脅えた猫が懐くまで
その夫婦と出会ったのは、商会の仕事が忙しい最中だった。
妻を亡くして、仕事に没頭していて、気づいたらある程度の規模の商会になっていたのだ。
取引相手として、商業ギルドの会員として、何度か見かけた夫婦はいつも仲睦まじい。
だが、何の苦労もなく結ばれた夫婦ではないと、噂で知っていた。
王国から共和国に渡り、そしてこの国へと商会を広げてきたのだ。
この国は立憲君主制と議院内閣制の二つの制度が両立している国で、平民にも力がある。
貴族は半ば形骸化されているが、広い領地を維持して権勢を誇る家もあるし、名ばかりの貴族もいた。
数少ない貴族には議員になる権利が保障されるが、半分以上は平民出身だ。
だからこそ、入り込む隙も彼らには見えていたのかもしれない。
貴族を高慢ちきと罵る商人と、商人を金の亡者と侮る貴族。
両者の溝が深くなっていた時に現れたのだ。
正直なところ、貴族との取引はそこまで多くないし重要視もされていなかった。
だが、契約を切るとして、困るのは貴族よりも貴族に使われている使用人達だ。
彼らは同じ平民なので、罰を与えられる姿を見たいわけではない。
だからこそなあなあで続いていた関係を、その二人の商会が全て引き受けたのだ。
二人は貴族であり、未だ貴族籍を抜いてはいない。
ただそれだけの事を最大限に利用して、この国の貴族の財政状況を把握した上で、見合った物を見合った額で提供する。
野心的だが、実直さも信用もある夫エリックと、人心掌握が得意な妻シェリーの阿吽の呼吸で、瞬く間にこの国の貴族御用達の商会となったのだ。
儲けは大した事ない筈なんだが?と首を傾げる者もいた。
その辺りは妻のシェリーの手腕だろうか。
財産家から金を引き出すのが上手いだけではない。
名だたる商会の、奥方達もすっかり篭絡されているので、悪い噂も立ちようがなかった。
「いやはや、うちのかみさんも、すっかりあの商会の商品の虜でね……」
なんて言葉が聞こえるのは、何も商業ギルドの中だけではない。
不満を生まないようにか、色々な商会と提携を結び、全てを独占しないところもまた鮮やかな手腕だった。
中には商売が立ち行かなくなった商人もいたが、代わりに自分達の商会で雇用したりと人情にも厚く。
いつの間にか数字だけを追っていた私も、彼らに絆されていた。
夫婦は時々、商売仲間や客を招いて家で宴を開いていた。
美味しい食事と酒に、思わず口が軽くなるものの、それを悪用したという噂はついぞ聞かない。
私もうっかり、自分の身上を話してしまった。
妻のシェリーはにこにこと、私に言う。
「それなら、新しい奥様をお迎えになるのは如何でしょうか?」
「……え、いや、この歳だからなぁ……」
私はもう40に近い。
老人ではないが、今更結婚と言われてもぴんとこなかった。
シェリーは貴族でありながら、平民の商人でも客相手でも柔らかく丁寧な言葉で話す。
それもまた、彼女の魅力の一つだろう。
茶目っ気たっぷりの笑顔で、彼女は笑った。
「あら、幾つになっても恋しい相手がいると生活に張りが出ますのよ」
彼女の目は、仲間達と楽しそうに飲んでいるエリックに優しく注がれていた。
確かに、そういう相手がいるのは、羨ましい。
「……ふむ、じゃあ、良い人がいれば、紹介を頼むとするか……」
ぽつりと、独り言のようになってしまった言葉に、彼女は力強く頷いた。
「ええ。是非」
そして、引き合わされたのが、オリビアだった。
金色の髪に青い瞳の、美しい女性。
元侯爵夫人だが、離婚して籍は抜けているので、今は爵位は無いという。
彼女は吊り目で、気が強そうな見た目なのに、何故か警戒するようにこちらを見ていた。
何かに似ている。
ああ、いつか見た、裏庭の猫だ。
荒んだ目と、僅かばかりに期待するような、それでもすぐにそこを逃げ出しでもしそうな、あの雰囲気。
紹介したシェリーの手を中々放さないでいるところも、妙に可笑しくて思わず笑ってしまった。
オリビアは、笑った私をみて、少し気まずそうにシェリーの手をやっと放す。
「では、夕刻には迎えに参りますわ。お願いいたしますわね、マシュー様。楽しんでねオリビア」
頷きつつ、何かシェリーに言いかけようとして止めるオリビアは、やはり気まずそうに、目の前の飲み物を口に運んだ。
素直で可愛い人ですわ、年齢より幼いですけど、と言ったシェリーの言葉が蘇る。
「こんなおじさんで驚いたかな?気分が乗らなかったら、早目に切り上げても大丈夫だからね」
私の言葉に、オリビアはきょとんと目を大きく見開いた。
そして、首をふるふるっと横に振る。
「……別に、年齢とかは、その……。あ、私、夫以外の殿方とは、あまり、一緒に居なかったから分からなくて……」
そう言って、気まずそうに恥ずかしそうに頬を赤らめる姿は、確かに歳相応ではない可愛らしさがある。
まるで、気まずそうに食事を食べて、逃げようか躊躇しつつ、食事を見ている猫のようだ。
何となく、見た目からつい、猫を連想してしまう。
「そうか。じゃあ、町を案内しよう。この街には来たばかりだとシェリーさんから聞いているからね。行きたい場所がなければ、私の案内になってしまうが、構わないかい?」
そう言うと、また驚いたように目を見開いて、こくん、と素直に頷いた。
彼女の好みは分からないが、私の言葉一つ一つに驚くのはこちらも新鮮だったので、まずは近くの公園に行ってみた。
噴水が見事な公園で、美味しい氷菓の出店があるのだ。
一つ買って渡すと、オリビアはこわごわとそれを受け取る。
白いクリーム状の甘い氷菓が、パリパリの小麦を焼いて丸められた生地に乗っている。
近くの木製の長椅子の近くに行って手招きすると、彼女は大人しく付いて来て、私が置いたハンカチの上に腰掛けた。
いや、最初からすぐに座った訳ではない。
何故かハンカチを避けて座ったのだ。
ここに座るんだよ、スカートが汚れるだろう?と言うと、驚いたようにまた目を大きくして、それから小さくありがとうと言いながら座った。
そして、白い氷菓子を前に、小さな木ベラで掬いながら一口含み。
「んんん!」
大きく目を見開いただけでなく、白い頬を薔薇色に染めた。
口にした食べ物が美味しすぎて、尻尾の先までピーンと伸びた猫のようだ。
自分で恥ずかしくなったのか、口を押さえてこちらを見るので、私は笑って木ベラを使わずにそのまま白いクリームにかぶりついて見せる。
最初は少しずつ掬っていたオリビアも、最後はこちらを気にしながらもぺろぺろと舌を出して舐め、はむっとかぶりつく。
満足そうに頬を染めて、小麦の生地も食べ終える頃には、彼女の力も抜けていた。
ついでに鼻の頭にも白いクリームを乗せていた。
まるでお腹一杯になって、腹を上に向けて寝る子猫のようだ。
「美味しかった?」
聞くと、オリビアは勢いよく頷く。
「とっても、甘くて冷たくて、口の中で溶けて美味でした!……私、青空の下で食べ物を食べたのは初めてかもしれません」
「ここは気持ちの良い所だろう。木もたくさんあって、噴水の水が涼しげで。私も仕事に疲れると此処で休憩する事があるんだよ」
オリビアは頷いて、公園に目を向けた。
「ええ、綺麗ですし、落ち着きます」
そんな彼女の鼻の上には、まだちょこんとクリームが乗っている。
「オリビア、ちょっとこっちにおいで」
「え?……は、はい、何でしょう」
少し脅えるように上目遣いのオリビアの鼻の頭のクリームを指で撫でて綺麗にした。
「クリームが付いていたよ」
「ま、まあ、恥ずかしい……無作法を……」
真っ赤になって両頬を押さえるオリビアを、私は微笑ましく見つめた。
「いや、大袈裟だ。あの食べ物はそういう物だし、ああ、指で取らずに口で汚れを取らなくて良かったな。そんな事をしたら、君は凄い速さで逃げていきそうだ」
笑うと、想像したのか益々オリビアは顔を赤くした。
「そ、そんなに走るのは得意ではありません……」
「でも、走るんだな?」
問いかけると、少し迷ってオリビアは頷いた。
逃げるのならまだ、悪戯はやめておこう、と私も頷いた。
それから、商店が軒を連ねる商人街へ行き、色々な店を覗く。
人が多いのではぐれない様に手を繋ごう、というと彼女はそういうものだと思ったのか素直に頷いた。
色々な物を見るたび、驚いたり笑顔になる、その美しい顔よりも無垢さが心に沁みるようだ。
こんな些細な事で、そんなに歓びを露わにするなんて、一体どこに押し込められていたのだろう?
そして、彼女が目を留めた髪飾りの店で、どれが気に入ったか問いかける。
オリビアは真剣に選び抜き、蝶を模した髪飾りを、これ、と指差した。
私はそれを買うと、オリビアに贈る。
「ありがとうございます、マシュー様」
初めて名を呼ばれ、微笑まれて、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
警戒していた猫が、手の先を舐めてくれた、あの感動に似ている。
色々な店を見ていたら、日も傾いてきた。
「そろそろ帰る時刻になるから、最後に海でも見ようか」
「……はい、私、海を見た事がなくて、嬉しいです」
大きく目を見開いて、そして笑うオリビアの目に、日の光が反射して宝石の様に美しい。
商店街を抜けても手は放さないまま、海辺へと彼女を連れて行く。
「わあ……何て凄い……こんなに沢山の水があるのは初めて見ました」
「ただの水じゃないよ。海水だから舐めると酷く塩辛いんだ」
そういうと、彼女はむうと頬を膨らませた。
「そ、それくらいは本で読んで知っていますわ……!」
「そうかそうか。でも箱入りみたいだから、知らないかと思ったんだ。馬鹿にした訳じゃないよ」
私が笑うと、彼女はこちらを見て、あっ、と小さく言った。
そして、何故か、ぼろぼろと大きな涙を両目から零し始めたのだ。
まるで、女神が目から宝石を生み出しているかのようなそれに、私は暫く見入ってしまった。
「……大丈夫かい?」
「あ、やだ……わたくし……私、……こんなに色々な物を見せて頂いたの初めてで……やさ、優しくして…貰ったのも……」
泣いているのも気づかなかったように、私の言葉で初めて涙を流しているのに気づいたようだった。
戸惑う姿に、私の胸にも痛みが走る。
だから、君はどんな牢獄に囚われていたというんだ……。
私は思わず、ぎゅっと彼女を抱きしめた。
オリビアは抵抗せず、そしていつの間にか遠慮がちに服の裾に彼女の手の重みを感じる。
すぐに甘える事も出来ないほど、誰かに傷つけられたのだろうか?
囚われの姫を救うのは王子の仕事とはいえ、40代の王子と言うのは中々に厳しい。
でも。
「君を、守らせてはくれないか?君がもし、嫌でなければ。別に急がなくていい。また街を散歩しよう。まだ君に案内出来ていない場所もあるし、すぐ近くにも海辺の町や、山の麓の湖もある。大丈夫。君が嫌がることをしないし、そんな事をしたら私がシェリーさんに殺されるから」
オリビアは小さく腕の中で頷いて、そしてシェリーに殺されると言うと少し笑った。
そして、小さな声で、頼りない声で言った。
「あの、目を瞑っていてくださる……?…私…あの、顔が涙で汚れてしまいましたから……」
「ああ、分った」
ゆっくりと目を閉じて、抱きしめていた腕を放すと、彼女がごそごそと顔を拭いているような鼻をすする音がして。
最後は私の胸の辺りを一生懸命拭き始めた。
思わずくすぐったくて笑うと、笑わないでください、と注意を受ける。
まるで、毛づくろいが下手な猫みたいじゃないか?
シェリーが迎えにくる、朝待ち合わせた店へ行くと、既にシェリーは待っていて、横にはエリックと子供達も居た。
「遅くなって済まない」
声をかけると、シェリーとエリックがこちらを見て笑顔になる。
「逢瀬は上手くいったみたいで、何よりですわ」
そう言ったシェリーの目線は、私とオリビアの繋いだ手に注がれていて。
オリビアが驚いて手を放すのではないかと思ったが、彼女はただただ顔を真っ赤にしただけだった。
「ああ。結婚を前提に付き合ってもらうことにした」
「えっ!」
私の言葉に、オリビアだけが声を上げて驚いた表情になる。
シェリーとエリックはにこにこ微笑んでいた。
「嫌かな?」
「……いえ、嫌ではないです……驚いただけで……」
少し強引だったかもしれないが、少し位はいいだろう。
彼女の手をつないだまま引いて、席に座らせると、隣に腰掛ける。
「大丈夫ですわよ、オリビア。嫌になったらいつでもわたくしに相談して」
「厄介な後ろ盾がいるからな。私も慎重になるよ」
シェリーの言葉に私が返すと、エリックも同意をする。
「世の中には怒らせてはいけない人物がいるからな。その名をシェリーという」
「まあっ、帰ったらお仕置きをしなくてはね」
「ふふっ」
エリックの手をつねりながらシェリーが笑顔で返すと、オリビアが安心したように声をたてて笑う。
私がこの二人に、心を解かれたように、オリビアも心を癒されたのだろう。
でも此処からは私の仕事で、その仕事を誰にも譲る気はなかった。
荒んで脅えていた猫が、安心して甘えられるように、どう甘やかそうかと私は楽しい計画を立て始めた。
何故ずっと付き合っていたのに…と思われる人もいるかと思うので補足すると、ダニエルはオリビアを表に出したくなかったんですね。美人だからというのもあるけど、親に見つかると煩いので、学校後は別宅にGOでした。
読んでくださり、ありがとうございます。
誤字報告も感謝です。
少しでも、楽しんで頂けたら嬉しいです。
ブクマ・いいね・★を頂けると、大変励みになります。