の衣食住だけ与えられた。
時々、鞭で叩かれながら暮らし、十年が過ぎた。
身体は成長したが充分な食事を与えられているとは言えず、ひょろりと細長いままだ。貴族子息も細身の体型をしているので違和感はない。
身代わりは何をするのかといえば、敵対する貴族が出席するパーティーに、子息の代わりとして出席するのが主な仕事だった。
同じ派閥ばかりの安全なパーティーは本人が出向く。でもたまに参加を断れない不穏なパーティーがあるらしく、その時は身代わりの出番だ。
フランは出来るだけ目立たないよう振る舞う。
監視役の護衛も傍に張り付いているので、何か問題があれば護衛が動く。
子息と親しい友人は既に知っているので「今日は偽物か?」と笑うのだ。
子息も友人達も典型的な貴族子息で、フランの扱いは平民そのもの。親しくする事はないが、必要以上に虐げる事もない。その点は気が楽だった。
注意すべきは顔見知り程度の子息達と、伯爵の知り合いの貴族達。
そういう時は挨拶だけして、俯き気味に曖昧に微笑むようにしている。出来るだけ話し込まないようにして、長くなりそうな時は具合が悪いと言い、ハンカチで顔を覆い隠して退席する。そういう時の為に前髪を長く伸ばしているのだ。
その日も護衛に促されて、パーティー会場を後にした。
伯爵と敵対する貴族がずっと視線を向けてきていたらしい。フランは気付かなかったが、にやにやして気味の悪い様子だったという。
ほんの少し前に、伯爵はどこかの貴族と揉めたらしい。見張り役の護衛が、フランにそう説明してくれた。
まだ早い時刻だったが、足早に玄関ホールを出る。
入口にいたこの屋敷の侍従に馬車を回すように指示したが、なかなか来ないので、護衛が催促する為に立ち去った。
あまり早く帰るのは印象が悪いので、フランは正面入口から目立たない暗がりに移動した。
前庭の樹木の陰の、灯りの少ない場所だ。馬車が回されて来たらすぐ分かる場所。
そこで佇み、一人静かに馬車止めの方向を見詰めていると、脇腹に衝撃が走った。
「―――――ッ!」
あまりの痛みに倒れ込む。反射的に振り返ると男が立っているのが見えた。
僅かに降り注ぐ月光を背にした、侍従の衣服を着た背の高い男。逆光の上に光源がほとんどないので、顔がよく見えない。
焼け付くような激痛と恐怖に苛まれて、フランは尻餅をついた体勢でじりじりと後退る。
脇腹にやった手はぬるつき、血が溢れているのが分かる。
「……っ、はっ……っ……」
「悪いな。今回は出来るだけ苦しめろという命令だ」
誰にする言い訳なのか、男がポツリと漏らした。
大きく目を瞠るフランの目の前で、男は剣を振り上ろし、フランの胸元を大きく抉った。
鮮血が噴き出した。
フランの身体は地面に投げ出され、呼吸もままならない。小さく喘ぎながら首を捻り、何とか男を見上げた。
男は剣を両手で掲げ持ち、フランにトドメを刺そうとしていた。
その時、石畳を鳴らす足音が聞こえた。護衛が帰って来たようだ。
男はそれに気付くと、音も立てずに立ち去った。
「ジューク様?」
護衛が自分を探す声がする。
フランは痛みに震えながら、僅かに残った力を振り絞ってトラウザーズのポケットからそれを取り出した。
針金を編んで作った小さな指輪。
――マーフィー……。
「ジューク様!」
木の陰で倒れているフランを発見した護衛が、血塗れの身体を抱き上げた。気を失ったフランの腕がだらりと落ちる。
指の間から小さな指輪が零れ落ち、ポチャリと微かな音を立てた。落下したのはフランの血溜まりの中。
希望の象徴だった銀色の欠片は、僅かな輝きも目的も失った。