世界はまだ私を愛してくれているだろうか
世界はまだ私を受け止めてくれるだろうか。
問いかけたのは確か、物心着いたとき。
両親に愛されて居なかったいらない子供だったアズサは、ある日街を彷徨っていた。
扉から出された後、手がヒリヒリするまで叩いたのに開けてくれなかった。
お腹も空いていたし靴も履いてない。
お金も持ってないから、どれだけ歩いても、お店を見ても食べられることなど無理なわけで。
理不尽という言葉を知らなかった時、理不尽とは思わなかったけどお腹が空いたとそればかり。
近所の誰かが手を貸してくれたり、家に招いてご飯をくれたりというのは夢物語だともう少し成長した後、知った。
それに、靴下だけで歩くと目立つみたい。
それにしては誰も声をかけてくれたりもしなかったなと過去を思い出していた。
なにも言わないくせに、こちらを見ることは辞めないのだから、人というのは因果な存在。
同情するのに思うだけ。
それならされたくない。
損しているのはアズサだけ。
何か食べたい。
けれど、勝手に食べることは無理だった。
それを知られた時の恐怖を思えば、我慢した方が良かった。
意識が朦朧としても。
気絶したと知ったのは体をゆらゆらと揺さぶられて覚醒した時。
ハッとなる。
いけない、赤の他人に迷惑をかけたときもこの世で恐ろしいことが身に降りかかってしまう。
ダメダメ、立ち上がって平気ですって言わなきゃ。
名前はとか、電話番号はとか聞かれる前に立ち去らなきゃ。
慌てて走ると追ってくる足音に驚く。
も、もしかしてお巡りさんとかだったのかな。
そういう人は事情聞くまで離してくれない。
その後何が起こるのか分かっているのに、融通を利かせてくれない。
彼らが職務を達成するためだけに己という存在がどうなるのか、などということは些細な事なのだろう。
兎に角がむしゃらに走るアズサは、走りながらも足の感触に違和感を感じていく。
痛く、ない。
いつもならアスファルトがちくちくして、ごろごろして足をこれでもかと攻撃してくるのに。
ふわふわ、という感触に思わず逃げることを忘れ下を見る。
走る事と顔を下に向ける事は出来ない。
そんなことをしたらバランスを崩して転けると知っていた。
下を見て驚いた。
地面がふわふわしていた。
ふわふわしているなとは思ったが、ここはアミューズメント施設なのか。
首を傾げて難問を解こうとしたが、足音が聞こえて逃げている最中であることを今、思い出す。
逃げないと。
逃げないと酷い目に合う。
酷い目に遭わされるのは逃げている人からではない。
誰かに酷い目に遭わされるのに、更に嫌な思いをするなどなんのために今を飲み込んでいるというのか。
ぐっと足に力を入れて前へ。
しかし、想像していた雲のような柔らかさに走っても上手く進めない。
弾力があり過ぎるよう。
足を取られて転ぶのは時間の問題。
待ってくれと聞こえた気がする。
しかし、待って良いことなどこのカタ、一度だってなかった。
勿論、更に速度を早めた。
止まったら電話される。
そうなるとその日はただ、恐ろしいことのカウントダウンだ。
(いや、いやいやいやいやっ。私は悪くない、なにもしてない。構わないで。向こう行って)
なにもしてないのに。
ただ、この姿で居るしかない。
着替えは家の中で、家の中には入れないのだから、不可抗力。
ひたすら足を前後に動かす。
捕まるのはダメ。
「まっ、待ってくれ!そのまま行くと、下に落ちるからっ」
耳に聞こえてしまった内容に、反射的に止まる。
その間に相手は追いついた。
「つ、掴まないで。お願い、腕掴んだりしないで。ここから動かないから」
掴まれるよりはいつでも逃げられるように、自由にしてくれれば会話だけはする。
落ちることが本当なら、いっそ。
大怪我したら怒られないかも。
病院なら、公的な場所ならその場限りで避けられる。
家に帰ったら溜まった分辛いけど、一回一回よりまだ、良いかもしれない。
「分かった。分かったから進まないでくれ。本当に下は深いんだ。落ちたらその、あの世に行ってしまうから」
相手は男性だった。
男性というか、男の子。
喋り方がなんだか歳が上の言い方なので、てっきり大人かと思った。
が、アズサにとっては大人よりも警戒するべき年齢。
年齢が近ければ近い程、相手が残酷に振る舞ってくるのは経験から理解していた。
「なに?私に何か用?この格好は気にしなくて良いよ。それよりも家に帰れば」
追い払いたい一心で言葉を重ねる。
「え?ああ、まあ今は帰る時間じゃないし、雲の上の滝の方面に走るから追いかけるしかなくて。もしかして滝のこと忘れていたかな?この先は危ないから子供は特に行ってはいけないよ」
雲、滝、深い、という単語は全く頭に入ってこなくて耳にも馴染みがない。
アズサは物知りの逆を行く。
テレビもスマホも自由に使えないからクラスメイトの子達の話題にも乗れないことは、良くある。
「わ、分かんない。けど、向こう行って」
なにを言いたいのかさっぱりだし、それを指摘して笑われる前に話を打ち切る。
「それは無理だよ。君が滝の方に行って落ちたりしたら、助けられない。良かったら家に来なさい。今日はいいトトンが手に入って、みんなで食べようって話してたんだ。沢山あるから余るし」
知らないことを嘲笑われるのはいつものこと。
知らないものは知らないのに。
「トトン?ふ、ふーん」
食べに来いなんて、今まで言われたことがない。
あまりの驚きに知ったかぶりをしてしまった。
(後でバレたら怒るかも)
これ以上、相手をけんもほろろにできなくなった。
嘘をついた罪悪感のせい。
「食べよう。ね?あ、腕掴まれたくないんだっけ。じゃあ着いてきて」
優しく諭されて足がふらりと相手の後に追随。
これが嘘でしたと、なりませんようにと拳を固く握る。
着いて行って暫くすると景色が変わって目を疑う街並みに顎が外れるかと思った。
「家が、変」
「ん?」
「家、家、なにか、遊園地?」
まるでナーロッパな雰囲気の建物にファンシーな色合いのカラフルさ。
周りではぬいぐるみがふわふわと踊っている。
「こ、ここどこ?」
「知らないできたのか。滝知らなかったね。ここはぬいぐるみの街で有名な街だよ」
「そのまま」
「あはは、分かりやすいだろう?」
頷く。
分かりやすければアズサでも会話に入れる。
この街が複雑な名前をしていなくて安堵。
「君、えーっと。ああ、アズサだね。宜しく。この街はアズサがさっき向かった地面になっていた雲に見える綿が原産地として知られていたことが発端らしい。昔々ってやつさ」
名前をモゴモゴ教えた。
これが諸刃の剣にならなければいい。
という思考を全て無に帰す事をさらりと告げられていく。
メルヘンな説明にアズサはどう返せば良いのか。
同調?
否定?
無言?
「この街に来た人は全員アズサみたいな顔をするから、なにを考えているのは分かる」
クスッと笑って、その優しさしか感じない微笑みにホッとする。
「あそこがウチ」
「お父さんとかお母さんとか、私が来て嫌がらない?」
大人は顔で笑って心で怒る。
聞いても意味がないと分かってはいても、ついつい聞いてしまう。
子供は顔で嘲り心で殴りつけてくる。
「大丈夫。君が来たと聞いたら飛んで喜ぶ」
(……飛ぶの?)
飛び上がる、ではなく。
何度も説得されて渋々家の玄関へ向かう。
煙突なんて見るのは初めてで、アニメの世界だと感動する。
「煙突屋根だ」
「珍しくはないよ?あそこもあそこも全部付けてるから。入って入って。ここからでも甘くて美味しい匂いがするでしょ」
嗅いでみてと言われ鼻をくんくん。
甘くて優しくて、自分が居てはいけない香りがする。
「や、やっぱり、私」
断ろうとしたけど、扉が開いて途中で堰き止められる。
「あら、お客様かしら?」
アニメの世界のようなエプロン姿の女性に思わず魅入る。
「トトンが沢山あるからおいでって誘ったんだ。滝のことを知らないから、落ちる寸前で危なくて。冷や冷やしたんだから」
「まあっ。それは怖かったわね。さあ、来てちょうだい。この子が言った通り余るくらいあるから、あなたの分を食べてもらってまだまだ余るのよ」
男の子と母親に囲まれて、そのまま家へ誘導される。
家内はこれまたメルヘンちっく。
まるで玩具屋のミニチュア玩具を大きくしたようだ。
「焼きたてよ」
更に甘い香りが鼻腔を擽る。
お皿に乗せられたアズサだけの甘い甘いそれは、抗えないツヤツヤな輝きで、口の中に招き入れる他ない。
香ったときよりも味覚がもっと美味しかったと教えてくれる。
「美味しい!」
にこにこと不快な顔をすることのない人達も、同じようにテーブルを囲む。
「このトトンは家族とお祝いする時に食べることが多い。君も僕と母さんの家族だよ」
「う、うん」
なにを言っているのか相変わらず分からないけれど、彼らに家族と言われて涙がボロボロと流れる。
家族と言われた事は数あれど、お祝いは初めてだった。
「ふふ。泣き虫な私の娘ね。拭いてあげなくちゃ」
ハンカチを取り出して涙を拭いてくれるその様子に、不快に思っていない事を強く感じる。
そういうところだけは心眼が鍛えられてしまっていた。
トトンというものが結局なにか分からないけど、全て食べたので満足だ。
男の子に連れられて、家の前にあるベンチ2人して腰掛ける。
その際、ベンチに座る寸前ハンカチを敷いてくれるというやり方に、どこの紳士なのかとびっくり。
「びっくりした?実は一度はやってみたかったんだ」
彼も初めてだったのか。
それから沈む夕日を鑑賞。
「私、家族って言ってもらったけど。家族ってなんなのか実は知らない」
嘘つきも知ったかぶりも、なりたくなかった。
「そっか……この街はぬいぐるみの街だって話はしたでしょ」
吐露した分、男の子が返してくる。
「ぬいぐるみは綿を少しずつ入れて、完成させていく。一針一針、布を縫っていく。必ずいつかは完成する。君もそうやって綿を入れていけば家族になるんだよ」
言い終えたあと、告白するように父親の受け売りで母親に語った話なのだと、照れる。
丸々全てそのまま言ってしまったと白状する態度に、アズサは嬉しさで空まで飛べそうになった。
滅多に新規のお客が来ないので、いつか同じような相手が居たら言ってみたかったのだ、と語る。
夢が叶って良かったと言い、君も僕みたいに夢が叶えられるよと最後に気恥ずかしさを隠す事も忘れずに。
女の子と男の子は甘い香りのする煙突屋根のある街で、夕日の中で語ったように少しずつ家族になっていき、街の人達に囲まれて暮らすことになるのだった。
世界はまだ私を愛してくれていた