第八章79 殲滅
ディケムは、静かに戦場を見渡していた。
数えきれぬほど多くのドワーフの民が命を落とした。
騎士や兵士だけでなく、一般市民の中にも無数の犠牲者がいた。
若き娘たち、小さな子供たちさえも――この戦火に呑まれたのだ。
そして今、戦場の動きを見るかぎり、ドワーフの王――ザクセン・バーデンの生存は極めて望み薄だと判断せざるを得ない。
ドワーフ族は、この戦争であまりにも多くを失った。
それは、バーデン王から亡命行軍の計画を聞かされたときから、ある程度は予期していた現実だった
……だが。
実際に目の前で繰り広げられるこの地獄を前にして、ディケムは自分の無力さを感じずにはいられなかった。
今、ポートブレアの境界線の向こう側――かつてドワーフ領だったその地に、もはやドワーフの民の姿はない。
この亡命行軍で多くのドワーフの民の命が失われてしまったが、その尊い犠牲のおかげでそれ以上の多くのドワーフ民がポートブレアの境界線を超え救われたことも確かだ。
どれほど多くの犠牲を払ったとしても……
ドワーフの民が生き残ってさえいれば、いつか再興は叶う。
『民こそが国』と言ったバーデン王の言葉を思い出す。
自らの命すら掛けたバーデン王の厳しい決断は、一国の王として正しい選択の一つだったのだろうとディケムは思う。
偉大なる王の遺志に応えるために――
ディケムは心に誓った。
ポートブレアの地へとたどり着いたドワーフの民を、どんなことがあっても守り抜くと。
それが、命を賭して民を導いたバーデン王への、せめてもの弔いであり、誓いであった。
………しかし今現在。
境界線を超えたドワーフの民を追いかけて鬼神軍がまだ侵攻し、おおよそ半数の鬼神軍がポートブレア領の境界線を超えていた。
領内では人族軍とドワーフ軍の連合軍がドワーフの民を守るため戦っている。
人族軍ラス・カーズ将軍率いる王国騎士団。
ポートブレア領のベルリング大使率いるポートブレア・ドワーフ騎士団。
そして既に数人が帰らぬ人となってしまったがドワーフ王国が誇る十二将軍が率いる騎士団もまた、最前線で奮戦している。
ドワーフ軍にとって、今こそが正念場――。
まさに、後がない背水の陣と言っても過言ではない。
ポートブレア・ドワーフ騎士団は、人族軍の支援を受けながら、これまで最終決戦に備えた迎撃体制を時間をかけて整えてきた。
地形の利を徹底的に活かし、数多の罠を張りめぐらせ、迎え撃つ準備は万端に見えた。
そして今、人族軍も加わりドワーフ族のゴーレム部隊も総動員されている。
数の上では、連合軍はすでに鬼神族軍を上回っていた。
……だが、それでもなお――。
人族軍とドワーフ軍の連合軍は、鬼神軍に対して劣勢を強いられていた。
その理由はただ一つ。
鬼神族の一兵一兵が、常識を超えた“強さ”を備えていたからだ。
「鬼神とは……これほどまでに強大な存在だったのか……?」
初めて刃を交えたその瞬間、ラス・カーズ将軍も、シャンポール王国騎士団の歴戦の将軍たちも、思い知らされた。
自らの認識がいかに甘かったかを――否応なく。
“強種族”と称される今の自分たちの立場に、どこかで慢心があったのだ。
技術も鍛錬も誇るべきものがあると思い込み、戦場での優位すら当然だと信じていた。
しかし、現実は違った。
この戦場において、“鬼神族”という存在の前に、自分たちはまだ『強者』と呼ばれる資格すら持たぬのだと――
彼らはその事実を、血で刻まれるように思い知ったのである。
鬼神軍はなおも侵攻の手を止めず、
「このまま押し込め―――ッ!!」
「ドワーフどもを殲滅しろ―――ッ!!」
と、戦場に怒号が響き渡る。
すでに境界線を越えたというのに、撤退の気配など微塵も感じられない。
勝利を確信して気が緩んだのか、あるいは興奮に飲まれたのか。
鬼神兵たちはさらなる手柄を求め、先を争ってドワーフ兵に襲いかかっていた。
ポートブレアの領土境界を越えてなお、戦いの火は収まらない………
ディケムはシルフィードの力を使い、声を拡声させ鬼神軍に警告を行った。
精霊魔法を使った声の拡声は戦場の兵士一人一人の耳元へと確実に届く。
聞こえない事などはあり得ない。
「鬼神軍に告ぐ。貴軍は、すでに人族とドワーフ族が共同統治するポートブレア領の国境を越え、侵攻している。 この領土侵犯を、我ら人族軍は黙過することはできない。 即刻、停戦し、速やかに領域外へ撤退されよ――!」
ディケムの警告は三度行われた。
だが――鬼神軍が戦いを止める気配は、微塵もなかった。
そして四度目、ディケムは最後の警告をおこなった。
「警告はこれで最後だ! 停戦し速やかに領土内から撤退されよ! さもなくば―――………」
警告を続けていたディケムの前に『ガッシャ―――ン!』と、小さな落雷が落ちた。
雷鳴を聞いた兵たちは、何が起きたか理解できなかった。
だがディケムだけは分かっていた。
それは、鬼神軍の一兵が放った一本の矢。
ディケムを狙ったその矢を――ラトゥールが、雷で撃ち落としたのだ。
⦅………………⦆
ディケムの脳裏に『ギリッ!』っと怒りに震えるラトゥールの姿が浮かぶ。
ラトゥールは、どれほど些細なものであろうと、ディケムに向けられた敵意を決して許さない。
たった一本の矢――
しかし、その矢は戦局の流れを変える決定打となった。
それは単なる一兵の軽挙ではない。
その行動こそが、鬼神軍全体がいかに自制と規律を失っているかを、明確に物語っていたのだ。
「鬼人軍の答えは受け取った…… ――それでは、これより粛清を行う!」
ディケムは静かに手を上げ、ハスターの指輪から鬼丸国綱を召喚する。
漆黒の刀身が空気を裂き、彼の手に収まった瞬間、詠唱が始まった。
「天・元・行・躰・神・変・神・通・力――……」
ディケムはマナの本流より力を引き出し、全身へと巡らせる。
そしてそのマナを、淀みなく鬼丸国綱へと注ぎ込んでいく。
これまでの奥義においては、刀身が光を帯びる程度だったが………
だが今――ディケムの肉体そのものが、天使と相対した時と同じく、金色の輝きを放ち始めていた。
彼が平常時には封じていた“神気”を、今まさに解き放ったのだ。
その神気までもが刀に注がれていく。
注ぎ込まれた神気の奔流が臨界点まで達したが、鬼丸国綱が壊れる気配は無い。
まるで、最初からそのために鍛えられたかのように――
この刀が、神気すらも受け止めるよう設計されていたとしか思えなかった。
そして――ディケムは奥義を放った。
≪————金翅鳥王剣!————≫
天空すら裂くかの如き、神威の一閃。
解き放たれたその一撃は、もはや“剣技”の域を超えていた。
ポートブレアの境界線をなぞるかのように、ディケムの奥義が放たれた。
神気を宿したその一太刀は、大地を穿ち、地表を引き裂き、戦場を貫く巨大な地割れを生み出し、鬼人軍を二分した。
その断裂はあまりにも深く、底は見えず、渡るには橋を要するほどの広さであった。
地を割る一撃――それはもはや人の業ではない。
まさしく神の御業。
その光景は、かつてドワーフ族に伝わる伝説――
大岩トロル・リギエナを一閃で両断したという、伝説の再現だった。
勝ち戦に酔い、高揚のまま我を忘れていた鬼神兵たちは、
まるで冷水を浴びせられたかのように、その場に立ち尽くした。
かつて自分たちが目の当たりにした、あの天使との戦い――
想像を遥かに超えるその力が、今や自分たちに向けられていると悟ったからだ。
その現実が、鬼神兵たちの心から熱を奪い、全身を凍りつかせていった。
しかし…… 時はすでに遅い。
「ラトゥール――殲滅せよ!!」
ディケムの号令と同時に、ソーテルヌ総隊が一斉に動き出す。
地割れより手前、ポートブレア領内に侵攻した鬼人軍にソーテルヌ総隊の総攻撃が開始された。
ディケムの号令は風の自然神へと神格化を果たしたシルフィードの力により、戦場のすべての味方兵士――その一人ひとりの耳へと、確実に届いていた。
「引け―――! 引けぇえええええ――――ッ!!!」
ラス・カーズ将軍率いる人族軍とドワーフ軍の連合軍は一斉に戦場から撤退を始めた。
それは、間もなく始まる――ソーテルヌ総隊の超々火力による殲滅攻撃の巻き添えを避けるためだ。
しかし境界内に侵入している鬼神兵達にはディケムの号令は聞こえていない。
否、ディケム自身が、意図的にそうしたのだ。
何の前触れもなく戦っていた相手が一斉に退却を始めたのだ、先のディケムが放った一打で止まっていた鬼神軍だったが、欲深い指揮官はどこにでもいる。
敵が敗走に転じたと判断した一部の部隊が一気に勝利を掴む為、追撃の号令を発したのだ。
『このまま一気に攻め込め――ッ!』
『進めぇ――――っ!! ……なっ!? ひ、ヒィィッ……!!』
しかし――
戦っていた敵が一斉に戦場を引き、静寂が戻る。
鬼神兵たちはようやく周囲を見渡す余裕を得た。
そして、気づいてしまったのだ。
――これまで動くことのなかった“恐怖の象徴”が、ついに動き出していたことに。
視線の先、ポートブレアの城壁上。
そこに整然と並んでいた竜騎士たちが、無言のまま、ゆっくりと――しかし確実に、その翼を広げ始めていた。
鬼神兵たちは、戦のさなかふと思っていた。
『あの竜騎士たちは、ただの威圧のためにいるだけではないのか?』
『実のところ、本気で戦う気などないのではないか?』――と。
だが、その裏で。
心のどこかでは、確かに“願っていた”のだ。
『頼む……動かないでくれ……!』
そして今――
その恐れていた部隊が、ついに動き出してしまったのだった。
間を置かず、鬼神兵たちの恐怖をさらに掻き立てる異変が起きた。
それまで雲一つなかった晴天の空に、突如として不自然な暗雲が立ち込めはじめたのだ。
黒い雲は見る間に空を覆い尽くし、あたりはまるで夜のような闇へと包まれていく。
ゴロゴロと唸る雷鳴、閃光を伴って走る稲妻、そして空中を走る放電現象――
そこに、膨大なエネルギーが蓄積されていることは明らかだった。
――そして、最悪の予感は的中する。
ズドォンッ!! バリバリバリバリ――――――!!!!
ズドォンッ!! バリバリバリバリ――――――!!!!
ズドォンッ!! バリバリバリバリ――――――!!!!
・
・
・
耳を劈く雷鳴が戦場を揺るがし三〇を超える無数の落雷が一斉に地に落ちた。
三〇を超える落雷が一斉に落ちる事など自然ではありえない現象だ。
しかも、その雷撃が落ちたのは――
ディケムの地割れよりも手前、ポートブレア領内に侵攻した鬼神軍だけだった。
領外の鬼神軍にも、すでに撤退した人族・ドワーフ連合軍にも、一切被害はなかった。
まるでそれは、天が“裁くべき者”を選び出したかのようだった。
境界線だった崖の対岸で、鬼神族軍の兵たちは呆然と立ち尽くしていた。
ただ、味方の軍が雷に打たれ蹂躙される光景を、為す術もなく見つめるしかなかった。
生と死を分けたものは――
それが、境界を越えてしまったか、留まっていたか。
ただ、それだけだった。
いまや境界線は、底の見えぬ巨大な地割れとなり、行き来する術も絶たれている。
この境界線を挟み惨劇は容赦なく進行していた。
一斉に降り注いだ雷撃は、今なお戦場を容赦なく貫き続けている。
その轟雷の合間を縫うように、竜騎士たちが空を舞っていた。
飛竜は、火を吐き、雷を纏い、吹雪すら巻き起こす。
その背にまたがる騎士たちは、剣技と魔法を自在に操り、上空から侵入兵を狩り落としてゆく。
もしこの雷が自然現象であったなら――
最も高く飛ぶ竜騎士たちこそ、真っ先に雷に撃たれていたはずだ。
だが実際には、雷は彼らを避けるように走り、むしろ彼らに向けて放たれた攻撃を焼き払っていた。
いまや、この戦場は完全に――雷帝ラトゥールの領域と化していた。
この場での生と死の選別は、すべてラトゥールの意志に委ねられている。
もはや、それは“戦”ではなく、“裁き”であった。
そして――
ズゥーーン…… ズゥーーン…… ズゥーーン…… ズゥーーン……
戦意を失いかけていた鬼神兵たちの耳に、今度は異質な地響きが届いた。
重く、鈍く、腹の底を打つような不吉な振動――
「こ、今度は……何だ……?」
「あ……あれは……」
「「「ひっ……ひぃいいいいいい―――ッ!!!」」」
音の来る方角――ポートブレア東城壁。
その影から、信じ難い“それ”が姿を現した。
のそのそと、威圧的な静けさを纏って現れたのは――巨大な竜。
その鱗は黒に近い深紫、所々が青白く発光し、体内に膨大な雷を蓄えていることが一目で分かる。
降り注ぐ雷鳴の中、雷光に照らされながらゆっくりと現れたその姿は、まさに“厄災”。
鬼神兵たちの誰もが、本能で理解していた。
「あぁぁぁ………あれは……」
「雷嵐竜シュガール……さま……!」
空に雷鳴が轟く中、雷嵐竜シュガールはその巨体をゆっくりと戦場に踏み入れた。
重く沈んだ足音が地を揺らし、まるで大地すら竜の到来に怯えているかのようだった。
そして――
シュガールは天を仰ぎ、口を大きく開く。
瞬間、空気が張り詰めた。
時間すら凍りついたかのような沈黙。
次の刹那――
天を貫く咆哮が放たれた!
ガアアアアアアアアアアアアアア――――ッ!!!!
大気が裂け、雷鳴が炸裂する。
その咆哮は音というより“震え”だった。
鼓膜ではなく魂に響く震動――鬼神兵たちは両膝をつき、耳を塞いでもなお脳内を焼かれるような衝撃に身を震わせた。
シュガールの体から放たれた無数の雷光が空へと昇り、黒雲の中心へと吸い込まれていく。
直後、空が閃光で爆ぜた。
――そして、落ちる。
バリバリバリバリバリッ!!! ドゴォォォォン!!
雷嵐が地を薙ぎ払った。
広範囲にわたる爆雷が侵入していた鬼神軍の一角を一瞬で吹き飛ばし、兵士も装備も何もかもが黒煙の中に消えた。
まさにそれは、**竜の一喝がもたらす“天の粛清”**だった。
誰も抗えない。誰も逃れられない。
ただ、裁かれるのを待つのみだった。
――既に、大勢は決している。
だが、それでも戦場には、なお死の嵐が吹き荒れた。
それはラトゥールの意志……いや、“魔人族”ラトゥールとしての冷徹な教示。
主であるディケムが止めぬ限り、彼女は徹底的に敵を滅し尽くす。
この戦場において、ディケムはすでに一度だけ鬼神族に情けを与えた。
だがその慈悲を踏みにじり、境界を越えた者に対して――ラトゥールは一切の容赦を持たない。
これは単なる怒りではない。
今後、鬼神族との関係を明確に定め、主に抗おうとする気すら抱かせないための“示威”――
彼女は恐怖そのものを記憶に刻みつける。
戦場に立った者すべての魂に、“二度と逆らえぬ絶対者”の名を焼き付けるために。
―――その瞬間だった。
戦場を貫くように、魔法で拡張された声が響き渡る。
「お……王祖様―――ッ!! どうか……どうか、これ以上は……!」
「お願いです……! どうか、お止めください!!」
「王権ジャイサールの名にかけて……われら鬼神族は、ここに停戦を――! 停戦を強く、願い入れます!!」
それは女性の声だった。
必死の懇願、喉を裂かんばかりの叫び。
もはや、戦場の優劣は語るまでもない。
その声は、敗北の宣言だった。
燃え盛る戦場の最奥に立ち尽くしながら、鬼神族は――ついに、膝を折った。




