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ただ、このままでは焼きづらいし、食べづらい。だから、まな板の上でクッキー生地を分けて棒状に伸ばす。まな板の下に氷を並べて、その冷気でクッキー生地を冷やしていく。
どうしてクッキー生地を冷やすのかと言えば、このままだと柔らかすぎて切れないから。
クッキー生地は、冷やすと固くなるの。
固くなったら、棒状のクッキー生地の表面にとっておいた卵白を塗って、濡れたクッキー生地に砂糖を満遍なくまぶす。
最後にクッキー生地をひと口サイズに切っていくのだけど。焼いている間に少し膨らむから、厚さは5ミリくらいに薄く切る。あとはオーブンで焼けば出来上がり。
………………はっ!
仕上げと焼くのは明日やろうと思っていたのに、気づけば身体が動いていたよ!
台所の作業テーブルの上には焼き上がった大量のクッキーがあって、美味しそうな匂いを漂わせている。
ボウルの中にも、まな板の上にもクッキー生地は残っていない。つまり、無意識に全部のクッキーを焼いたわけだ。
居間を見ると、クロムがソファに横になって寝息を立てていた。
あああぁぁぁぁ!待ちくたびれて寝ちゃったんだ!
クロムに駆け寄ろうとして、わたしは動きを止めた。
………今クロムを起こしても、散らかった台所を片付けないとベッドに横になれない。それなら、先に台所の片付けをしたほうがいいよね。
急いで、だけど、クロムを起こさないようにできるだけ静かに台所を片付けた。
片付けをしている間に粗熱がとれたクッキーは、カゴの底に布を敷いてから入れた。クッキーはカゴ3つ分になった。………ちょっと………少し?………だいぶ作り過ぎたみたい。
カゴをマジックバッグにしまい、わたしはそっとクロムに歩み寄った。
クロムの肩にそっと触れると、クロムが静かに目を見開いた。吸い込まれそうな、漆黒の瞳がわたしを見つめている。
「………起きてたの?」
「………いや、いま起きた」
クロムはふっと笑うと、わたしの頭に手を置いた。
「甘い匂いがするな」
「!………わかる?」
ワンピースの胸元を摘んで、くんくんと嗅いでみた。砂糖とバターの甘い香りが染み付いていた。材料を混ぜているだけではこんな匂いは付かない。焼いたから、匂いが付いたの。
「それがクッキーの匂いか。ケーキに似ているな」
「うん。材料はほとんど同じだから」
「ずいぶん楽しそうに作業していたな」
「そう、かな?」
何だろう。クロムの声が弾んでいる気がする。
わたしが夜ふかししてクッキーを焼いたこと、怒ってないのかな?クロムが待ちくたびれて寝てしまったこと、怒ってないのかな?
「そう固くなるな。エルが楽しめたなら、それでいい」
そう言って笑ったクロムの顔は、とても優しい表情をしていた。
「さて。もう遅い。寝るぞ」
クロムは上半身を起こしてソファに座ると、わたしを横抱きにして立ち上がった。そのまま寝室へ行き、ベッドに並んで横になる。
わたしは自分の身体に付いた甘い匂いと、クロムから漂ってくるせっけんの匂いに包まれて眠りに落ちた。
翌朝、いつも通り早く起きたわたしは、ギベルシェン達が仲良く埋まる畑を眺めていた。朝靄の中、ギベルシェン達の大きな葉っぱが揺れている。顔まで土に埋まっているせいで、誰もわたしが来たことに気づかない。ロコル=カッツェも、ロコルナ=ティルリも、じっとして動かない。
視線を畑全体に向けると、青々とした緑色が目に飛び込んできた。瑞々しい野菜や果物が、収穫を今か今かと待っているように見える。
………あれ?おかしいな。わたし、畑に成長の魔法をかけたっけ?
う〜ん。覚えがないけど、成長しているからには収穫しないといけない。腐らせてしまうのは勿体ないからね。
でも、ギベルシェン達には森の見回りという仕事がある。
ルオーの手紙に書かれていた通りに、王城から魔法陣を通ってラーシュ・ダイダロス騎士団長がやって来るかもしれない。早ければ、今日、やって来る。森に慣れたギベルシェン達に森の見回りをしてもらいつつ、騎士団長が現れたら保護して村に連れて来てほしいの。
それに、村の警護や洞窟の見張りも必要だし、いまは人手が足りないくらい。
アリアとサムサは、お願いしたら収穫作業を手伝ってくれるだろうけど、ふたりでは全体の収穫に何時間もかかっちゃう。
………村人に手伝ってもらう?………ううん。村人は、狩ってきた魔物の解体と加工作業で手一杯だよ。狩った魔物は、数日で終わる量じゃないんだもの。
じゃあ、どうしたらいいかなぁ。
あっ!そうだ。遺跡にある魔法陣を壊してしまえば、こんなに警戒する必要なくなるよね?だって、魔法陣が使えなければ、王都からはアルトーの街を経由して黒の森を通って来るルートしかないんだから。そうなれば隊を組んで、集団でやって来るはず。森を通るルートは決まっているし、集団で動いてくれたら見つけやすい。
よし。クロムとルオーに相談してみよう。クロムなら魔法陣を壊せるかもしれないし、ルオーはいい判断をしてくれると思う。