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寂滅のニルバーナ ~神に定められた『戦いの輪廻』からの解放~  作者: Shirasu
第8章 マグリブの地 ドワーフ王朝の落日哀歌
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第八章85 また初めから恋をしよう

 

 鬼神族とドワーフ族との講和会談が幕を閉じた直後――

 ベルハルトは、一張の天幕の前に立っていた。


 その幕を開ければ、向こうにレギーナがいる。


 あの時――

 戦場で鬼神軍の追撃部隊に追われていたベルハルトは、死んだと思っていたレギーナに命を救われた。

 その後、ドワーフ軍の陣へと戻った彼は、すぐさま軍議や講和会談に駆り出され、レギーナとゆっくり言葉を交わす時間も取れずにいた。


 本心を言えば――

 すべてを投げ打ってでも、今すぐに彼女を抱きしめに行きたかった。

 だが、レギーナはそういうことを許す女ではない。

 ならばこそ、逸る気持ちを抑え、まずは自分の務めを果たし、その上で再会を祝いに行こうと決めていた。


 今のベルハルトに、死を望んでいたあの時の危うい(うれ)いは、もはや感じられない。

 レギーナへの愛が、自分のすべてだったと気づき――そのレギーナと、ふたたび会うことができたのだから。


 しかし、ベルハルトの胸の奥には、どうしても拭いきれない不安が燻っていた。

 それは――別れ際のレギーナの、あまりにもよそよそしい態度。


 いつもの彼女なら、会議前のベルハルトの背を勢いよく叩き、

『さっさと行って、さっさと終わらせてきな! そのあと酒でも飲んで、ゆっくりと……ね♪』

 と、からかうように笑って送り出すはずだった。


 なのに……あの時のレギーナは、違った。


 ベルハルトの手が、レギーナの居るはずの天幕の布に触れる。だが、その手は微かに震えていた。

『もしも、この天幕を開けた先に、レギーナがいなかったら……?』

『あのとき俺を救ってくれたレギーナは、俺が望んで作り出した幻想だったのでは……?』

『もしかして……あれは精霊使いディケムが、死地にあった俺を救うために見せた幻だったのでは……?』


 そんな馬鹿げた想像が、頭の中を何度も駆け巡る。


 ――踏み出せない。

 まるで、目の前にあるのが天幕ではなく、“真実”そのものであるかのように。


 だがそのとき――


「レギーナさん。 落ち着いて、お水でも飲みませんか? もう少ししたら、ベルハルトさんも帰ってくる頃でしょうし」


 天幕の内側から聞こえたその声に、ベルハルトの全身が硬直した。


 ――レギーナの名。


 次の瞬間、ベルハルトは抑えきれず、ほとんど飛び込むように天幕を押し開けた。


「レギーナ――ッ!!」


 目の前にいたのは、驚きに目を丸くして、こちらを見つめるレギーナ。

 その表情も、仕草も、声も――紛れもない、あのレギーナだった。


(……あぁ、本当に……本当にレギーナだ。生きていてくれたんだ……!)


 しかし、どこかいつもと違う。

 その瞳には、見慣れた温かさが薄れているように感じられたが、ベルハルトはまだそれに気づいてはいなかった。

 胸の奥に張り詰めていた何かが、音もなく崩れ落ちていく。

 ようやく、ベルハルトは現実に触れられたのだった。


『レギーナ―――ッ!』

 ベルハルトは躊躇うことなく彼女を抱き寄せ、強く抱きしめた。


 しかし――

『うぅぅぅ………あぁあああ………うぅぅ』

 言葉にならない呻き声が漏れ、レギーナは必死に手でベルハルトを押しのけ、隣に立つ一人の少女の後ろに隠れてしまった。


 よく見ると、少女の影に隠れたレギーナは怯え、身体を小刻みに震わせている。


「レギーナ? ……ど、どうしたんだ!?」

 ベルハルトは愛する妻に拒絶された現実に、言葉を失い混乱を隠せなかった。



 レギーナが後ろに隠れた少女は確か……アンドレアと言ったはずだ。

 天幕の中には、あと三人の人物がいる。

 一人はイグナーツという名だった。

 そして残る二人は、強大な狂戦士(バーサーカー)の力を使うプリシラとアーロン。

 彼ら四人はディケムの直属、ソーテルヌ総隊の精霊部隊だと聞いている。


 この戦争で、ベルハルトは幾度となく伝説の狂戦士(バーサーカー)が顕現するのを目撃した。

 しかし、どの狂戦士(バーサーカー)も自我を失っていた。

 だがプリシラとアーロンだけは違っていた。しっかりと自我を保っていたのだ。

 それは驚くべきことであった。

 なぜなら、ベルハルト自身が太刀打ちできなかったダードラー将軍ですら、狂戦士(バーサーカー)化すれば自我を保てなかったからだ。


 そんなプリシラとアーロンを含む彼ら四人とレギーナが共にいることにも疑問は残ったが……

 それ以上に、今のベルハルトには、何よりもレギーナに拒絶されたことが理解できず、戸惑いが胸を満たしていた。


 するとベルハルトの後ろで前幕が開き、今度はディケムが天幕に入ってきた。

 天幕の外にもあと三つの気配が有る。

 たぶんディケムの近衛騎士ディック、ギーズ、ララだろう。


「ディケム…… なぁこれはどういう状況だ? なぜレギーナは俺を怖がる?」


 ベルハルトの質問にディケムは少し間を置いてから話し出した。


「ベルハルトさん。 俺も側近のマディラからの報告を受けて今駆けつて来た所です。

 レギーナさんとは共に旅をし、首都バーデンでは命を救って頂きましたから。

 でも彼女の状況は側近のマディラが細かく調べ報告書に書いてくれていました」


「報告書?」


「はい。 レギーナさんの現状は重度の記憶障害だそうです」

「ッ―――なっ!! 記憶…障害……レギーナは俺のことを覚えていないというのか?」


「正直、今はまだ詳しいことは分かっていません。戦後処理で多忙なこともあり、詳しい話はあの四人からの聞き取り調査に限られていますが……。あの戦いで大けがを負ったレギーナさんは、一命は取り留めたものの、大切な記憶を全て失ってしまったということです」


「記憶を全て……? だ、だがレギーナは俺を助けに来てくれたじゃないか!?」


「はい。それはレギーナさんの本能的な何かが影響したのかもしれません。そこの四人も、もしかしたら記憶が戻ったのではと期待しましたが……天幕に戻ってからのレギーナさんは、やはり元の記憶を失ったままだったそうです」


「そ、そんな……レギーナ……あの時、俺に手を伸ばし『愛してる!』と言ってくれたじゃないか!!?」


「ベルハルトさん、酷なことを言いますが……今のレギーナさんは重度の記憶障害です」

「ああ、それはもう聞いた……」


「ですが、ベルハルトさん……重度の意味は、単にあなたのことを覚えていないだけではありません。レギーナさんは言葉もまともに話せず、着替えも食事すら一人でうまくできない状態だそうです」


「ッ―――!?」


 ベルハルトは目を見張り、言葉を失った。

 天幕の中には重く沈んだ空気が漂っていた。

 それは……ベルハルトの歓喜が絶望へと変わったことを、皆が察していたからだった。



「ベルハルトさん。人族領ではエルフ族と共同でポーションの研究を進めています。現時点ではレギーナさんの記憶を取り戻すことはできませんが……必ずいつか、救える日が来ると信じています」


 ディケムは恩義あるレギーナを救うため、本気で研究開発に取り組み、『必ず救う』と力強く語ったつもりだった。

 しかし、ベルハルトからは何の返事も返ってこなかった。

 この状況では誰もが、ディケムの言葉を叶わぬ社交辞令として受け取っていた。


『………………』

 静寂が天幕を重く包み込む。


 愛する人が廃人となったとき、人はどのような選択をするのだろうか。

 もしベルハルトが、あれほど愛したレギーナを見捨てることがあっても、責める者はいないだろう。

 この優勝劣敗の種族間戦争の世界において、廃人となった者に付き添い、共に生きることは即ち死を意味するのだから。



『あ、あの―――……』

 重苦しい空気の中、レギーナを後ろに庇うアンドレアが涙を溜めて震える声で口を開いた。

 今まで天幕で話していたのは、親交を深め合ったディケムとベルハルトの二人だけだった。

 しかも彼らは、ドワーフ族の英雄と人族の英雄。

 そんな空気の中、一介の学生であるアンドレアが口を挟むのは、並々ならぬ勇気を必要としただろう。

 それでも、アンドレアは必死に歯を食いしばり、ベルハルトに想いを訴えた。


「そ、それでもレギーナさんは……! ベルハルトさんの窮地を、虫の知らせのように感じ取って、命を投げ出してでも飛び出して行ったんです! 自分の命をかけてでも、あなたとあなたの大切なものを……守ろうと…… うっ……必死に……戦ったんです……!」


 泣きながら必死に訴えるアンドレアの言葉は、最後の方は震えて言葉にならなかった。

 それでも――そんな彼女に、ベルハルトは無言のままゆっくりと近づいていった。


「………………」

 天幕の中に、静かな緊張が走る。


 この話題はあまりにも繊細だ。

 まだ世界の不条理を知らぬ若き兵士が、数々の理不尽を経験してきた将軍に口を挟むのは、軍の規律からすれば許されないことかもしれない。

 しかもこれは、夫婦の問題でもある。

 誰しも愛した人を見捨てたりはしたくない。

 しかし、どうしてもそうせざるを得ない状況に追い込まれた時、責められれば人は自分の弱さを隠すために激しく感情を爆発させることもあるのだ。



 アンドレアの前まで進み出たベルハルトの右腕が、ゆっくりと上がる。

 それを見たディケムは、いつでも飛び出せるよう身構えた――その時だった。


「ありがとう、アンドレア。君はここまで、レギーナを守って連れてきてくれたんだね」


 ベルハルトの手が、そっとアンドレアの頭に触れ、優しく撫でる。


「ディケム……どうやら、この旅でお前の“甘さ”が俺にもうつったらしい」

「前の俺なら、レギーナを殺して、俺も死んでいただろう。……でもな、今の俺は……もう一度、レギーナと恋がしてみたいと思ってる」


「こ、恋……ですか?」


「ああ。あの時のレギーナは、確かに俺のことを覚えているようにも見えた。……だが、今の彼女は、まるで俺のことを見ようともしない。

 見たとしても、それは他人、いや――警戒すべき“存在”を見る目だ。

 だけど、それならそれでいい。……そこから始めればいいんだ。まったくの片想いからな」


「片想い……ですか。でも、それは綺麗事だけでは済まない。身体的な介護の問題だって――」


「むしろ、それが“理由”になると思わないか? 傍にいる口実になる。

 それに……愛する人の世話なら、俺は苦にならない。

 レギーナが生きていてくれただけで……もう、嬉しくて仕方ないんだ」


「ベルハルトさん……俺は、あなたを心から尊敬します」


「ハハッ、馬鹿野郎……。

 何人もの女に言い寄られておいて、一人も選びきれずにいるお前に……

 俺とレギーナが積み重ねてきた“愛の時間”の重さなんて、まだまだ分かるまいよ」


 そう言われ、ディケムは少し苦い顔を浮かべるしかなかった。




 ベルハルトはアンドレアの頭から手を放すと、今度は彼女の背後に隠れるレギーナの前に片膝をつき、深く頭を垂れた。

「レギーナ。何度だって言うよ。俺と――もう一度、結婚してくれないか?」


 差し出されたベルハルトの手を、レギーナはそっと取った。

 ……次の瞬間、思い切り()みついた!


「「「「……へ?」」」」

「い“だだだだだだっっ!!!」


 噛みついたレギーナは再びアンドレアの後ろに隠れ、『シャーッ!』と威嚇している。


「ははっ……やっぱり俺、お前が好きだわ、レギーナ」



 威嚇するレギーナに、ベルハルトは優しい眼差しを向け、想いを込めて言葉を紡いだ。


「レギーナ……やっぱり俺は、お前がいなきゃダメだったよ」


「失敗するたびに、『お前がいてくれたら』って、何度も思った」


「お前のいない日常が、少しずつ当たり前になっていくのが怖かったんだ」


「確かに、お前はここにいたのに……時間だけが過ぎて、まるで初めからいなかったみたいに、みんながお前を忘れていく……悲しみをごまかすために」


「でも、俺にはそれが許せなかった」


「それでも、“別れは受け入れなきゃ”って……“忘れなきゃ”って、何度も何度も自分に言い聞かせたよ」


「……でも、忘れられるわけ、ないじゃないか」


「俺は、お前を……こんなにも、愛していたんだから」


「お前は、俺の一部だったんだから……」


 その言葉に、レギーナの前に立っていたアンドレアは、こらえていた涙をとうとう零した。

 そして、そっと後ろにいるレギーナの背中に手を添え、静かにベルハルトのもとへと押し出した。




 押し出されたレギーナは、少しよろけてベルハルトの胸にぶつかる。

 そのまま、ベルハルトは彼女を強く抱きしめた。


 腕の中で、レギーナは暴れ、噛みつこうとする。

 それでもベルハルトは、強く、決して離すまいとするように彼女を抱きしめ続けた。


 ――そのとき、暴れるレギーナの頬に、一滴の水が落ちた。

 そして二滴、三滴と、ポタポタと雫が降ってくる。


 不意の感触に驚き、レギーナが顔を上げる。

 頭上にあるベルハルトの顔は、涙に濡れていた。

 静かに、けれど止めどなく、彼の頬を涙が伝っている。


 ……暴れていたレギーナも、思わず動きを止めた。

 ただ、不思議そうに見上げる。

 そんな彼女を、ベルハルトはもう決して手放さぬと言わんばかりに、さらに強く抱きしめた。


「レギーナ、俺さ……この戦争が終わったら、お前のところに行こうと思ってたんだ。

 なのに、またこうしてお前を抱きしめられるなんて……本当に、馬鹿なことをしなくてよかったよ」


 レギーナは小首を傾げ、不思議そうな目でベルハルトを見つめている。


「たとえ、お前に昔の記憶がなかったとしても、そんなのどうでもいい。

 また一から思い出を作ればいい。出会ったばかりの頃の、あの頃の俺たちみたいに……

 お前はきっと、また俺を毛嫌いするかもしれない。だけど――それでもいい。

 俺は何度でもお前に告白する。何度振られても、何度だって……お前が俺を好きになってくれるまで、俺は何度でも『愛してる』って伝えるから」


 すると、記憶のないレギーナの腕が――

 強く抱きしめるベルハルトの腕に、そっと、優しく添えられた。



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