後編
「飲み過ぎたかね」
霧のような雨の中を、服をしっとりと濡らしながら二本の脚で歩いている。青灰色の猫の顔にも無数の水滴。
「酔うようなモン飲んでないだろ?」
からかうような声は手から下げた傘から聞こえた。勿論傘は閉じている。
「飲み過ぎた、とは言ったけどね」
すたすたと歩く足取りはしっかりしている。路面は濡れているが、白い足袋には染みも汚れも見当たらない。
「酔ったなんて言ってないだろう?」
「そりゃそうだけどな」
「で……」
猫が目を細める。その視線の先には、のっぺりとした円筒が雨に濡れている。
「どういうことなのかねぇ」
その円筒の向こう、ビルの壁には、看板に手をかけて登ろうとする、半生ボディ。
「……なにをしてるんだと思う?」
猫の目は、その生身の体をメカで補強したような人間の動きを追っている。
「聞くなよ。見たまんまだろ」
「ボルダリング、というのだったかね」
顎に手をやる猫。
「そんなちゃんとしたもんでもないだろ」
「ある程度登ると看板も無くなるだろうに、どうするんだろうねぇ」
看板というのは人に見られるためにある。皆生身よりはかなり見えるとはいえ、そこまで常識はずれな視力を持つ者もいないこの町の看板は高くてもせいぜい広報バルーン程度の位置までしか設置されていない。店のアピールも実際には位置情報やビーコンを使って直接データを送る方式が主である。
「爪でも立てて壁を登るんじゃねぇの?」
いつの間にか円筒ボディが近くに立っていた。しかしそれを意に介さず傘は言葉を続ける。
「ほれ、あんな風にさ」
猫も視界の端に円筒を捉えてはいる。が、今は壁を登ろうとする半生ボディの方が重要だった。
「ふむ……」
自分に彼らの意識が向いていないことを悟った円筒ボディは、レンズ脇に仕込んでいるであろう小さなランプを点滅させた。
「ふむ」
視線は動かさず、しかし視界の隅に捉えたその光は猫の目にはしっかりと見えている。もちろん猫にはそのような通信を受け取る機能はない。しかし、妖怪である。人の意志には敏感に反応する妖怪である。指向性を持って送りつけられる光信号は、データそのものは読みとれなくともその光に乗せられた意志は、猫には確かに伝わるのだ。
「なるほど」
猫の目がすう、と細くなる。
「どうした?」
手の中の傘が問う。
「なに、安い挑発だよ」
「その安い挑発に乗るんだろ?」
「子猫でもあるまいし、そんな」
「子猫みたいにウズウズしてるんだろ?」
ふっ、と猫が息を吐く。視線を雨に濡れたなめらかな円筒に落とし、傘を畳みながらその横を通り過ぎる。すれ違いざまにぽんぽんと平らな面を叩くその行為にはいかなる意味があったのだろうか。
「ま、気になることもあるんだよ」
畳んだ傘を背負い、雨に濡れながら空を見上げる猫。ビルの隙間には厚い雲しか見えない。視線をゆっくり下げていけば、パイプやケーブル、看板、今まさに登っている半生ボディといったものが目に入り、猫にとってはさほど難しくないルートが見えてくる。
「人が人の体を棄てても、猫や鳥にはならないのだよねぇ」
高いビルを建ててみても、機械の身体を得てみても、人間は積み重ねた平面の世界で生きている。空間把握能力の違いなどという言い訳は、脳の機能も拡張できる現代では成り立たないはずなのに、だ。
「登ろうと決めても、それでも尻から火を噴いて飛んだりはしないんだねぇ」
とりあえず手近な、路上にたてられた看板に飛び乗る。そこからパイプ、看板、ひさし、看板。
「このへんは誰が登っても同じだろうね」
看板はある程度の高さから上には無くなってしまう。下から見えなければ意味がないからだ。とはいえ、猫の身体能力であればその先も大きな違いはない。足の乗るところに足を乗せ、手の届くところに手をかける。下を見るとそれなりの高さになっている。いつのまにか半生ボディは追い越していた。
「でも、まだまだ上かねぇ」
落下した連中の破損具合を思い出す。
「でもなぁ」
背中から傘の声。と、ほぼ同時に壁に水平にラインが表示される。そして流れる警告の文字。気にせず手を上に伸ばす。
「ん?」
ブゥン、という低い音とともに、猫の身体を衝撃が通り抜けていった。同時に壁から離れる手足。
「なっ」
落ちていく猫。
「なるほどねぇ……」
身体を回転させ、背中から傘を抜き、開く。
「傘ってのは、そんな風に使うものじゃねぇぞ」
「まあ、他になかったしね」
ふわ、と着地する猫。
「そんなことより、話を聞きに行かないとねぇ」
「あいつはどうするんだ?」
あいつというのは今やっと猫が叩き落とされた高さの半分くらいにたどり着いた半生ボディのことだろう。猫が少し首を傾げ、髭をのばす。
「やりたいようにやらせてやろうよ」
「ふぅん、そういうもんかね」
傘の声を聞きながら、すっと細くなった目は、何を見ていたのだろうか。
「探したよ」
土砂降りの雨の中、傘を差して歩く猫。雨音が声をかき消してしまうが、気にする様子もない。
「いいや、こちらから会いに来たんだよ」
のっぺりした円筒の表面を水が勢いよく滑っていく。ビルの裏の細い通りにはほかに人影はない。
「落ちて弾けるところが見たかったんだがなぁ」
円筒は振り返らず、立ち止まった。
「あの程度の高さから落ちて弾ける猫はいないさ」
するりと円筒が向きを変える。レンズの奥で光が瞬いた。
「猫、なるほど本当に猫なのか」
「そう見えないかい?」
「いろんな見た目のヒトがいるだろ?だから普通はそういうボディなんだと思うじゃないか」
また、レンズの奥でチカチカと何かが光る。猫がそれに軽く頷いたように見えた。
「普通は、ね」
ヒゲを弄る猫。
「そういうのは嫌いなんじゃないのかい」
「まあ、そうだけど……ってやっぱりわかってる《、、、、、》んだ」
「紛い物の宿命だねぇ、それっぽい逸話から逃れられないのは」
傘を軽く左右に回す。水滴が花のように散る。
「それでいて、それに徹することもない。つまらないねぇ」
刀の柄に手をかけながら距離を詰める。
「待てよ、この体は」
「知ってるよ。その子が教えてくれたんだからね」
傘の陰で、猫の身体と円筒のボディが重なった。
「それに、もともとそういう物語だっただろう?」
あまのじゃくは殺したうりひめこの皮をかぶってなりすます。しかしそれはばれてしまう。きっかけは死体が喋るのだったか、見ていた小鳥が告げるのだったか……
「結局はよくある昔話だよな」
「そうなんだけどねぇ」
傘を傾け空を見る。いつものように雨が顔を濡らす。
「……なんかこう、すっきりしないねぇ……」
「で、上には行ったのかい?」
バー「一つ目小僧」。マスターが、浅い皿に入ったオーガニックオイルをいつものように猫の前に置く。
「行くつもりなら壁なんてのぼらないよ」
皿に顔を近づけ、舐める。
「そういうものかい。しかし納得は行ってないようだね」
マスターの大きなレンズには猫の顔が映っている。
「納得の行くことなんて、ここではめったにないんだろうねぇ」
声は水音に混ざって聞こえてきた。
「ま、それでもここで飲んでたら、それでもいいかという気にはなるんだよ」
外に出ればまた霧のような雨。まだ暗くもなく、かといって明るくもないそんな時間。
「ああ、そうだった」
行き交う人々の中に、猫にとって見分けのつきやすい何者か。
「ま、それはそれ、か」
「それでいいんじゃねえかな」
そんなことを言いあっているうちにも、発光チューブの看板が点りはじめ、周囲は徐々に夜の景色に切り替わり。
この町の雨は、止むことがない。