121 涙に濡れたガンフィ
「クロムにも、世界樹は見える?」
「………そうか。エルにも見えるのか」
クロムは一瞬、驚いた顔をしたものの、すぐに平静を取り戻した。
「あそこにある山々は、世界樹を守るために築かれた。世界樹をぐるりと囲む、天然の要塞なんだ」
クロムがエスカーレ霊峰を含む山脈を指して言った。
「そうなんだ。ずいぶん高い山だよね」
「ああ。あの山の山頂は、雲の上にある。山頂から周囲を見渡せば、雲海が見えることもある」
「雲海!わたしも見たい!」
「それはいいが、あの山にはうるさい奴がいる」
「それって、霊獣レイセスのこと?」
「………誰に聞いた?」
クロムの目が、驚きに見開かれた。
「ディエゴだよ」
「そうか。奴なら知っていてもおかしくはないな」
そう言って、クロムはため息をついた。まるで、霊獣レイセスに関わってほしくないと言っているようだ。
「いつか教えるが、いまはレイセスについて聞いてくれるな」
「うん」
クロムが「いつか教える」と言うのなら、大人しく待とうと思う。
それから、わたしとクロムは他愛ない話をして過ごした。だけど、いつの間にか眠ってしまったらしく、途中から記憶がない。
気がついたとき、わたしはクロムに抱かれてベッドに横になっていた。
夕食と、焼き立てのバヌナブレッドを食べ損ねてしまったことを残念に思う。
窓の外を見ると、真っ暗だった。朝までには、まだ時間がありそうだ。
だけど、目をつぶってみても眠気はやってこなくて。わたしは、温かい紅茶かミルクでも飲もうとベッドを抜け出した。
わたしは足音をたてないように素足で廊下を歩き、そっと厨房を目指した。
厨房には、先客がいた。ここにいるはずのない人物、ガンフィが椅子に座り、ぼんやりとコンロの火を見つめているのだ。
コンロには鍋が乗っているので、お湯を沸かしているところなのかもしれない。
「ガンフィも眠れないの?」
声をかけて、失敗したかと思った。ハッとして振り返ったガンフィの顔が、涙に濡れていたから。
ガンフィは慌てた様子で、シャツの袖で乱暴に涙を拭った。そして、力のない作り笑顔をわたしに向けてきた。
「エル様も眠れないのですか?」
その声は震えていた。
「………うん。紅茶か、温かいミルクでも飲もうと思って来たの」
「そうですか。私もです。でも、だめですね。普段、厨房になど入らないから、どこになにがあるのかわからない。しかたないので、白湯を飲もうとしていました」
「そっか。白湯もいいね」
白湯は、所謂、湯冷ましのこと。一度、沸騰させたお湯を、飲みやすい温度まで冷ましたものだよ。
わたしはガンフィに返事をしたあと、食器棚からカップを取り出すべく歩き出した。
「………なぜ、私が泣いていたのか、聞かないのですね」
わたしの背中に、ガンフィの声があたった。その声は柔らかく、でも寂し気で、とても悲しそうだった。
わたしは足を止めて、ガンフィを振り返った。ガンフィの頬を涙が伝っていた。
わたしは無言でコンロに近づき、その火を消した。そしてガンフィに床に座るように言うと、彼は不思議そうにしながらも大人しく従った。
ガンフィが床にあぐらをかいて背中を丸めると、ようやくその頭に手が届いた。わたしはガンフィの頭を胸に抱いて、その頭を優しく撫でた。
わたしの小さな身体では、ガンフィの大きな身体を抱き締めてあげることも、背中をさすってあげることもできない。せいぜいが、このくらいだ。
最初は身体を固くしたガンフィだけど、少しづつ身体の力を抜いてわたしに抱きついてきた。
よかった。いまのガンフィに必要なのは、言葉よりも、ぬくもりだと思ったから。これで、少しでもガンフィが慰められたらいいな。
ガンフィは、少しも泣き声をたてずに泣いた。泣いて、泣いて、涙が枯れるまで泣いた。
そうしてしばらく過ごしたあと、ガンフィは恐る恐るわたしから離れた。ガンフィの男前の顔は涙と鼻水でグシャグシャだったけれど、わたしの服はなんともない。魔力で作った服だからね。でも気分的に気になるので、こっそり清浄魔法をかけておく。
ガンフィはポケットからハンカチを取り出し、鼻をかんだ。ハンカチがビショビショだ。
そのハンカチにも清浄魔法をかけてあげると、ガンフィはお礼を言ってハンカチをポケットにしまった。
泣き腫らして目を赤くしていたけれど、ガンフィの顔はさっきよりスッキリしていて安心した。少しは力になれたらしい。
「エル様にはみっともない姿を見せてしまいお恥ずかしい」
ガンフィは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ふふ。気にしないで。ほら、わたしは子供だし、大人の女性にするのとは違うよ」
「申し訳ない。おんなこと、妻にもしたことがないのに………」
「ふうん?奥さんに甘えられないの?」
「私は男です。男は女性や子供を守る者であって、その逆は………」
ガンフィは恥ずかしそうに、わたしから視線を逸らした。