第八章81 鬼神国の末妹王女 シークリー・ジャイサール 2
私は戦場へと出立する前、報告書を送ってくれたパルメールがすでに本国へ戻っていると聞き、彼女のもとを訪ねることにしました。
どうやらパルメールは、あの“人族の英雄”に関する件で、ハワーマハル兄上に意見を具申し――結果、本国送還という処分を受けたのだそうです。
きっと彼女は、自らの目で見て、感じて、確信したのでしょう。
――『王祖様の帰還』であると。
そしてその確信こそが、兄上との間に対立を生み、彼女を戦場から退かせる理由となったに違いありません。
お父様が私に下された勅命――それもまた、「自分の目で見て、考えて、行動せよ」というものでした。
きっとお父様は、私がたどり着くべき答えを、初めから見据えておられたのだと思います。
……そして、私も今では、はっきりと確信しています。
あの戦場で金翅鳥王剣を放った人族の英雄こそ――
魔神ラフィット将軍の生まれ変わりであり、同時に、王祖ヤマト・アスラ様の生まれ変わりなのだと。
でも……それならば、なぜお父様は――たとえ間接的にとはいえ、ヤマト様がいるかもしれない人族と敵対する、この戦争を止めようとはなさらなかったのでしょうか?
もしかすると……この戦には、ドワーフの地を奪うという目的以上に、もっと別の“真の意図”があるのではないでしょうか。
そしてその真の目的こそが、王祖ヤマト様への本来の忠誠へと繋がっているのかもしれません。
けれど……それが本当に正しいのかどうか――
その答えが定まらなかったからこそ、お父様は悩まれ、あの祭壇の間に籠って祈られていたのではないでしょうか。
そして……
私の様子を見て、私が同じ結論にたどり着いたと察し――
だからこそ、あの時、私の判断にすべてを委ねると仰られたのだと思います。
次期王位継承権第一位である長兄アンベール兄上ではなく――
末妹の私に、こんな種族の行く末を左右するような決断を託すなど……あり得ないと思っていました。
……いいえ、きっとそれには理由があるのでしょう。
私が兄妹の中で、唯一の“娘”だったから。
おそらく、ドワーフ族のマリアーネ王女は、すでに人族――シャンポール王のもとへと送られているはずです。
そしてお父様は、私にも同じ役割を果たすことを望んでおられるのかもしれません。
――王祖様の怒りを鎮め、
そして、断たれてしまった絆を、再び結び直すために。
王族に生まれた“娘”に与えられた最大の役割――
それは、血と誓いによって、「繋がり」を築くことなのですから。
王祖様の帰還――それは、鬼神族にとって長年の悲願に他なりません。
ですがその一方で、代々鬼神族を束ねてきたジャイサール王家にとっては、王権を王祖様へ返還しなければならないという現実でもあります。
もし私が、王祖様と何の繋がりも持てなければ……
王権を失ったジャイサール一族は、様々な謀略に晒され、やがて権力の座から引きずり下ろされることになるでしょう。
――なぜなら、鬼神たちの忠誠は王家に向けられているのではない。
その信仰の矛先は、王祖ヤマト・アスラ様という“絶対なる存在”と、その御威光たる王権にこそあるのです。
そして今、もしジャイサール一族がその座を追われれば――
鬼神の国は再び秩序を失い、混沌に呑まれるかもしれません。
鬼神は、修羅の種族。
支配と統制がわずかに緩めば、心の奥底に眠っていた野心が目を覚まし、牙を剥くのです。
実際、これまでの平穏も、王家が力をもってその本性を抑え続けてきたからこそ保たれていた……それも、否定できない事実なのです。
私は、深く息を吸い、静かに覚悟を決めました。
――これからの私の判断が、鬼神族の未来を、そしてジャイサール王家の行く末を左右するのだと。
パルメールのもとを訪れると、彼女はひと目でわかるほどに憔悴していました。
その疲弊は、決してハワーマハル兄上に本国帰還を命じられたことが原因ではないはずです。
むしろ――
鬼神族の誰もがその胸奥に刻まれている、王祖ヤマト様への深い崇拝こそが、彼女をここまで打ちのめしているのでしょう。
崇めてきた神聖なる御方に、知らずとはいえ刃を向けてしまったという、計り知れぬ罪の意識……
それが、今の彼女を苦しめているに違いありません。
⦅……此度の戦に出た兵たちには、心のケアが必要になりそうですね⦆
「パルメール。最前線での諜報活動、ご苦労様でした」
「シークリー様…… もったいないお言葉、痛み入ります……」
力なく答えるパルメールの様子を見て、私は言葉を選びました。
ここで冗長に話すべきではないと悟り、端的に本題に入ることにしたのです。
私が彼女に会いに来た理由――それは、あの報告書に記された戦場での出来事について。
文書として書かれた客観的な記録ではなく、彼女自身の目で見て、感じたこと。
あの場にいた彼女だからこそ語れる、生の言葉と、生の意見を聞きたかったのです。
パルメールの話によれば―――
……何度も我が軍に顕現した、伝説の狂戦士たちの異常な覚醒。
……突如として降臨した、神の御使い――主天使の圧倒的な神威。
……さらには、第二の神の御使い、能天使の降臨。
……やがて天を埋め尽くすかのように現れた、一介天使の大群。
……そして、その“神の御使いたち”から我らを救った、一人の人族の英雄。
……英雄が放ったのは、王祖様の奥義――金翅鳥王剣。
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パルメールの語るところによれば、あの英雄が放った金翅鳥王剣は――
本来、我ら地上の種族では傷すら与えることが叶わぬとされる神の御使いに、致命の一撃を与え、滅ぼしてしまったのだと言います。
そればかりか――
その時、英雄の身体はまるで神のように、金色の輝きを放っていたのだと……。
近年、人族を“強種族”と呼ばれるまでに押し上げたとされる、あの英雄ソーテルヌ卿。
その噂話のひとつに――
人族の地に降臨した神の御使いを、彼が討ち滅ぼした、というものがありました。
けれど、我ら他種族の誰もが、そんな話を本気で信じる者などいませんでした。
『馬鹿な……話を膨らませすぎだ』
『どうせ、“一介天使”程度の存在を、“神の御使い”だとうそぶいているのだろう』
――と、皆が鼻で笑っていたのです。
何しろ、神の御使いとは――
歴史上、いくつもの文明を滅ぼしてきた、破滅の象徴。
その降臨はすなわち、“神の審判”の現れであり、
一度くだされたそれを覆すなど、誰にも叶わぬ絶対の決定事項とされてきたのですから。
けれど……パルメールの話では――
ドワーフ領でのあの戦いにおいて、ソーテルヌ卿はただ神の御使い・権天使を討ったのではなく、
さらに上位存在である能天使すら滅したのだと言うのです。
数百年に一度とも言われる神の御使いの降臨。
それが、この短い期間に幾度も現れ、そして……その全てを退けた人族の英雄。
――いや、もはや“王祖ヤマト様”と呼ぶべき存在……。
⦅……ま、まさか……⦆
⦅ヤマト様が、転生してまで求めた力とは―― 天の理すら、超えようとするもの……?⦆
私は、自らの想像の恐ろしさに全身が粟立ち、足元から冷えるような震えを覚えました。
鬼神族が崇めてきたのは、王祖様。
そのお方がもし、神にさえ届く力を手にしようとしているのだとしたら……
お父様は……そのことを、知っていて何も語らずにいるの?
⦅お父様……⦆
私が、その名状しがたい想像に怯えていると――
パルメールは、ぽつりと、本国へ送還された本当の理由を語り出しました。
それは、ハワーマハル兄様とバラバック叔父様が、
“自由貿易都市ポートブレアでの最終決戦”を決定したことに端を発していたのです。
『王祖ヤマト様に……刃を向けるおつもりですか!?』
――その一言が、パルメールの口からこぼれたのだと。
そして、その言葉こそが、兄上の逆鱗に触れたのでした。
次期王位継承権第二位のハワーマハル兄様とバラバック叔父様は、
表向きには皆と同じく、王祖ヤマト様のご帰還を唱えていました。
――しかしその裏では、現王政の維持を密かに画策していたとも、私は耳にしております。
ハワーマハル兄様は、王位継承に強い野心をお持ちでした。
ですが、あまりにも強すぎる野心は、ときに冷静な判断を曇らせてしまうものです。
これまでの戦果に満足し、慎重に歩を引いてさえいれば……
鬼神族が島国の種族でありながら、大陸の一角にまで領土を得たという、前代未聞の快挙――
その功績をもって、兄様と叔父様は英雄として名を残していたはずなのです。
けれどもし、民が崇める王祖様に刃を向けるという“禁忌”を犯したとなれば……
その誉れは一転、重き罪となるでしょう。
得てして、力ある武人は――
自らの強さを信じるあまり、民の信仰心の深さを軽んじてしまうものです。
ですが、“信仰”とはそれほどまでに強く、重く、動かしがたいものなのです。
――すでに引き絞られた弓。
その引き際を誤れば、鬼神族は今度こそ……
王祖様に見放されてしまうかもしれない!
ハワーマハル兄様が、自由貿易都市ポートブレアでの“最終決戦”を決断されたのなら――
もう、一刻の猶予もありません!
「パルメール。本国に戻ったばかりで恐縮ですが……私はこれより戦場へ向かいます。
あなたにも、共に来てほしいのです」
快く応じてくれたパルメールに対し、私はすぐさま彼女をダードラー将軍の副官の任から解き、
わたくし、シークリー・ジャイサール王女直属の“侍女”として正式に任じました。
これにより、パルメールの身の安全と立場は確固たるものとなりました。
そして私は、側近となった彼女を伴い――
一刻の猶予も許されぬまま、戦場への旅路についたのです。




